『きみの色』感想 俺はお前たちの敵だ / おまけ 『エイリアン : ロムルス』 感想
⚠︎注意⚠︎
本記事における『きみの色』の感想は、批判&難癖パートのあと、良かったところを褒めちぎるパートを設けた「DV彼氏方式」を採用しています (そんな方式はない)。
特に難癖パートはめちゃくちゃ口が悪い (私はそもそも口が悪い) ので、「きみの色」の世界観に適合した方や、あの世界の「色」に泥を混じらせたくない方はお読みいただくことを推奨いたしません。ここで丁寧な態度でいるのは、あくまで前置きなのでかしこまってるというだけです (感想では一人称も「俺」になります)。
私という人間はこの映画にとっての泥そのものです。
『きみの色』感想
批判その1:選り好みされた「優しさ」
山田尚子が京都アニメーションを離れてから、初めての長編アニメ映画作品を見た。
山田尚子は注目している演出家ではあるが、特別熱心なファンというわけでもない。
氏が演出家として稀有な才能を有しているという評価は揺らがないものの、未見の作品はそこそこある (『たまこラブストーリー』や『平家物語』は見ていない)。それに最近はアニメの好みや関心を向ける部分が変容してきて、めちゃくちゃ好きだったはずの『リズと青い鳥』を以前見返した時にあらゆる演出が「くどい」と感じてしまった。それを機に山田尚子への関心は薄れ、近年台頭してきた若手の演出家の方に関心が向き出している。
まぁこんな程度のファンなんで、サブスクで配信されたら見るかぁとだらりと構えていたのだが、なんか「興収が芳しくない」とか、「客入りがしょぼい」とか、そんな情報ばっか流れてくるので (Twitterとかいうゴミ溜めで情報収集するのが悪いのだが)、ちょっとは客足に貢献したほうが良いかという気になって、もし微妙だったら『エイリアン:ロムルス』を見て口直しすればいいと保険をかけて鑑賞に臨んだ。
見終わった結果、気味の悪さ4割、苛立ち4割、心地よさ2割、って感じで、今まで見た山田尚子が手がけた作品 (映画、TVアニメ) の中でもかなり好みではないという評価に落ち着いた。
本作がやりたいことはぼんやりとだが分かる。
要は「良い子ちゃんたちが良い子ちゃんなりに精一杯悪いことをして、抑圧していた自己を解放する。それを周囲の大人たちは過度に干渉せず、しかし突き放しもせず、適切な距離感で見守れば良い」というある種の教義を、物語に落とし込むんで表現するのではなく、むしろその物語を形成する因果関係をあえて「描かない」ことで表現しようとしている。
分かりやすい起承転結や、人物間の対立や葛藤、心理変化の決起を描いてしまうことは、この教義に反する。
それを「描く」ということは我々観客にトツ子、きみ、ルイ、3名の「心の機微」に介入することを許してしまうからだ。
観客は画面に映るあらゆる要素を手がかりに、彼女らの行為、選択、その決断にまつわる諸々の理由や整合性を分析してしまう。その行為を「批評」と呼ぶのか「考察」と呼ぶのかはどうでもい。観客は手がかりを手繰り寄せ、意味や文脈を見出し、彼女らに「〇〇はこういう人間である」という人物像を付与してしまう。そしてそれはしばしば彼女ら自身の自己認識と食い違う。
そもそも彼女ら自身も自分が何者であるかも分からないのに、「トツ子とは/ルイとは/きみとは、こういう人だ」という評価は単なるお仕着せでしかない。彼女らはそんな評価に対して「自分はそんな人間ではない」という他者評価の否定、そして「自分はそんな人間にはなれない」という自己否定すら感じてしまう。
そんなのはこの映画の目指すところではないのだ。
観客に彼女らを「理解した気にはさせない」ようにするが、これは映画である以上「ただ見つめる」ことは促すようにする。この映画が設定する教義、もしくは「正しさ」はこのようにして一貫している。
トツ子の特殊な色覚が周囲との間で起こしたであろうトラブルも、きみが中退した理由も、ルイが家業を継がなければいけない理由も、それとなく匂わせて、しかし踏み込まない。「この3人にはそれぞれ抱えているものがある」ということだけが示され、事情を知っているであろう他の登場人物にその詳細を語らせたりもしない。トツ子の母も、シスター日吉子も、ルイの母も、3人の秘密に関わる部分には一切触れず、 ただただ彼女らの今ここでの意思や行動を最大限尊重するのみだ。
何より、トツ子ら3人がそれを「語りたがっていない」。じゃあそういう要素は排除しましょうということだ。彼女らの秘密はまさしく「秘密」であるから観客にすら、いや観客にこそ、それを知られてはいけない。我々観客はともすれば映画という世界を安全な場所から俯瞰し、自分たちに解釈可能な言葉で物語ることで、その在り方に介入する「権力」を有しているのだから。
本作を見て、「ストーリーがよく分からない」とか、「ドラマが薄い」とか、そういった感想が生まれるのは当然だ。だってストーリーもドラマもあらかじめ捨て去られているのに、どうやって整合性の取れた筋書きを見出せばいいのか。
ちなみに上記の感想を否定するつもりは一切ないが、大前提として「映画」にストーリーもドラマもぶっちゃけ必要ないと俺は思う。
