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夏の終わりを撮ってみたよ、というお話

おはようございます。
福岡県を中心に活動をしている、むーさんと申します。
最近、撮りたいものや、何をどう撮ったのか、そういったあれこれを言語化する時間を作りたいと感じて、noteを始めてみました。

もはや季節は秋の終わりなのですが(レタッチがめちゃくちゃ遅い)、仲良くしていただいてる被写体さん(さきさん)と夏の終わりを意識した写真を撮ってみたので、その撮影について、意識していたことや気づきなんかをつらつらと綴ってみようと思います。


クロスフィルターで切ない夏の終わりを撮ろうという試み

さて、表紙にも使っている下の写真では、クロスフィルターを使ってみました。
今回撮ろうとしていたのは夏の終わり。
撮影は9月中旬で、まだまだ陽射しはキラキラしているような時期。

恥ずかしながら私は、これまでクロスフィルター=イルミネーションとかで遊び程度の感覚で使うオモチャ的アイテム、という偏見を持っていました。
ですが、クロスフィルターを情景、情動の表現にフルに活用していらっしゃる方をたまにお見かけするのも事実。というか、そういった方々の卓越した表現に見事に脳を焼かれたのです。

かくしてクロスフィルターをポチッた私は、クロスフィルターの光芒を利用して被写体さんの表情や姿を隠すことで、夏の終わり、過ぎ去る季節に何を想うのか...そんな情景を表現してみようという試みに出ました。

拡散する光芒が涙のようにも見えるのは嬉しい誤算

結果として目論見は上手くいったのかなと満足していますが、クロスフィルターを本格的に使うのは初めてだったので、いくつか予想外だった点も。

上の写真で触れたように、光芒にどんな意味を見出すかで表現が変わるということもそのひとつ。
正直、今回の撮影時はまだクロスフィルターに対する認識が甘くて、

①キラキラを切なさや追憶、思い出の演出に使う
②場面に応じて被写体さんの顔や表情をキラキラで隠してみて、想像の余地を作れる(かも)

程度の気持ちで撮っていました。
なので、上の写真で触れたような「涙に見える...」ということには撮影後に気づいて、悔しさ半分、楽しさ半分といった情緒に。
キラキラを明確に何かに見立てて撮ることができれば、表現の幅を広げられる...つまり、撮影中に気づいていればもっと作品の完成度を上げられたかもしれなかった...と臍を噛みつつ、次の撮影はこうしてみよう、という楽しみも見つかったというわけです。

(撮る前に気づけ、と言われれば何も反論ができない)

そして、もうひとつ面白かったのは、クロスフィルターの持つソフト効果。
私は基本的にブラックミストを常用していて、今回もクロスフィルターと重ねがけしているのですが、普段と比べて光の拡散が大きくなって、光芒が派手に出ていなくても全体的に柔らかい印象に。
そのおかげで、オールドレンズを使ったようなノスタルジーさを演出できたように思います。

レタッチをしているとはいえ、この仄かなソフト感はブラックミストとは性質が違うように感じた


日常を撮る

さて、技術的な話は一旦ここまでとさせていただいて。

ここからは私と写真の向き合い方の変化や撮りたいものついて、色々と考えさせられた撮影でもあむたのでその一端をこれまたつらつらと。

今回、というよりここ数ヶ月意識しているのが、「時間を撮る」ということ。

この一瞬、この写真に写るものだけが世界の全て──という、一枚絵として完成された写真はもともと大好物なのです。
一瞬を切り取るために注がれる熱意は、写真を撮る人間として惹かれないはずがありません。
私もこれまでは、そんな写真をメインに撮っていました。むしろ、続く時間を連想させる写真を撮るのは苦手だったというか。

