『同情』と『共感』の違いについて
今回もTwitterの方から頂いたテーマである。
体調が悪くてしばらく書けなかった。
あくまでも自分なりの記載であるので、参考にになればと思う。
▼ それぞれの違い
私の中では『同情』とは「相手と自分の立場が違うこと」が前提になる。一方で 『共感』は「相手との共通点があること」が前提と言える。
言葉は似ているけれども、大きな違いとしてこの背景の違いがある。
私は病人なので、病気を用いて説明すると。類する病気の罹患者であれば、私の話に『共感』が少なからず出来るのではないかと思う。反対意見もあるだろうし、当然すべての人に届くとは思っていないが。
一方で、私のような血液がんの罹患者というのは、当然全国民の中では圧倒的に少数派である。
そのため苦痛や苦しみを感じたことがなければ、経験したこともないという人が大多数のため、罹患者の心情や辛さに対して「どう答えたらいいのかわからない」という非罹患者もきっと多いのではないかと思う。
ただ、この『同情』と『共感』の違いが大きな歪を生んでしまっているのが、現状であると日々強く感じる。
▼ 同情について
『同情』という言葉から連想するのは、私の世代からすると「家なき子」「『同情』するなら金をくれ」である。
これは大した理由も分からずにただ「かわいそうだね」「大変だね」「辛いね」といった言葉を投げかけるぐらいであるならば、『何かしらの有益なものを渡してくれ』という意味合いではないかなと、今改めてあの言葉の重みを受け止めている。
私個人の感覚としては『同情』に想いや願いや時間軸がないのである。
病人側から健康者に対して「何もわからないくせに」だとか、「どうせ理解してもらえない」といった感情が生まれてしまうのは、そういったところからではないかなと感じる。
ちなみに『同情』が私は悪いことだと思ってない。
ここには一種諦めにも似た感情もある。病気で入院した人がいれば最初に出る言葉は「大丈夫?」であろうし、それにいちいち「想いや願いはあるのか?」なんて思ってはいられない。
ただ、現実を客観視して把握してみるとその様に感じるのである。
▼ 共感について
『共感』に関してはどうだろうか?
『共感』には相手の共通点があると前述したが、Twitter上にはたくさんの人がいるが、私のTwitterのフォロワーには似たような病気の罹患者が多い。
意識的にフォローし、相手もフォローを返してくれたりもしているから、当たり前のことだと思う。いわゆるその辺の友人より、見ず知らずの同じ罹患者の方が話を理解してくれるというのが『共感』の強みである。
一方で罹患者でも健康になる人もいる。現代医療に感謝である。
私の短いTwitterの経験上でいくと、病室から出たとしても変わらない頻度でツイートを続ける人は半分にも満たないように感じる。
なのである意味「病気が治った」というツイートを最後に、日常生活を取り戻している人も居るんだなというのが正直な感想である。
だが、罹患中でも私のようにTwitterの文章そのものが打てなくなってしまう、それくらい苦しい症状の方もおそらく多々いらっしゃるんだと思う。
そんな人たちの苦しみに本当に自分は『共感』出来ているのかどうか、といったところまで考えてしまうと、『共感』も結局病気の内容や進行具合、年齢等によって差が生まれてしまうものなので、結果的に何が正しいのか正しくないのかという答えをつけるのは、ちょっと難しいのではないかと思う。
▼ さいごに
一つの結論として、私なりのまとめをここにかけておきたいと思う。
『同情』するのは構わないが、相手方が必ずしも受け取っているかどうかは分からない。一方で患者側から健康な方へ悩みを相談して、ありきたりの回答しか返ってこないのも正直、心のつり合いが取れないのである。
ここは少しわがままなのかもしれないが。一歩だけ歩み寄って欲しいと思う。
私個人として嬉しいのは、想いを紡いでもらう時間を繋いで欲しいということである。
『同情』に想いや願いや時間軸が無いと書いたが、そこにその気持ちを持たせて欲しいのである。
私には苦しんでいる病気療養生活の中で時々連絡が来て、毎日100円の貯金を続けてくれている人がいる。その人は少なからず真摯に数秒か私のこと毎日思い出してくれている。
遠く離れた地での治療中は「何でも言って !」と差し入れを名乗り出てくれる人もいる。口では皆言うのかもしれないが、本当に実行してくれる人はそれほど多くない。
『共感』には同じ様な病気になる必要があり、『同情』には中身を求める。
客観的に見ると患者はずいぶんいろいろ考えるなと思うが、わがままであっても、この削り取られた感情が人間の持つ根本にあると思っている。