ストーリーやドラマがなくても「映画」は成立する。かっこいい映像、美しい映像、禍々しい映像…なんでもいい、見た人の記憶に焼きつく映像が撮れたら映画は映画としての機能を充分果たしている。そう言って良いと思う。じゃないとつまらないからだ。
ストーリーやドラマに還元されない面白さ、意味や文脈とは離れたところにある面白さ、そういうのが必要だと思う。俳優の立ち姿が様になっているとか、朝日に照らされていく街並みが綺麗とか、なんならド派手な爆破シーンでも良い、見た瞬間に「お、良い画だなぁ」と感嘆に耽るような感動がないとあまりにつまらない。全部が「物語」の感動に帰結してしまうのはあまりにつまらない。
本作の映像演出はモチーフの連結ではなく氾濫に近い。だから画面に映るモチーフ同士のつながりなど見えるはずもない。そこから何らかの意味や文脈を構築していくことは、トツ子らへの秘密の「介入」を促すことにもつながってしまう。
たしかに「キリスト教」とか、「長崎」とか、色々と文脈を見出したい人間には垂涎もののモチーフだろうし、青と緑が混ざり合うイメージショットをみて、受精のメタファーだとか思う人間もいるだろう。もちろんそういう営為は好きにやればいいと思う。
ただ、山田尚子はそういった営為から遠く離れたところでこの映画を作っている。
つまり、ミッションスクール・教会・長崎の景色・テルミン・ギター・キーボード…それらモチーフを目にした時の感動を、人と人が出会い、一緒になって何かを始めようとするその瞬間のきらめきを、その先に生まれる「何か」に 対するワクワクやドキドキを、氏が「美しいと思ったもの」をたくさんぶち込みたかった、というだけなのだ。
こちらの評の読解について、俺も同意する。
以下、適宜抜粋の上、引用。
ちなみに俺は「言葉で言い表したくない」というのも充分「言葉にしている」と思っているが、(何も言っていないに等しいのに、「奥深い何か」を言ったつもりになっているという意味で)、まぁそこは俺のスタンスと食い違うというだけで、この映画で山田尚子がやろうとしていることについては妥当な読みだと思う。
とにもかくにもこのような映画の構造のもと、トツ子も、きみも、ルイも、実に安全に自分の「秘密」を吐露し合うことができる。映画が語る「物語」からも、観客が語る「物語」からも。意味や文脈を用いて「物語られること」から逃れた3人はとても自由に見える。
『きみの色』の世界を形作るあらゆることが、この3人のためにお膳立てされたものだ。もちろんお膳立てのない物語など存在しないのだが、本作はそのお膳立てそのものが目的化している。
この映画を肯定的に受容する人々の間で見られるのは「優しい映画」という評価だ。それから「ストレスがない」とか、「悪い人間がいない」とか、とにかく「優しさ」に着目した感想が多く見られる。
先にも述べた通り、『きみの色』劇中において、登場人物は実に「適切」な距離感でトツ子ら3人に接する。トツ子の母、シスター日吉子、トツ子と同室の3人組、きみの祖母、ルイの母、そしてトツ子ら3人の間でも、お互いの心のもっとも繊細な部分にうかつに侵犯しないことが徹底されている。
「優しさ」を行使する時、それが「おせっかい」にならず、恩着せがましくもならず、優しくされた側が「申し訳なさ」を感じないように、言葉を選び、声色を選び、実に丁寧に丁寧に相手に接する。とにかく「適度」で「適切」だ。もうこれは何度強調してもいい (あと比重的にシスター日吉子にその役割を負わせすぎだろと思う)。
なるほど確かに「優しい映画」と形容するのはもっともだと俺も思う。
だが俺がそんな「優しさ」に気味の悪さを覚える。その「優しさ」の在り方があまりにも限定的かつ高度なもので、それ以外の「優しさ」を無碍にするような「選り好み」を感じるからだ。
つまり「おせっかい」や「恩着せがましさ」や「申し訳なさ」を感じるような「優しさ」、すなわち「空回る善意」をこの『きみの色』はあらかじめ排除している。
「空回る善意」、まぁ偽善と受け取ってくれてもいいが、我々はしばしば「良かれと思ってやったこと」で他者に害をなしてしまう。
友人から悩みを打ち明けられたとき、「適切な言葉」が浮かばず上滑りする励まししか送れなかったりする。家族に対しての心配を鬱陶しがられたり、恋人に対する愛情表現を間違えたりもする。良かれと思ったアドバイス、良かれと思った贈り物。なんでもいい。
被災地への千羽鶴とか、当地経済を破壊し得る側面を持つ古着の寄付とか、そういった大局的な場面でも善意は空回る。
もちろん、そういう「空回る善意」は、受け取る側からすれば迷惑なものだ。そんなのはやる側の自己満足とも言えるし、単に自分を「良い人」に見せかけるための方便かもしれない。
当然ながら善意が適切に行使されるにこしたことはない。
しかし、翻って自らが「善意を送る側」に立った時、今まで他者になした善意はくまなく適切なタイミングで適切に機能して、相手の助けや益に確実になったと言える自信がある者はいるだろうか?相手に心理的負担を与えず、また辺報性にも縛られないような、結果的にそれが「取り引き」にはならないような、「無垢な善意」を我々は常に親しい人へと送っているだろうか?
