~過去の私との会話⑤~
限られた空間の中で、限られた人としか会話をしていないと思考が凝り固まりがちになる。自分はそれを嫌と言うほど知っているからこそ、意識して自分の思考を散らかそうと努力している。
だが、個室で歩けない状態が長く続く中で毎日毎日同じ様なことを考えさせられると頭がおかしくなりそうになる。
「自分がそんなにおかしいのだろうか…?」
そんなことを考えてしまっていたことも、殴り書きから感じることになっている。今だから言えるが、おかしいのは明らかに私ではない。
コミュニケーションの土台を疎かにして、自分の考えを押し付けることが『正しい』というのであれば、私がそれを間違っていることを証明したいとさえ思う。
▼ 物語は切り取り方で、印象が変わる
入院中によく思うのは『プロセスから結論まで説明の切り取り方によって受ける印象が変わる』ということに気づいていない人が、あまりにも多すぎる…るということである。
特に『プロセスを無視して結論をのみを伝える人』がなぜかものすごく多いところが気になる…。
個人的にはその結論に至った経緯も知りたいし、検討されたその他の選択肢についても患者の立場として知りたいと思うのであるが、なぜかその説明が省かれることが多い。中には「どうしてその説明が必要ですか?」と聞いてくる人もいた。
人間は物語の有様を一つの結論だけを見て判断することにあまり慣れていないと思う。…言ってみればそれだけで納得する人は、普段から何も考えていないのではないかとさえ思ってしまう。
ましてやその説明の仕方やプロセスの部分的な切り出しによって個々人の持つ印象は変わってしまうのに、なぜ結論だけ話して納得させようとしてるのか少々理解に苦しむ。
例えば私はよく桃太郎に例えるのだが、普通の人の知る桃太郎は
という理解の下で解釈されることがほとんどだと思う。ただ、これを極端な切り出しをしていると仮定をするとどうだろうか。
桃太郎がイヌ、サル、キジを仲間にしていてその手段はきびだんごとなっているが、もしこれが実はイヌ、サル、キジの家族を人質にとって無理やり仲間にしている…という描写が背景にあったとしたら、桃太郎の印象はどうなるだろうか。
鬼ヶ島の様子が描写として描かれて、鬼の子供が自分の親の似顔絵を書いてそれをプレゼントして親が喜んでいる…そんな描写の後に桃太郎が乗りこんできて鬼に乱暴狼藉を働いている…という描写であったらどうだろうか。
もちろんこれらは架空の話であるので、従前の桃太郎の話は周知の通りであるのだが、架空の話として物語が上記の様に切り出されたとすると人の持つ印象は大きく変わるだろうと私は思う。
他にも単純に商品を購入するとして、そこに至るまでのプロセスを知っている場合と知らない場合では、代金を払うときの気持ち良さも違う様に感じる。
分かりやすい例とすると、飲食店だと思う。
食パンを一つ買うのにしても店主の人が朝早くに起きて心を込めて作っているプロセスを知った上でその商品の値段を見た時に、ただ単純に『〇〇円』として買うよりかは気持ちよくお金を払うことが出来る様な感じと言える。
結局、結論だけでなく『そこに至るまでのプロセスを納得感を持った上で購入したいし、自分の判断をしたい』と考えるのがごくごく自然なことではないかなと思う。
これを入院中の今の私に当てはめると、その説明をされるまでのプロセスが私にとって納得がいくものでなければ話を正式に聞きたくない…ともなってしまう。
いや、約束も守れないし自分の言ってることに自信も責任も持てない人から指示されることが「どれほど不安で苦痛であるか」ということは、患者の立場でなければ分からないかもしれない。
この様に一つの出来事をどのように切り取られるかによって、仮にどんなに酷いことをした人であってもなぜか同情されることはあるわけだし、逆に悲しい結末でも多少怒りを覚えるようなプロセスの部分にスポットが当てられて共有されると同情ではなく非難の対象ともなりうる可能性がある。
人の判断は物語の結末だけに左右されるのではなく『どういったプロセスでどういった語り手がどの様に伝えたか』で、大きく変化することを改めて考えなければならないと思う。
これは私が『自分自身の伝え方』で相手の持つ印象が変わるということを強く普段から意識しているからこそ余計に思うことなのかもしれないが、誰が言っても同じということはこの世にはほとんどない。
新人看護師の意見は聞かないが、ベテラン医師の話は同じ内容であっても通る…のが世の常であろう。
言い方、伝え方、伝えるポイント、その順序…そういったところに注意していないと思わぬ誤解やいざこざが起きることは言うまでもない。
▼ 『正義』をもう一度だけ
『正義』や『正しさ』については、たびたび私の書き物の中に登場する。
私の仕事とは切っても切れない部分なんだろうと思う。本当に繰り返しになるが『正しさ』は人にも、時間にも、場所にもよって変わる。そこを「不変のもの」と捉えるからとてもおかしなことが起きる。
なのに世の中には「何かしら正しいものに寄りかかって大義名分を振りかざす人」があまりにも多い。
という思考停止が導き出す軋轢は、なかなか大きいと思う。
人には『譲れない正義』というものがもちろんあると思うし、それを否定するつもりもない。
