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#72 心が疲れたら論語に帰ろう


日常で真っ当に生きているのにどこか不幸な気がしたり、真面目にルールを守っているのに損をした気持ちになることもあると思います。

社会は寛容で、多少のズルや狡猾な人間が短期的には得をすることがあります。これは、高度な技術を要するマジックと同じで、一見その仕組みが分からないために、そのものがルール違反なのかそうではないのかが、見えにくいところにあります。

しかし、日常でそのような曖昧な部分の仕分け作業をしても労苦でしかなく、仮に仕分けができ違反を見抜いたとしても、それを正すのは容易なことではありません。

ならば、自身も一定の寛容さを持ち社会生活を行うことが、必要なのではないでしょうか。それでも、わたしたちは自分のしていることが正しいという承認欲求は残ります。

そこで「論語」に帰り、わたしたちの日々の行いが間違いではないことを知るのもよいのではないでしょうか。


社会を見渡せば


子曰く、「聖人はわれ得てこれを見ず。君子者を見るを得れば、これ可なり」。子曰く、「善人はわれ得てこれを見ず。恒にある者を見るを得れば、これ可なり」。亡くしてありとなし、虚しくてみてりとなし、約(まず)しくて泰(ゆた)かなりとなす。恒あるに難し。

今の世に聖人を望んでも無理だろう。せめてこれなら君子だという人にめぐり会えたら。今の世に善人を望んでも無理だろう。せめて自主独立の人にめぐり会えたら。世間には、実際はありもしないのにくせに、いかにもあるような顔をする見栄っ張りが多すぎる。こんな手合いは、自主独立どころではない。(孔子)

自主独立:他者の保護、干渉を受けないで、みずからの力で事を行うこと。

そう述べています。世の中には現在に至るまで、人間模様は大して変わらず、似たような人々がいたことが想像できます。

わたしたちが成人し社会に出て、自分のことを自分で行い、忖度なしに自己主張し、生きていくことは当たり前のように感じますが、意外とそのように自主独立している人は多くないようです。

世間を見渡せば、自分よりも徳のない人もいれば、学のない人もいれば、力がない人もいます。しかし意外にもわたしたちは、多様性の世の中を受け入れているようで、自分以外の人には皆、画一性があると思い込んでいるようです。

自主独立の大事な要素の中に、行動の必要性を孔子は説きます。

子曰く、人として信じなくんば、その可なるを知らず。大車にげいなく、小車にげつなくんば、それを何をもってこれを行らんや。
すべての人は、言うことに真実がともなっていなければならない。そうでなければ独立した人格とはいえない。もし、くびきがなければ牛車にしろ馬車にしろ、車としての役に立たぬが、それと同じことである。(孔子)

*くびき:車の轅(ながえ)の先につけ、牛馬のくびにあてる横木。

つまり、「人に言ったことは、行動が伴わなくてはならなく、それが要」という簡単な法則ですね。

自分に甘い人は、人には言うけれど自分はしないという矛盾が生じ、周りを不快にします。わかりきっていることでも、時折自分に甘くなり、棚上げしてしまうことは世の常です。(言い訳です)

協調性


「人が良い」人の特徴の一つに協調性があります。人にたいして寛容であることで協調性はより強化されるのですが、何でも許してあげることが寛容なのでしょうか。

子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
君子は協調性に富むが、無原則な妥協は排除する。小人は逆である。やたらと妥協はするけれども、真の協調性には欠けている。(孔子)

このように述べて、妥協と協調性は混同してはいけないと諭します。自分にとってのデッドラインが分かっていれば、妥協と寛容のラインが明確になりやすく本当の意味での協調性は強化されるのではないでしょうか。

孔子は「和」を大事にしていましたが、孔子の言う「和」とは他人との調和や和合のことで、必ずしも同調とは述べていません。

そして、協調する姿勢についてこうも述べています。

子曰く、君子は周して比せず。小人は比して周せず。
君子は対人関係が有効的であるが、身びいきしない。小人はその逆である。身びいきはするが、真に友好的ではない。(孔子)

君子(人格者)は広く公平に誰とでも付き合い、一部の人だけを優遇したりはしないが、小人(徳のない人)は利害関係のある一部の人たちと排他的な集まりをつくり、優遇するものだと述べています。

世間を見渡せば利害関係の排他的な集まりはいくつも存在します。彼らは、自己利益を優先しているので思想が異なりますが、孔子はそのような人を小人として批判しています。

貨幣経済では、貨幣が多くあることで生活が豊かになるので、自己利益の効率化を考えれば仕方がないように思えますが、人としてあるべき姿を皆が想像する時、違和感を覚えます。

損をして徳をとる


普段の生活で自分ばかりが損をしていると感じている人は、周りの人よりも多くのタスクをこなしていたり、気苦労が絶えないと思いますがそのような行いである仁について孔子はこう述べています。

「仁者は難しきを先にして獲(う)ることを後にす。仁と謂うべし」。
「人間として正しいことは、たとえ労多くして功少なしと知っていても、あえて実践する態度、それが仁なのだ」。

行動による見返りが少ないと知っていても、それが必要なことであれば行動する態度が大事であり、その姿勢が仁だといいます。

みなさんも日々の生活で、損な役回りだと感じながらタスクをこなしていると思います。ですが、その作業の必要性を理解し、行動を移しているのですから立派なのです。

自分のとっている行動や態度は称賛されなくとも、称賛に値する行為なのだと理解していれば、少しは自分を救うことができるのではないでしょうか。(それでも、たまには褒めて欲しいものです)

先にも述べたように、損をしてでも必要な行動をとることは、以前「哲学的アプローチ(Wbasic)」でも話しましたが、根源的な正義にもつながります。

より良く生きることは、より良く行動することであり、それは必ずしも利益を生み出しません。しかし、短期的に又は直接的に利益を生み出さなくとも、長期的に又は間接的に利益は生み出されます。

これは、貨幣経済的利益ではなく、評価経済的利益で信用と呼ばれるものです。

キングコングの西野氏は、この評価経済的信用を大事にしており、自分が社会経済で生み出した貨幣をすべて注ぎ、自分が生活に困るようになれば、誰かに助けてもらえば良いと楽観します。

元ZOZOの前澤社長も、お金贈りおじさんと自己を称し、お金に困っている人をゼロにするために、寄付文化広げようと活動しています。

孔子が生きていた時代と今の時代は社会の在り方そのものが違いますが、人が織りなす社会現象の一部は同じものです。

時代は常に変化し、そのなかでは徳の在り方や考え方も多様に変化し形を変えます。わたしたちは、芯を持ち自分たちの行動や発言に迷いなく納得するかたちで生活し人生を終えることが最良ではないでしょうか。

最後に孔子が生き方について述べたことを紹介します。

子曰く、富にして求むべくんば、執鞭(しつべん)の士といえど、われもまたこれをなさん。もし、求めむべからずんば、わが好むところに従わん。
人間の努力目標が富の追求にあるというのなら、わたしもそのように努力しよう。そのためには、どんな賤しい仕事でも厭わない。だが、富が人間の努力目標ではないとすれば、わたしは自分の行きたい道を選ぶ。(孔子)

あなたにとって人生の努力目標が富の追求でないのなら、孔子のように自分の行きたい道を見定め、歩んでいくことが最良ではないでしょうか。


おわり



参考文献「中国の思想 第9巻 論語 久米旺生訳」

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no.72 2021.6.25






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