大抵の人間は善意のやり取りをところどころ失敗しながら、時に文句を垂れながら、鬱陶しいことがあっても持ちつ持たれつで、「まぁ仕方ない」で済ましながら生きているんじゃないか?
俺も「空回る善意」を向けられるのは嫌だが、だからって善意を選り好みばかりしていたら、人は孤独になってしまうと思うし、それは自業自得にも思える。俺も実際そういう態度でいたら孤独になったので。
ごちゃごちゃ述べたが、究極的に俺が言いたいのは、トツ子の色覚にまつわる孤独を、きみの退学にまつわる理由を、ルイの母からの期待に反する音楽への渇望を、こんなにも適切に対処しなければ壊れてしまうものだと思っているのか、そしてそんな適切な「優しさ」以外の優しさには目もくれないのか、ということだ。
色々と感想を漁る中で、『きみの色』が3人に向ける「優しさ」を語る上で参考になるものを発見した。ごくごく個人的なツイートをダシにして (それも批判的な文脈で) 語るのは、大変不躾であることは承知な上で拝借させていただく。
トツ子の「色覚」を「社会との断絶」と読むのは全く妥当だと思う。
また、きみとルイをあの同室の3人組と比較して、トツ子にとって秘密を共有するに足る「本当の友人」と形容するのもまた、あの映画の「やっていること」を端的に言い表しているとも思う。
その上でやはりどうしても片手落ちな気もしてしまう。
引用元の方は、あの3人組をトツ子が「繊細さを覆い隠して適応して得た友人たち」と形容し、俺も事実その通りだと思う。
しかしながら、ではあの3人組にしたってトツ子に対して「適応」している部分がないわけがないだろうとも思ってしまう。もちろんこれは引用元の方も、そして山田尚子その人だって承知のことだと思う。
『きみの色』における「本当の友人」というものが「秘密」を共有できる存在だとするならば、あの3人組にとってもトツ子は「本当の友人」ではない。
なんならトツ子は当人が知り得ない「3人組の秘密」=「色」を知ってしまっている。そのことを打ち明けない割には、「森の三姉妹」なんてことをうっかり言ってしまう。あそこで3人のうちの1人が「それって地味ってこと?」みたいなことを言って、トツ子はあわててはぐらかしていたが、あの瞬間、トツ子の色覚は「繊細さ」ではなく「無神経さ」として機能していたと俺は思う。
そんな場面でも、あの3人組は賑やかし程度の「愉快な友人たち」ポジションに収まっていて、トツ子の「秘密」に踏み込んではこない。
正直、トツ子の色覚のことを知った上で、「あなたから私が何色に見えようが、私がそんな色 (の似合う人間) だとは思わない」と言い放つ「友人」がいて欲しかったくらいだ。それを言ったらサッとフェードアウトしてくれて構わない。トツ子が誰を何色に見ようとそれはトツ子の勝手だが、見られる側にしたってトツ子から「あなたの色はこの色」と言われて納得しなければいけない理由もない。
あの3人組にも、そして「過酷で野蛮な現実の人々」(そこに含まれるのはまさに俺であり、文化祭ステージを見ていたモブ生徒でもある) にだって、共有できない「秘密」の一つや二つあるのだが、やはりそこはオミットの対象だ。
この際ぶっちゃけると「それくらいの秘密なり孤独は君ら以外も抱えてるよ。そうやってじっくり向き合う暇がないだけだよ」ということなんだが、これを言うと本当に俺はこの映画と敵対することになるわけだ。
トツ子ら以外の人間も当たり前に抱えている「秘密」に対する目配せは、この映画では描かれないし、描くつもりもないのだから、それを受け入れないからには、俺はやはりトツ子、きみ、ルイの敵になるしかない。いや、「しかない」という言い方は他責的で卑怯なのでこう言いかえる。俺はお前たちの敵だ。
物語られることを拒絶し、劇中では適切な善意が為されて、確かにこの映画は「優しい」のだ。しかしその丁重さや繊細さを徹底すればするほど、そこから抜け落ちた対象への無神経さが際立つ。この映画を見ていて言いしれぬ排他性を感じたのは俺だけではないはずだ。
こちらの方の感想に深く同意する。
俺はガサツな人間なので同じくガサツな人間を許すし、ガサツな映画もワッハッハと笑い飛ばす (じゃないとフェアじゃないので) ほうだが、反面許せないのは「繊細さを装った無神経さ」だ。
俺にはトツ子、きみ、ルイの3人がかなり無神経な人間に見える。
あれだけ「優しい人々」に囲まれて、まだそれ以上を求めるのか?そしてその「優しい人々」を恐れるのか?と。
トツ子の色覚なんてあのミッションスクールの育ちいい子達には打ち明けたって問題はないと思うし (絶対音感くらいの扱いに落ち着くのでは?)、きみが中退したことを祖母に打ち明けないのは単に祖母を信頼していないだけだと思うし、ルイは家業を継ぎたくないならさっさとそう言えばいいと思う (あのお母さんにそんなビクビクすることあるか?)。
あの3人は実は他人をただ初めから拒絶しているだけのことを、まるで自分たちは不条理に孤独に追いやられていると勘違いしている。俺にはそう見える。
あの3人の友情にケチをつける形になるが、だいたい 「秘密」を打ち明けられなくても、孤独を分かち合えなくとも、せめて友達にはなれる、そっちの方がむしろ救いに感じないか?
