#110 満足は高低差で決まる
こちらは「#109 体と思考の同調性」のつづきです。
効用の担い手
ベルヌーイは、1738年に意思決定の問題を分析した。
アムステルダムからペテルスブルグに船を出そうとしている商人の問題(論文)から、心理的な価値は金額が多くなったからと言って、必ずしもそれに比例してあがるものではないと述べました。
つまり、最初に10ダガット持っている場合と、100ダガット持っている場合に、1ダガット余分に得ることが同じような違いを生むことはない。
そして、賭けというものは結果の期待効用によって評価されるべきであると提案したのです。
彼の言う効用とは、そうした結果の主観的価値であって、ドルなどで表せられる結果の期待される数値ではありません。
そして、ベルヌーイはプロスペクトを評価する単位を、ドル(お金)の単位から効用(満足度)の単位へと切り替えようとした。(期待効用理論)
この基本的なアイデアは、経済学における数多くの研究の基盤になっている。
比較して満足度を測る
ベルヌーイの分析では、もし船がペテルブルグに無事到着すれば、商人はそれが自分の富だと解釈する。もし、船が失われてしまえば、それが自分の富、現在の自分の富であるとする。
賭けを行う人は、そうした富の状態の効用を定め、これと現在の富の状態を比べて、どんな決断をすべきかを決めるというのです。
しかし、これには間違いがあるとD・カーネマンは指摘します。
まず、ベルヌーイの分析によれば、二つの質問に対する答えはそっくり同じでなければならないということ。
(*賭けは、損得の単位で表された場合も、富の単位で表された場合にも、魅力が同じでなければならない)
もう一つに、前回の質問(状況二)を評価する時に、実際に自分の富について考えた人はいなかったでしょう。
つまり、他者から促されそうしてくださいと言われるまで、状況二の質問を考える際、自分の富を結果に含めて考えることはないだろう。
その意味で、D・カーネマンはベルヌーイの分析には問題があるといった。
そこで、D・カーネマンはベルヌーイの提案を進展させてプロスペクト理論を構築させた。
カーネマンは「効用の担い手は変化であり得失であって、富の絶対量ではない」と述べている。
そのため、プロスペクト理論には効用関数ではなく価値観数というものがある。価値観数は、最終的な水準ではなく、得失によって定義され、それに依存する。(下図)
ここには二つの特徴がるという。
それは不確実な状況で人が選択をする時にどう行動するかについて、二つの予測を伴う。
一つは「損失回避性」で、人は何かを得る時よりも、何かを失う場合の方に強く反応するということ。実際に、この反応は二倍も強い。
そのため、グラフの正の領域よりも、負の領域の方で関数の傾きが大きいのがわかる。
もう一つは、人が意思決定をする時、損失の領域、負の選択に直面した時にはリスクを追求する傾向があり、逆に利得の領域ではリスク回避的であるということ。
経済は合理性を好む
このように1738年に提唱された分析が、少なくとも心理学的な見地から明らかに間違っているとするならば、なぜ経済学の分野ではこれが使われてきたのだろうか。
それでは例をとって考えてみよう。
太郎と花子が証券会社から月例報告を受けた。太郎は金融資産が400万から300万になったと報告を受け、花子は100万から110万になったと報告を受けた。
この場合、幸せなのはどっちだろうか?
その通り、太郎は残念な気持ちであり、花子は資産が増えて満足しているだろう。
しかし、ここでもう一つの質問がある。
太郎と花子どちらが、全体的な資産状況に満足すべきだろうか。
当然、資産額の多い太郎になるだろう。
プロスペクト理論では、こうした変化に対する目先の反応に注目する。
人は利得と損失を考える。これに対してベルヌーイの分析では、長期に渡る状態に注目している。
先ほどのように同じ選択であっても、二つのフレームでみると、得失で良し悪しを考えたり、最終的な絶対量で評価することもできる。
結果を、富の絶対量としてフレームすることは心理学的にみれば、現実的ではない。なぜなら、太郎のように資産400万から300万に減って、「わたしは資産300万持っているから幸せだ」と思う人がいないからです。
誰でも、手にしているものが失われる時には、損失にたいして不満足になります。(この場合、資産が減ったことに対しての感情の変化であり、資産の総額は加味しない)
しかし、結果を富の絶対量でフレームすることは、規範的には妥当です。
経済的な意思決定を見るには、より妥当な方法であるように思える。
つまり、経済学的分析では、人間という行為者が合理的に行動するという仮定に基づいているため、ベルヌーイの分析を認めることは、経済主体は完全に合理的であるとするより広い考えを受け入れることの一部であることがわかるだろう。
社会を見渡せばわかるように、わたしたちの生活ルールは規範的である。しかし、人間は動物であることを切り離せないように、感情によって規範的に振舞うことができなかったり、そもそも規範的でない人もいる。
そんな中、経済は人を半ば無視することで成り立っている。そのため、国全体のGDPが増えたり日経平均が高くなろうが、日常の生活の向上を実感できないのである。
だがそれはWbasic的には理解できる。一つの結果をミクロでみるかマクロでみるか、または近視眼的にみるか遠視眼的にみるかの違いである。
おそらく大事なのは、そのどちらもあること理解することだろう。
ちなみに、D・カーネマンは、2002年にノーベル経済学賞を受賞した。その理由は「心理学研究の洞察、特に不確定性下の人間の判断と意思決定に関する研究を、経済学に統合したこと」で、行動経済学の基礎を固めたという点が評価された。
そんな、カーネマンは経済学の授業を一度も受けたことがない。おそらく正式な経済学教育をうけていない、初めてのノーベル経済学賞受賞者だ。
おわりorつづくかも?!
参考文献「ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る ダニエル・カーネマン著」
最後まで読んでいただきありがとうございます。
ますのさん画像を使用させていただきました。