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#125  いじめについて考える(2)


無意識に群れをつくることがなぜいじめに関係しているのだろうか。

それは、群れ(共同体または仲間)とは内(味方)と外(敵)を区別するための仕組みの一つだからです。

一般には動物の個体の集合状態を群れとよぶが、さまざまな定義がなされている。また、普通は同一種の集団を群れとみなしているものの、冬季のカラ類にみられる混群のように、数種によって形成されるものもある。動物が寄り集まる原因には大きく分けて二つある。その一つは、個体どうしの誘引によるもの、ほかは、ある場所の条件、たとえば食物が豊富にあるとか、越冬に都合がよいとかいった理由で集団が形成され、個体間の関係には基づかないものである。前者を「群れ」と規定し、後者を「集まり」とか「群がり」とよんで区別することがあり、さらに持続的な組織化された集団に限って「群れ」ということもある。
動物は種によって、与えられた諸条件のもとで、テリトリー(縄張り)制によってある程度分散して生活するものがいたり、またあるものはさまざまに組織化された群れを形成する。群れ形成の状態が季節、とくに発情期などによって変化する種も多い。発情期になると、伝統的に定まっている特定の場所に多数の個体が集合する種があり、その場所はレックとよばれる。群れ形成の適応的意義の一つとして外敵に対する防衛があげられる。偶蹄(ぐうてい)類についていえば、一般に森林やブッシュなどにすむ種は群れを形成せず、草原などの開けた場所にすむ種は大きな群れを形成する傾向がある。身を隠すことの容易な生活場所では分散することが、また見通しのよい生活場所では集団中に身を埋めることが、各個体の平均的利益の上昇に結び付くと考えられる。

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

上記のように、群れは自身を強化するものであったり、自身を守るものであったりと状況によって異なる。

だが、群れをつくることは社会性動物である人間にとって至って自然なことだ。人がそのように進化してきた以上これらを排除することは不可能に近い。

群れは人の出入りがあるという意味で流動性がある。そして、人の出入りによってその群れ全体の意志の確認や強化も行われる。

群れの掟


ここで学校のクラスを覗いてみよう。

まず、クラス全体は子ども(学生)と大人(教師)という明確な境界線がある。つまり、教師は良き隣人になることはあっても群れの中には属さない。

つまり、クラスメイトの誰かが過度に教師と親しくなることは、その誰かは群れから排除されるインセンティブが働く可能性がある。

群れの仲間からは「あいつは他の群れの連中と親しくしているということは、俺たちの悪口を言ってるに違いない」と後ろ指を指されることになる(対象が同じ子どもではなく大人になるために、自己防衛意識から被害妄想が生まれやすい)。

この周囲の不快感から群れから排除を受ける場合もある。クラス内の情報を不要に教師に伝達することで、群れにとって不都合な存在になる。

群れにとって害をなすものは群れを追われることになり、それがいじめとして表面化する。

群れの序列


群れの中には目にみえない序列が存在する。猿山を覗いて見ればわかる事だかリーダーがいることはもちろんのこと、明確に序列は提示されていないが群れでの意思決定の際にそれらは重要になる。

例えば群れのリーダーが構成員の誰かを名指しで批判し、群れからの退場を迫れば、他の構成員は不本意でも従うはずだ。
仮にもし、従うことが納得が出来ない場合は、群れのリーダーの入れ替えを求めるか自身が群れから退去する二択になる。

このリーダーの気まぐれ(私怨)で、いじめが起こる場合もある。

クラス単位の群れの場合、クラスのリーダーは曖昧で必ずしも1人に固定されてなく、流動性がある。

そのため、クラスのリーダーの私怨によるいじめは起こりずらいだろう。

しかし、もっと小さい群れの場合は起こりやすい。
例えば趣味で繋がった群れ、クラス内の学力によって分かれた群れ、親の所得によって分かれた群れなどだ。

これらの群れは結合が弱く表層のみ繋がっているの場合が多い。そのため僅かなトラブルで群れが崩壊することもある。

よくあるのが「俺の女に手を出しただろう」という不毛なもの。独占欲の強いものは、失うことの恐怖から過度に反応し、身内ですら序列の低いものに当たることがある。

そもそも、そのような人間性のない者が序列上位にいる群れは群れとして機能しないし、程度も低い。

もし、そのような群れにいるのなら早急にフェードアウトするべきだろう。

群れの対立


また、群れ同士の対立からいじめに発展する場合もある。やんちゃな者同士の群れが、自分たちの群れの強さを示すために弱い群れの中から、弱い獲物を見つけだし、その者にいじめを行うことがある。

その際、群れ同士の抗争になればいじめに発展しないのだが、先に述べた通り趣味で繋がった群れは、トラブルに弱く自己防衛に走り、いじめを受けているものを守る力までない場合が多い。

そのため、結果としていじめを受けたものは、敵(対立している群れ)と自身の群れからと二重の被害を受ける

こうなると人間不信になるのも無理もない。

では、やんちゃなグループの子どもが、他のグループからいじめを受けた場合はどうなるだろうか。

その場合は、群れの構成員全てで攻撃を受けている者を守り援護するだろう。なぜなら、危険な行為を行う群れは強い結束がなくては維持できないためだ。

過去に遡れば、大航海時代の海賊、少し前ならマフィア・やくざなどをみても、反社会活動組織は結束が強い。彼らは、内と外の壁を強固にすることで、群れと自身を守り強化しているのだ。

ここまでが、群れという視点でみたいじめの構造だ。人が社会性動物であり、群れを好む以上、これらのトラブルがなくなることはない。

ならば、どのようにすれば解決できるだろうか?

スクールカウンセラーを学校に常駐させればなくなるか?

なくなるわけないだろう、またスクールカウンセラーは大人だ。学生からしてみれば、まず一番大きな群れである大人・子どもの群れの違いがある以上、気休めの効果しか期待できないのがわかるだろう。

では、どうすればよいか?

それは、簡単に、容易に、手軽に、安直に、通っている学校を変更できれば良いのだ。いじめを受けているものは学校に通いたくない。

それはいじめを受けている学校であって、そうでない学校ではない。明るく友人と話し合える環境のある学校であれば行く気にもなるだろう。

いじめをどう捉えるかはその人次第だと思う。

しかし、最初に定義したように「いじめとは、被害者が加害者に対して一切報復が出来ない状態において、一方的に肉体または精神的苦痛を受けること」なのだ。

これを読んだ人でこの定義は他の何かに似ていると思わなかっただろうか?

昨今問題になっているDV(ドメスティックバイオレンス)や幼児虐待などと同じ要素を含んでいるのだ。

ニュースをみればわかるように、幼児が家庭で虐待を受けている可能性がある場合、医師や近隣の人が通報する。

なぜか、虐待は犯罪なのだ

ならば、学校で起きているいじめは犯罪ではないのか?

いじめもやっていることは同じ虐待である。

やる側はそのことを意識する必要がある。

やられる側は犯罪を受けているという認識が必要だ。

そして、それが耐え難いものなら学校なんてやめちまえ!

以上、おわり。

人生は長い。人は社会に出て初めてスタートのゲートを潜る。学生時代はまだスタートにも立っていないのだ。

何があるかはそれからでそこには何もない。

そこがすべてではないのだ。

おわり



最後まで読んでいただきありがとうございます。



プッククンさん画像を使用させていただきました。

毎週金曜日に1話ずつ記事を書き続けていきますので、よろしくお願いします。
no.125.2022.06.30

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