お前がどんな孤独や苦悩を抱えてるかは知らんけど、遊びに誘ってくれたら喜んで行くし、こっちからも誘うから遊ぼうぜ、そういう友達じゃダメなのだろうか?
横たわる断絶はどうにもならないかもしれないけど、この関係はいつか途切れるものでしかないかもしれないけど、「それでも友達だった」ことが、また性懲りも無く誰かの手を取りたいと思う理由になったらそれでよくないか?
「本当の自分」を理解してもらうことってそんなに大事か?
むしろ、「本当の自分」を隠してても側にいてくれる / いようと思える方が大事じゃないか?
そういうのを『ワンダーエッグ・プライオリティ』は描こうとして失敗したのだが (7話まではマジで良かったんだ、本当に)、この『きみの色』は始めからもっともっと狭いところに閉じこもってしまっているように思える。俺には凝り固まった「優しさ」が敷き詰められた、窮屈な世界にしか見えない。
あれを「優しさ」と形容するのは正しいのだが、あれだけが「優しさ」だと思うような人間に俺はなりたくない。
唐突だがBUMP OF CHIKENの『透明飛行船』という曲の歌詞を一部引用する。
これ、あの3人の中だと、特にルイには難しいのでは?と感じてしまう。
ルイは特に「本当の自分」を理解してもらいたいという欲望が強いキャラに思えたので。
BUMPというか藤原基央の歌詞はかなり説教くさいものもあって、個人的に鼻につくときもあるのだが、この『透明飛行船』の歌詞は客観的な目線をちょいちょい挟むのであんまりうるせぇなとは思わない。要は「お前の辛さはお前にとっては一大事だけど、他人にとってはどうでもいいことで、逆も然り。でも誰かが辛そうにしてたら手を差し伸べたくなるもんだし、それは偽善かもしれんが大事にした方がいいよ」っていうことを言ってるわけだが、これめちゃくちゃ『きみの色』へのアンサーソングになってないか?
ともかく俺は、時に善意が空回り、時に悪意が思わぬ形で利するような、相手を信じたり疑ったり、傷つけたり傷つけられたりするカオスな世界を生きていきたい。そこには『きみの色』のような「適切な優しさ」と出会う確率は低いかもしれないが、「悪くはない優しさ」や「まずまずの優しさ」の総量は圧倒的だと思うので、俺はそっちを選ぶ。
『きみの色』の世界は「優しさ」に対する舌が肥えすぎている。それは感性が豊かなのではない、「感情に脂肪がついただけ」だ (←これも藤原基央フレーズ)。
この現実世界にもいるであろう「トツ子」「きみ」「ルイ」と俺では住む世界が違うだろうから、エンカウントする確率もまぁ低いだろう。万が一出会した時は、俺は敵としてお前たちの前に立ちはだかろう。
批判その2:「悪いこと」できてなくね?
