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【小説】太陽が沈んでも 前日譚 「母と息子」
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▒Where we are▒
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愚かな若い父親は、強盗殺人の罪で逮捕された。赤ん坊だったタカシは、父の存在を知らずに育った。母のカヨは、ボーイフレンドの帰りを信じ、生まれたばかりのタカシを彼の形見のように可愛がっていた。
そして、ついに訪れた刑務所での面会の日。ボーイフレンドは大柄な男の囚人を連れて現れ、「ムショで恋人ができた。殺しやってラッキーだったくらいさ。俺はゲイだと分かったよ」と当然のように告げた。
大柄な男は、カヨが腕に抱いている、父親に面影のある赤ん坊の寝顔をじっと見て、一言「お前に似てるなあ」と笑った。吐き気をもよおすような、おぞましい笑いだった。
かつて、見惚れるほど愛したボーイフレンドの、表情ひとつ変えぬ端整な顔に向けて「刑務所で野垂れ死ね!この糞豚野郎!」と醜い罵声を投げつけ、カヨは面会室を飛び出した。それが今生の別れとなった。
カヨは絶望した。私は騙されたんだ。あのおぞましい嘘つき野郎に。なんてこと。こんなの許せない。死んだって許してやるものか!例え私が死んだって、アンタだけは絶対に地獄に突き落としてやる!
涙ながらに、心に誓った。
私のタカシだけは、絶対に誰にも渡さない。あんな、口にするもの汚らわしいような豚男になんか渡さないから。そうなるくらいなら、いっそ死んでやる!
そうしてまだ幼い我が子に異常な執着を抱き、絶えずトラウマと恐怖と妄想に苛まれて暮らす母の元で、タカシは大人しく臆病な子供に育った。母以外に頼れる存在のいない幼子は、絶えず母の顔色を伺い、母の気に入ることを選んでするようになった。
タカシが一人で歩ける年齢になると、母は度々タカシを連れて、父ではない男との「面会」に向かうようになった。幼いタカシは、見知らぬ男に撫でられるのを怖がり、母に呼ばれるまでじっと物陰に隠れていた。当面はそれでもよかった。
しかし、ひとたび男との関係がギクシャクしだすと、母は目に見えて情緒不安定になり、まだ幼い息子にありったけの鬱憤をぶつけた。タカシが大泣きしながら家から逃げ出したことも、一度や二度ではない。恐ろしい母に捕まってせっかんを受けるくらいなら、外で野垂れ死んだ方がましだった。
タカシが小学校に通いだすと、母は職場の男との関係にかまけ、息子に食事を与えないことも増えた。タカシはそんな母の気を引こうと、今度はわざと母が怒ることを選んでするようになり、家の中は見る間に荒れていった。
中でも、「僕のパパはどこにいるの?パパに会いたい!」と叫ぶと、母が狂ったように怒ることをタカシは知っていた。そして、その言葉を叫ぶ時は必ず玄関先で靴を履いて、走って逃げる準備をした。
体の成長と共に、タカシの自己主張はいよいよ制御できないほど激しくなり、近所の悪い子供たちに混じって、商店での万引きや、壁への落書きなどを繰り返すようになった。それは、この荒れた街では何十年も前から当たり前の光景で、大人たちは凶悪な青年犯罪を取り締まるのに忙しく、悪ガキらの悪事に構っている暇などない。
しかもタカシは逃げ足が早く、いざ捕まりそうになっても、街中をするすると走り回って逃げおおせた。悪友のまさしは、タカシを日本のキャラクターになぞらえて「ニンジャ」と呼んだ。
カヨは、タカシの父親をずっと憎んでいた。新しいボーイフレンドが次々とできても、その憎しみが癒えることはなく、むしろ増幅していた。息子には「アンタのパパは人殺しの糞豚野郎だ!」と事あるごとに罵り言い聞かせ、万が一あの男と道端で出くわそうものなら、刃物を持って追いかけ回してやるつもりだった。
だからこそ、その父親に面影の似た不良息子のタカシを、カヨは捨て去ることができなかった。憎い男の子とはいえ、初めての子だ。十数年前のある日、まるでウサギのように小さな赤ん坊が、懸命に床を這いずり、初めて言葉らしい言葉を発した時、カヨの上げた喜びの声は、紛れもなく母親のものだった。
カヨにはタカシの他に、それぞれ父親の違う娘と息子がいたが、二人が10も歳の離れた兄のタカシに懐く姿も、妙に腹立たしかった。
比較的従順な二人の子を持ってなお、カヨにとってタカシは無視できない存在であり、自分の激情をありったけぶちまけられる対象だった。
しかし、16歳になったタカシが、生まれて初めて「逃げる」のに失敗した時、タカシは母の前から消えた。それが永久の別れとなった。
タカシが消えて二週間が過ぎた頃。
カヨは、ボーイフレンドと二人の幼い子を連れて遊園地で遊んだ帰りに、繁華街のバーに立ち寄った。そして、酒を飲んだ男とはしゃぎながらスポーツカーを爆走させ、ボーイフレンドの家まであと数百メートルの所で衝突事故を起こし、二度と目を開くことはなかった。
タカシの妹が、6才の誕生日を迎えた日の出来事だった。
…
……
▒Where are we…?
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