~過去の私との会話⑥~
今回のNoteで、数か月間に及んだ私の入院時の殴り書きのメモの取りまとめが終わる。
全てをまとめられたわけではないが、自分を客観視して第三者的に話をまとめてみるとまた違う感情が現れる。
どうしても一人で入院している時は主観的かつ感情的なメモが多かったが、今の自分と会話させてみると多少冷静になることも出来る様である。無論、感情として隠せない部分も多いのであるが。
治療の方向性もまだ明確ではない点も多いので、書ける環境下にある限りは私の生存記録としてNoteは続けていこうと思う。
▼ 幸せをどの様に実現させれば良いか
つくづく『幸せ』について私は考え込むことが多い。おそらくそれは「幸せになりたい」ということであって、今自分は「幸せではない」という解釈をしてしまっているせいだと思う。
相対的に見れば今の私の状況をネガティブに思う人が多いのではないかと思うが、ポジティブに思ってる人もおそらく少なからずいるとも思っている。「結果的に自分がどの様に思うか」と頭で分かっているのだが…というところである。
健康であれば
という様に、様々な形で幸せの実現に向けて努力をしていたんだろうと思う一方で、今の幸せは
と、いったところで十分満たされる。
その幸せは一見すると通常時よりも少なそうであるが、私の中ではもう充足していて満足感を得ることが出来る。
結局幸せの解釈としては自分自身にあり「幸せ山」を登るにあたっては必ずしも「旅行」や「大金」といったカテゴリーを経由しなくても、自分は充分幸せなんだと心穏やかに思うことが出来る。
病気になってそういった感覚を得たのであるが、無論それで病気になったことが全て良かったとは思えない。
何度も何度も考えた。しかし私は「病気になって良かった」とは結果的に思えなかった。無理やりに思い込んで色々なことを理由付けしてみたが、『理性』ではなく『心』で考えた時に今の時点では納得のいく答えが見つけられていない。
幸せは様々なプロセスを経て達成出来るものであるから、一つのプロセスに固執する必要はないと思う。そこに「過去の夢」や「お金」や「贅沢」など様々な道のりがある中で、それをもう選択する気持ちは私にはないのかもしれない。
裏を返すと、それらを経由しなくても私は十分幸せになれる。
『一瞬一瞬を幸せだと過ごせること』と『幸せに向かって苦難を積み重ねていくこと』のどちらも経験してきているつもりであるが、結局幸せ山の登り方は人それぞれであって今の自分の身の丈に合った登り方をしていけば幸せは実現出来るのではないかなと思う。
本当に何度も繰り返しになって恐縮であるが、私は家族と会えずに涙していた時から比べると妻と子供と過ごす安心感だけで心地よい眠りにつくことが出来る。
…それを『幸せ』と呼ばずに何としたらよいのだろうか?
▼ 事実と感情を分ける
入院をしていると、どうしても自分の考えはネガティブな方向に動きがちである。
そんなことばかり考えて気持ちが落ち込んでしまうのだが、ここで理屈としては「自分の置かれてる状況をどのように捉えるか次第で結果が変わってくる」ということをお話したい。
ちなみにこれは私も理屈上は何度も理解をしたのだが、最終的に自分が死と隣り合わせに直面した時にどこまで守れるかという自信をあまり持てない…ものでもあるというのは補足しておきたいと思う。
結論から申し上げると「幸せとはただの解釈」であり「出来事とは別物」ということが言える。
目の前にある出来事には『感情』というものは存在せず、あくまでもその出来事についてどう思うかは人それぞれであるということである。
例えば私の病気もそうだ。一般的に考えれば『病気=ネガティブ』なものという感情のラベリングをされがちであるが、そこに「楽しい」とか「嬉しい」とかそういったポジティブな感情のラベルを貼ることだって出来る。
そんな人いるわけないと思うかもしれないが、実際「どうしても仕事を休みたくて風邪をひいてラッキー」なんて事は現実的にあるかもしれないわけで、病気の重軽傷度合いというものに差はあれど一つの物事に対しての感情は人それぞれであるということは頭に置いておかなければいけない。
そこから考えると『幸せ』というものは、結局『出来事そのもの』ではなくて『出来事についてどの様な感情を持つか』という個人の裁量に左右されることになる。
結果的に「自分が幸せだと思えば幸せ」だし「不幸だと思い込み続ければ不幸になる」ことは簡単に出来る。だからこそ普段の生活で心がけていることとしては『事実』を変えることが出来ないのであるならば、その『解釈』を少しでも変えることは出来ないかということである。結局、幸せは自分の解釈一つである。
それならば変えられない事実に狼狽するのではなく、それについてどう思うのかをコントロールしていく方が今の自分は生産的だと思っている。
『出来事』と『感情』をイコールにするのではなく、『出来事は出来事』そこから生まれた『感情は感情』と意識して生きて行く方が心穏やかに過ごせる。
そういう可能性があると、私自身頭で分かっている。分かっているのだが、どこまで出来るのか、繰り返しにはなるが自信はない。
▼ さいごに
再発を繰り返し、現在も先行きが見えない中にいるがん患者の書き物としてはいかがなものか賛否あると思う。もっと体調に不安が広がれば、考え方も大きく変わるかもしれない。
ただ、人は必ず死ぬという事実の中で現時点で死に様を飾るようなことはあくまでも考えていない。
繋いでもらった命ある限り、生き様を整えようと『過去の私との会話』を続けてきた。未来にこのNoteを見返して、何か思う所が出てくる様な未来を望みたいし、その様に生きたい。
最後までありがとうございました。
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