批判その1で結構文量割いたのでこっちは手短かにいきたい。
散々ぱら『きみの色』の「優しさ」について言及してきたが、今度はその「優しさ」と食い合わせの悪いもんをぶち込んだせいで、味がとっ散らかってるよということを言いたい。
本作ではトツ子ら3人が「悪いこと」をする (=規範を破る) ことで、抑えつけていた自己を解放し始めるという作劇が為されていたわけだが、肝心の悪事が規範サイドからの「赦し」を得てしまって、結局は規範運用の肥やしにされてしまってるから、最終的に「悪いこと」が完遂できていない。
きみを寮に勝手に招いてパジャマパーティしたときも、あんなん普通に不法侵入とその幇助で、一発退学処分でもおかしくない。てか厳粛なミッションスクールを舞台にしてる割にはセキュリティがガバガバすぎる (俺の田舎の中学ですらセコムしてるというのに。何なら警報鳴らしたことがある。詳細は面倒なので省くが、不法侵入したわけではないので、俺の場合は許された)。まぁそのガバガバセキュリティもまたお膳立てではあるのだが。寮への侵入がバレた際、トツ子どころかすでに部外者となったきみでさえ、奉仕活動という罰則を与えられ、あのミッションスクールの規範に取り込まれてしまっている。
廃協会にて3人で泊まり込む時も、シスター日吉子が「誰のせいでもない」とその悪事を無化してしまったが、ちゃんと「トツ子のせい」にして、「きみのせい」にして、「ルイのせい」にしなければ、彼女らは囲われた存在からは脱せない。
自分でしでかしたことをちゃんと自分に帰責しないのならば、中退しようが、不法侵入しようが、バンドを組もうが、彼女らはいつまでも緩く優しく縛りつける「規範」に囲われ続ける。そこにはもちろんロックの精神性などない。
ルイが船で発つシーンで、彼女らはもがいているように見える。取り囲む規範に抗い、これからの人生の苦難に立ち向かう勇気をめいっぱい叫んでいるようにも見える。しかし、その行為は徒労だ。その勇気が規範によって打ち砕かれるからではない。あの世界ではその規範によって、どんな抵抗も勇気も優しく肯定されてしまうからだ。
あの世界でトツ子らは本当に「悪いこと」ができるのだろうか。すでに彼女らは規範に十分絆されているというのに。
難癖パート
一口サイズのちまちました難癖。ポップコーン投げてるみたいなもん。
箇条書きにて、雑に放言していく。
さすがに被写界深度浅くして人物にフォーカスするやつやりすぎ。
手ブレカメラもあざとい。山田尚子の演出が「繊細」とか言われてんの意味わからん。普通に大袈裟で過剰です。
ここ見てくださいよー!が満載です。やっぱ『聲の形』、『リズと青い鳥』と、だんだん暴走していってる感は否めない。
トツ子の色が確定で予想できる演出いらんくね? 三原色をいちいち強調しなくても分かるでしょ。そこは客を信頼しないのか…。
ミスチルが合ってないって言われてるけど、そんなん言うたら劇中曲かて合っとらんわ。完全に山田尚子&牛尾憲輔の趣味ぶち込んだだけやんけ。『Born Slippy』が本気で合ってるとでも?「世界一穏やかな『トレインスポッティング』ですね」じゃねんだわ。
ニューウェイヴ好きなんすねぇー、って思う以外ないです。ミスチルを商業主義バンドだのとペラい認識でいるクソオタク (というかクソサブカル) どもには百烈ビンタをかますとして、合ってないのは確かにそう。でも、個人的に劇中曲がサブカルくっせぇくっせぇくっせぇわ、だったので、EDに流れた時はまるで清涼剤かのように癒された。見る前に曲単体で聴いた時は微妙だったのに。
オタクくんたち、気に入らないことあったらなんでもかんでもプロデューサーのせいにすんの悪い癖だからやめな〜?
プロデューサーは監督が作家主義オナニーを始めないためにも必要。
商業漫画家に担当編集が必要なのと一緒。あの押井守でさえ、プロデューサーがいないと監督が好き勝手やるから良くないって言ってんだぞ (お前大ブーメランじゃねぇか)。テルミンしゃらくせぇ。それ以上にフィードバックノイズしゃらくせぇ、俺はひょっとしてシューゲイザーが嫌いなのかもしれない。
そんなホイホイ楽器やら機材やら揃うなら、もういっそハモンドオルガン引っ張り出してファンクやれ。
『反省文〜…』は結構良かった。最近シンセベースいいなって思ってるから。
『水金地火木土天アーメン』、あまりにも相対性理論すぎるだろ、と思ったら相対性理論だった (anoの『ちゅ、多様性』に続き2度目)。ちなみにトラックはすごくいいと思うけど、歌詞の語呂は悪いと思う。