逆に言うと『人それぞれの正義』というものは存在するはずであり、そこを尊重していく必要もあるのではないかと思うのだが、なかなかその正義が相手と相容れない場合に抵抗する人もずいぶんというものだと感じる。
つねづね人と話す時には、そこの部分を探りながら話すことが自分自身でも多いと感じる。
『生きる』という事に例えば正しさを与える、例えば心臓が動いている時間を最大化するということを『正義』だとすれば、それ以外の考え方はすべて正しくないことになる。
だが、生き方は本当に人それぞれであり『QOLを最大化したい』という人もいるだろうし、〇〇の様な状態になってしまえば『早く死にたい』と考える人がいるというのも私は真実だと思う。
その中で繰り返しになるが『生きる』ということを『生命が存在する日数』だけの正義で測ってしまう人は、決してそんなことは思わない。
『生きる』と『善く生きる』は『相対的な正しさ』として存在していいはずなのに『絶対的なもの』として示されてしまうから軋轢が生まれる。
相手の持つ「正義」や「正しさ」が間違っているのではなく、ただ「そこに存在している」となぜ見ることができないのだろうか。なぜ「自分の正義を押し付ける」のだろうか。
この入院中に、本当に本当に何度も思ったことである。
「どれも正しくあって、正しくない」ぐらいの視点で眺めることが出来れば、世界はもっと平和になるし心穏やかに生きられるのではないだろうか。
その人の持った正義はあくまでも『誰かの都合』であり、そこに誰かを従わせる必要はないと思う。無論私のこの考え方もただの一つの正義であり、誰かに強要出来るものではない。
人は「自分が正しい」と思い込めば、どんな残酷なことも出来る様になる。
自分の考えが正しくて、目の前にいる相手がおかしいと思い込むことの危険さについては、改めて胸に留めておく必要があると思う。
暗いニュースばかりで目を背けたくなるが、戦争の報道を見ていると根底には「どちらも自分のやっていることを正しい」と思う人たちが行き着く先はこの様な形であり、その時に苦しむのは圧倒的に弱者なのだろう。
▼ 0には様々なプロセスがある
プロセス重視の私の考え方において、そのプロセスを知ることは主観的にも客観的にもとても重要なことである。
人は主観を用いて話すことが多いし、それを100で受け止めると辻褄が合わないことも多いので、私はどこか人の話を聞く時には『のめり込む部分』と『冷めた部分』を持ち合わせている。
結論だけに目を向けるのではなくプロセスにも目を向けるというのは、実際そういうこと長い年月をかけて自分の中で構築してきたつもりである。
『0』という数字を一つの結論だとするとプラスでもマイナスでもないスタートラインのような見え方がするのかもしれないが、実際その0に至るまでにはさまざまなストーリーがある。
例えば私の人生が尽きた時にその数値を0だとして、ずっと0のまま数十年間を過ごしてきた…ということは決してない。大きくプラスに触れることもあれば、逆にマイナスを耐え忍んだ時間というものも存在する。
そこのプラス分とマイナス分を最終的に計算した結果が『0』というだけであって、0のままずっと…というわけでは決してない。
どんな人にも人生のプロセスがあり、ストーリーがあり、プラスがあり、マイナスがある。そういった流れを汲んでいるんだと思うのだが、単純な計算結果として0を見てしまうと「何も起きていなかったこと」の様に錯覚してしまう。
それはとても勿体ないことだと思うし、マイナスに大きく振れた時に自分自身のメンタルを保つことも難しいと思う。
「人は死ぬときに0となって死ぬ」という様なことを謳っている本やWEB記事を読んだことがある。まさにその考えが私にとって自然なことであるとは思うのだが、人生は一瞬一瞬の積み重ねでありその瞬間の点数がどうであるというよりかは命尽きる時にプラスもマイナスもなく『0』で終わるというのが最も人間らしい人生だと私は考えている。
私の人生の中にも嬉しくてプラスだった瞬間は当然あるし、苦しくて辛くてこのまま死んでしまいたいと思ったマイナスも存在する。その瞬間をすべて足し合わせていった時に『0』となって終わる様な人生を歩んでいきたいと思う。
ここ数年は病気でマイナスに触れているような時間が長かったのだが、それを体が必死に様々なことを考えて自分に言い聞かせてプラスにしようとしている…様にも感じる。その結果0で終わるのであれば、それもそれかなと思う。
今、家族と共に過ごす時間が「失われたマイナス続きの時間の穴埋めのため」に存在しているのであれば、私はその時間に感謝して噛み締めながら生きようと思う。
▼ さいごに
今回のNoteは少々哲学的な内容が多かったのだが、今だからある程度まとめられると思っている。きっと当時の病室であればここまで思考を整理することも出来なかっただろうと思う。
頭の中にはあるのに言葉に出来ないこと…というモノはやっぱりあるのだと思うのだが、それを少しでもしっかりした文章として残していきたいと考えているのが今の自分の生きがいともなっている。
数年後にこの文章を見返したい。その時にどう思うのか感じたい。だから生きたい。そう思う。
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