この一瞬。ファインダー越しに見つめるこの情景だけが世界の全て。正直めちゃくちゃ好き。

ただ、それだけじゃいけないような気がしてきたのです。

この1年は私にとって、人間関係の変化を余儀なくされたり、転職をしたりと目まぐるしいものでした。

そして、周りの人たちが転職、結婚や出産を迎えたり、夢の実現のために動き始めたりするのをこの1年でたくさん目の当たりにしてきました。

そうして時間とともに移り変わるものを強く意識し始めると、親しくしてくれる大好きな方々を撮らせていただくことがほとんどな私の意識にも、変化が生まれました。

その時々の感情や素が出るような、その場の空気感や時間の流れ──あえて名前をつけるなら「日常」?──を感じるような、そんな写真も撮りたい、と考えるようになってきたのです。
(特に私の場合、頻繁にご一緒させていただく方々との撮影は、友達と遊びに行くような感覚で楽しんでいるという側面もあるので尚更に)

会話の中で撮った1枚。写る人の人柄やその場の空気感、前後に流れる時間を切り取るのって、意外と難しい


ただ、今回の撮影まではまだまだ漠然とそんなことを思っていた程度で、頭に浮かんでいた「時間」「動き」「思い出」という仮テーマを設定して色々試行錯誤していたのですが、そういう写真を撮るのって結構難しいんですよね。
意識して撮ろうとすると相手も身構えるし、その撮影にテーマを定めているのなら、そこから逸脱したテイストの写真は、ただのオフショットになってしまう。

普通のオフショットでも上述した目的意識は7,8割達成出来ているのだけど、せっかくなら作品の中に組み込めるように撮りたい。

こうして夏の間たくさんの方との撮影を重ねるうちに、撮りたいものの輪郭が少しずつはっきりしてきたので、今回はやり過ぎない程度に構図を整えながらも写る人の人柄やその時の空気感を写し出していこうと、さきさんにお願いして動いてもらったり、歩いてもらったりしました。

夏の海と帰り道。夏の終わりを連想させつつ、歩き方や視線が静かなお人柄を伝えてくれている...はず。

あるいは、これまでは撮ることがなかった、他の写真では切り落としてきた情景を補完するような写真を撮ってみたりも。

足元だけを写してみる。
撮影地点の近くにあった、海を臨むベンチ。

ようやく言語化できた、私の撮りたいもの

上述したような変化を意識しながら撮ってみて、そしてこうして文章にする中で気づくことがまたひとつ。

──カメラや写真という、瞬間を切り取る営みを通して、私たちの過ごした日常を、「過ぎ去ってしまってもう決して手の届くことのない、狂おしいほどに懐かしい時間」に昇華させたい。

カメラを辞めないといけないかもしれないというところまで追い詰められて、友人たちに支えられ立ち直って、そして大好きだった職場の人達とも別れを告げて新しい場所に立って。
そんな激動の中ふと目を向けると、友人たちの生き方も変化を迎え始めていた。

そんな1年間を経て私の胸の内に湧き上がってきた写真への衝動を形にするには、まだまだ腕や感性を磨かないと...と思うけれど、気づけたことがまずは第一歩だということにしておこうかな。

過ぎ去る季節へ想いを


さて、そろそろ文章も支離滅裂になってきたので


このあたりで一区切りにしようと思うのですが、結局のところ、この日の撮影は私にとって大きな転換点のひとつだったよ、ということです。
最初のクロスフィルターという表現技法の話からは随分と飛躍しましたが、これからの私とカメラの向き合い方に対するひとつの回答を見つけられたということを言葉にしたかった。
(本当は、もうひとつの回答を見つけたのだけどそれはまた後日)

いまこうして私が写真と向き合えているのは大切な友人たちや、私の色んな「撮りたい」にお付き合いいただいた仲間たちのおかげです。
そんな友人たち、仲間たちに感謝を。


駄文ではありましたが、ここまでお付き合い頂きまして、誠にありがとうございました。


追記

もしよろしければ、私と、今回被写体をしてくださったさきさんの他の写真もご覧頂けますと幸いです。

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