あのさぁ、きみの「立派な人間じゃないよ」発言に、同じく生粋のおばあちゃん子として言わしてもらうとさぁ、あんたのばあちゃんからしたら可愛い孫がスクスク育って元気にしてくれてるってだけで十分立派なの!!!あんたのステータス見て立派かどうかなんて言ってないのよ。そう言うのはただのおまけで、ばあちゃんは大前提としてあんたは立派な人間だっつってんの。
そう言うとこなんだよ、きみが人のこと舐めてんのって、全部自己完結させやがって。自分を信じてないんじゃなくて、他人のことを信じてないだけなんだよ。むしろ自信過剰だわ、自分が立派かどうか判別できるなんてよ。ルイくん、人畜無害すぎて「要警戒対象」のアラート解除されなかった。
『天使にラブソングを』みたいな狂乱が始まったの普通に怖かった。あそこがいっちゃん怖い。
こういうレビューも分かるっちゃあ分かるけど、やっぱZ世代 (とかいう謎のスティグマ) 舐められてんねぇ、って思ってしまう。雑魚扱いされて嬉しいか?俺も98年生まれでZ世代に当たるらしいが、そんな世代感覚はまったく持ってない。肌感覚的に、同じ20代でも95〜99年生まれと、00年以降には分水嶺がある。ここらを一緒くたに括るのってマジで不毛だ。てか世代論のほとんどが不毛だ。俺はガキの頃はVHSでジブリ、ゴジラ、ウルトラマンをガンガン見てたし、10代の頃はガラケー使ってたし、ゲーム機も親世代のものは一通り遊んでる。
ベタ褒めパート
DV彼氏方式の真骨頂、殴ってから優しくするやつ。
こっちも箇条書き。
さすがにレイアウトキレキレすぎる。
マジでどこ切り取っても画になる〜。あの絵筆タッチの線をスゥーって引いて、そのまま山の稜線になったとこマジで良かった。 イメージショットの発想が良い。
色使いがほんまに最高過ぎる。世界設計に作り手の思想がくまなく行き届いている。
やっぱ「足音」のSEが良い。『リズと青い鳥』では「足音」が主役張ってたくらいだが、本作は適度に抑えられて丁度良いバランスだと思った。
トツ子が踊るシーン、全部良き。ケレン味ある作画が基本好きだけど、ああいう身体性を重視した芝居から発見できるアニメの快楽もある。まぁあんまり褒め過ぎて動画枚数至上主義みたいなとこに行ってもアレなんで、俺は基本的に省略の効いた作画が好きだという姿勢は崩さんとく。
サブカルくっせぇくっせぇとは言ったものの、曲自体はマジでいい。初心者バンドにしてはクオリティー高すぎでは?とは思ったが、まあ、歌詞の拙さみたいなので、高校生クオリティにとどめたかったのかも。
リッケンバッカーかっこいい…。兄のお下がりらしいじゃん。そんなん劇中言ってたっけ?覚えてねぇ…。
『反省文』、半音下げチューニングで、Bm - F♯m - G - F♯m - G - A - Bm×2 って、あれよな、テンション下げてバレーコード押さえやすくするっていう発想よな?バレーコードの方がコードチェンジ自体は楽だもんねぇ〜。案外初心者であることには沿おうとしてるんかな?きみさん、セッションにバリバリ参加できてたけど…。
シスター日吉子役、新垣結衣でぶったまげた。全然わからんかった。まぁ新垣結衣の演技って『リーガルハイ』でしか知らんので当然なんだが、でもめっちゃ上手かった。違和感ない。
あんまり褒めれてない気がするが、超絶クオリティであることには間違いない。普通に映像だけでも見る価値ある。配信に来たら音消して見るのもいいかも。
おまけ
『エイリアン:ロムルス』感想
『きみの色』で溜まったフラストレーションを爆散させるため、昼飯を挟んでちょっとぶらぶらしたのちに鑑賞。
めっちゃ面白かった!とまではいかないものの、久方ぶりに映画を見たなぁという気持ちに浸ることができた。
詳細な感想に移る前に、ちょっと語っておきたいトピックがある。
『エリアン:ロムルス』の反応を漁ったときに見つけたこちらの短評のことだ。
これほんま首もげるほど頷いてしまった。
俺にとって映画とはかつての木曜洋画劇場 (水曜シアター9) や、サンテレビでやってるようなド派手なSFやアクション映画のこと指すのであって、そしてそれは日常を離れて全く違う世界に浸れる代物でもあった。
今はそうでもないが、俺が小学生の頃はテレビが娯楽を占める割合はデカかった。なんもねぇクソ田舎にあって、それら映画の醸す雰囲気は、気軽に非日常を味わうには打ってつけだったわけだ。
当時、木曜洋画劇は80s・90sのB級ほどではないがそこそこ予算のハリウッド映画、サンテレビはちょっとニッチな作品を取り扱ってたりしていて、俺にとってテレビってのはそういう間口の広さを備えた良質なメディアだった。
俺はそういった番組で、シュワちゃんの代名詞たる『ターミネーター』『プレデター』『コマンドー』や、ジャッキー・チェンのノースタントアクションや、『少林サッカー』や『メン・イン・ブラック』とかの素っ頓狂なコメディを見て育った。あとは『ドーン・オブ・ザ・デッド』で走るゾンビモノに初遭遇したり、『トレマーズ』とか『アナコンダ』とか『ザ・グリード』のモンスターパニックものもワクワクしながら見ていた。『エイリアン』シリーズもそう。
悪名高き実写版『デビルマン』だってサンテレビで見たものだ。
のちにインターネットに触れるようになって、俺がテレビっ子だった時に夢中になった映画がネットミーム化していることに驚いた。俺は割と真剣にあれらの映画にのめり込んでいたから、まさかネタ扱いされているとは露ほども思っていなかった (それこそ『コマンドー』とか)。もちろん、今見返せばいろいろと粗の目立つ作品も多かったと思うし、ネタ扱いされるのも色々納得できる。
だが、小学生のころの俺を退屈から救ってくれた映画たちだったことも確かなのだ。これは嘘に思われるかもしれないが、俺は『デビルマン』だって結構ドキドキしながら見ていた。まぁもの知らんガキだったからってのはあるが (今見るとガチでひどい)。
で、先に引用したツイートに頷けるのは、俺を育ててくれた映画たちが、「人間 (の心の機微)」なんて追わなくても、画面に映るものをただ追っていくだけで心踊るものだったからだ。
俳優のアクションや表情、セットが作り出す世界観、一つ一つにスペクタクルがあった。 そして何よりもラストを迎えた時の余韻があった。モンスターから命からがら逃げ延びるだけの映画にだってそれがあったのだ。思うに人間 (の心の機微) なんぞより、それをとりまく「事態」を魅力的に映す。そういう意識が、かの映画群にはあった。
そこにドラマらしいドラマはないし、「人間が描けている」わけでもない。大衆向けのどんちゃん騒ぎだと言われればそれまでかもしれない。
例えばスピルバーグの『宇宙戦争』は、主人公に感情移入できないだの、展開がありきたりだの、オチがつまらないだの散々言われているわけだが、俺があの映画が大好きだ。突如破壊される日常に、さしたる理由などない。街は蹂躙され、家族は引き裂かれ、主人公は世界の危機に立ち上がるでもなく翻弄され続ける。
とにかく「破壊」だけがある。スピルバーグはそれを淡々と映す。「宇宙人が地球を侵略しにくる」なんていうベタベタのフォーマットで (原作がまさにそのベタを作ったわけだが)、それをやってのける。
映画冒頭。トライポッドが地面から出現し、光線で人々を容赦なく灰にしていく。その灰を被りながら、トム・クルーズ演じる主人公は疾走する。
自宅に駆け込み、洗面台の鏡に映る自分を見て我に帰る。身体中に灰が纏わりついていることに気づく。さっきまで生きていた、物見遊山に集まった近所の見知った人間が灰になり、髪の毛の一本一本にまで張り付いている。つまりは死体が身体中に纏わりついている。主人公はそのおぞましさに気づいて、必死で灰を振り落とす。
この一連に、俺が求めるスペクタクルがある。
現実にはありえないことを用いて、時に背筋に怖気が走るような「リアリティ」を突きつけることこそ、映画が成せるスペクタクルだ。それは別に現実にある事物のメタファーでもないし、行間を読ませる文芸でもない。あくまで「その世界で起こっている事実」の強度こそが、俺を映画へと釘付けにする。
俺は映画を現実を解釈するための足がかりだなんて思っちゃいない。考察だの批評だのやってる奴らは、もっと画面に映っているものを信じてほしい。宇宙人が出てきたならそこには宇宙人がいるし、ゴジラが出たきたならそこにはゴジラがいるんだよ。もっと映画を信じろ。フィクションを信じろ。
俺は伊藤計劃の『宇宙戦争』評が大好きだ。
伊藤計劃の評からは「嘘を信じる」ことへの情熱を感じる。
行間を読むだの、心理を探るだの、洒落臭い。画面に映っているものを信じるんだ。それ自体が持つ強度を信じるんだ。
逆に押井守は『宇宙戦争』のドラマ部分を指して、「破綻した映画」だと言っていてちょっとがっかりした (『押井守の映画50年50本』にて)。
まぁでもトライポッドの登場シーンは褒めてたから許そう(尊大)。マジで撮り方が最高なんだ。スピルバーグはデカいクリーチャーを撮らしたら最強なんだよ。『ジュラシックパーク』見たくなってきたな。
正直言って「人間が描けてない」的な批評をする奴らは、映画 (およびフィクション) を見るセンスがないと思っている。
別に映画は人間を描いたら合格するテストじゃねぇんだわ。そもそもそんなに上等かよ「人間」ってやつがよ。ほら!この映画ってこんなにも「人間」を具に描いてますよ!!普段我々が見過ごしている繊細な感情を表現してますよ!!
あっそ、で?その映画で一番かっこよかったカットはどれ?構図はどんなだった?ショットはどれを選択してた?色合いは?光の具合は?
小説読んでろよ、マジで。で、作る側も作る側で、映画で小説読まそうとするんじゃねぇよ、映画をやれ映画を。
俺は基本的に文学センスってもんがないし、だから文学とかテキストベースのコンテンツが基本全部苦手なんだが、映画っつーのはそういうアホでも楽しめる最高の娯楽であり芸術なんだよ。
と、ぐだぐだ息巻いたところで、ようやく『エイリアン:ロムルス』の話。
とにかく監督はじめ製作陣が、シリーズの大ファンだということは伝わってきた。
あからさまに1作目からの続きものであることを意識したアバン。スピンオフゲームの『エイリアン:アイソレーション』の要素もバンバンぶち込んできて、正直ファンサービスが過ぎるのでは?とは思った。
『プロメテウス』『コヴェナント』の要素まで拾ってきたのはちょっといただけなかった。あれはマジでリドスコじじいの完全オナニー映画なので、『エイリアンシリーズ』にカウントしてほしくはない。1作目の『エイリアン』では、職業監督として十全なパフォーマンスをしたからこそ評価されたのであって、リドスコ自身の哲学演説会なんぞに興味はないんじゃ。
全体的に二次創作っぽい。
シリーズへのリスペクトがあるのは感じるものの、「この映画で今までのシリーズを超えてやるぜ!」みたいな気概は感じない。
「展開がゲーム的で映画を見ている気分にならない」という感想を見かけて、確かにそれは一理あると思った。各パートがどうもゲームのステージイベントのように設計されていた節はある。フェイスハガーが大量にいる部屋を通り抜けるところは、かなりゲームぽかった。『メタルギアソリッド』のように音を立てず、敵に感知されずに、ステージを通り抜けるみたいな。
が、それはむしろ昨今のゲームの方が、映画的になってきているからこそ起こる気分なのでは?という気がしないでもない。
ガチで最近のゲームは映画っぽい。それはプレイの合間合間に挟まるムービーがというわけではなく、むしろプレイ中のリアルタイムな演出が映画じみているという意味で。
3Dアクションゲームにはそれが顕著だ。プレイヤーがキャラクターを動かしたとき、そこに追従するカメラワークや、エフェクト演出が、それこそ映画のワンシーンのように細かく演出されている。HUD (画面上に常に表示される情報:HPゲージや、必殺技コマンドなど) をオフにできるゲームで、実際にオフにしてみると、あらゆるアクションが実に映画らしくなる。
ゲーム体験が映画体験に肉薄し過ぎて、ゲームを映画のように感じるそれが、逆輸入され始めているのではないだろうか。
1作目の『エイリアン』が至高な俺としては、ちょっと恐怖演出に芸がないとは感じた。ジャンプスケアに頼りがちな印象だ。
リドリー・スコットはマジでそこは天才的にうまかった。風景に溶け込んだゼノモーフがすでに画面に映っているという演出は半端なかった。登場人物だけが気づいていない、というのはあるあるだが、見てるこっちも「よく見たらおるやんけ!!」ってなるのガチで凄い。リプリーが脱出艇で準備をしているときに、目と鼻の先にゼノモーフの頭部が見えるシーンはマジで鳥肌ものだった。
あとやっぱゼノモーフいっぱい出すのはなんか違うよ。『エイリアン2』でのあれは、1作限りの禁じ手だったと思う。フィンチャーはその辺分かってたから、3ではドッグエイリアン1体に留めたんだろう。
パルスライフルでさぁ、羽虫みたいにバシバシ殺していくじゃん。完全生物としての威厳が…。
で、ラストに出てくるアレね。
もうそこまでやると、完全に二次創作なのよ。いや4はシリーズでもけっこう好きな方だが、でも別に4が見たかったわけではないのよ…。
愚痴ってばっかもアレなんで、良かったところを。
アニマトロニクスに拘ってたのは良かった。
『コヴェナント』の全身CGゼノモーフは、ちょっと軽すぎに感じたからねぇ。あんだけ俊敏に動けるならもう誰も逃げられんのよ。
でも今作のゼノモーフは全体的に生き物としての重量感があって、ジワジワと近づいてくるシーンでも説得力があった。
フェイスハガーくん大活躍で草。
マジキモ過ぎて最高でした。
ゼノモーフの成長過程は良い補完だった
サナギ形態のアイデアは良かった。
割と本作はゼノモーフの生態にフォーカスしていて、まぁちょっと神秘性が剥がされちゃった部分は否めないんだが (それは『プロメテウス』シリーズにも言えること)、ただ『エイリアン』シリーズは「生きることの禍々しさ」にフォーカスを当ててきたとも思っているから、本作のゼノモーフ描写はその補完をできていたように思う。
ゼノモーフはただ増えるためだけに他の種を殺す。殺すためだけに殺す。そういう「生き物」であって、ゼノモーフが生きることが、それすなわち殺戮に直結する。
人類もそれに近しい種であると言えなくもないが、ゼノモーフが他の種と隔てて「完全生物」と言えるのは、生命体でありながら生命体としてのしがらみに囚われず、個体増殖だけを追求することができるからだ(ゼノモーフは、明確に食事をするシーンが描かれていないこともあるが、真空状態でも生き続けられたり、チェストバスターから成体になるまでの速さと自己完結性から、そもそもエネルギー摂取を必要としていないと思われる)。
所詮、人類は生きながらえるために他の種を保全にも努めなければいけない、不完全な生き物だ。
対してゼノモーフは他の種を皆殺しにしようと「ただ生き続ける」ことができる。そんな「生きること」そのものに特化した存在が放つ禍々しさこそ、『エイリアン』シリーズの本懐であって、最も凶悪な生命讃歌でもある。
そんな生き物と相対せば、当然「殺す/殺される」のやりとりしかなくなる。つまり古典的な「怪物に殺される/怪物を殺す」というフォーマットに、『エイリアン』シリーズは還元されてしまうわけだが、それでいい。それで十分に映画は成立する。
深淵なテーマも、複雑な人間ドラマも、映画に必須の条件ではない。
醜くも美しい怪物の存在感で画面を支配しきることができたのなら、映画は映画として成立できる。それを堂々とやりぬくという気概を本作からは受け取った。
いやぁ、久々に映画見たなぁ。