魂を失った仏像 -「283 Production LIVE Performance [liminal;marginal;eternal]」を分析する-
2025年1月11日(土)・12日(日)に行われた「アイドルマスター シャイニーカラーズ」に端を発するライブイベント「283 Production LIVE Performance [liminal;marginal;eternal]」が物議を醸しています。
このイベント、一般的に「ライブ」と呼称されるものとは少し違った趣向のものなのですが、その演出が大変に賛否の分かれるものでした。
個人的にこの形式のライブに対してはとても深い感銘を受けており、思うところが多々あるので所感を記しておこうと思います。
イベントの概略と物議を醸した経緯
前述の通り、本イベントは一般的なライブとは形式が異なります。
通常「アイドルマスター」シリーズにおけるライブは、各キャラクターを演じる声優さんがステージを上がり、時にキャラクターに扮し、時に素でMCをし、パフォーマンスを行うものです。
今回のイベントにおいては、通常のライブと会場や設備は同様であるものの、ステージに生身の人間は登場せず、代わりに透過スクリーンが設置され、投影されたキャラクターそのものがパフォーマンスを行います。
「アイドルマスター」シリーズにおいて、この形式は「MR」と呼ばれており、これまで以下のような展開がされてきました。
「THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆」(765AS)
「765 MILLIONSTARS LIVE 2023 Dreamin’ Groove」(ミリオンライブ!)
菊地真・萩原雪歩 twin live「はんげつであえたら」
961 PRODUCTION presents 『Re:FLAME』
「283 Production LIVE Performance [liminal;marginal;eternal]」は、MRライブとして初めて「シャイニーカラーズ」を題材としたものです。
物議を醸している演出は、全4回公演の内の2公演目以降に行われました。
11日(土)の初回公演の内容はこれまで他のブランドが行ってきたものに準ずる内容でしたが、同日の2公演目の途中、ライブが一時中断。再開後は緋田美琴を欠いた状態で進行し、七草にちかと2人で組んでいるユニット「SHHis」の楽曲は、にちか1人だけで披露されました。MCにおいてにちかの口から美琴は「体調不良」であり、大事をとって出演を見合わせる旨が告げられます。
翌12日(日)の3公演目は一部制限した形で緋田美琴が復帰、3公演目の状況から判断し4公演目は通常通り出演しています。
賛否それぞれの反応
この演出に対して、様々な意見が見られました。
私が見たものを簡単にまとめると、以下のような感じです。
批判的な意見
意図的に出演者を欠員させる行為は、その出演者を目当てにライブへ足を運んだ観客に対して不誠実である
キャラクターをライブ全体の演出の犠牲とし、消費している
今回の演出を受容するのであれば、4公演全てをパッケージで観る必要があるが、事前にそれを知る術が無かった
好意的な意見
プログラミングされた映像をただ観るだけという退屈さを打破する演出であり、この形式のライブにリアリティが生まれた
単なる1回のライブではなく、ストーリーの中の1時点を上映するという意義においてはこの演出に必然性がある
それぞれを一言で表すのであれば、批判された点は「受け手に対して不誠実であること」、支持された点は「アンチテーゼを徹底していること」という感じでしょうか。
私自身の意見とその理由
さて、私の立場が肯定・否定どちらなのかといえば、そりゃあもう凄い勢いで否定的な立場です。
ただし、今回の演出に対して良い印象を持っていない理由は「観客に対して不誠実だから」ではありません。
私は今回の演出が、MRライブの価値を大きく下げていると思うからです。
私自身、「MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆」「Dreamin’ Groove」の来場は叶わなかったのですが、「はんげつであえたら」「[liminal;marginal;eternal]」は配信視聴、『Re:FLAME』は4公演全て現地で体感しています。
配信や現地での体験を通して、私がMRライブでもっとも魅力だと感じた点は、仮想と現実の境目が曖昧になるところです。
「MR ST@GE!! MUSIC♪GROOVE☆」の会場はホログラフィック劇場でしたが、「Dreamin’ Groove」以降は通常のライブと変わらないホールを使用するようになり、現地のライブを指す呼称から「MR」の文字も消えています。
ライブにおいて「アイドルマスター」という単語は登場せず、ユーザーは「プロデューサー」ではなく観客として扱われます。
あたかもアイドル達が自然とこの世に存在していた、ずっと前から当然にそうであったかのように思わせられるような仕掛けがなされているのです。
結果、通常のライブでは得られないほど没入感を私は感じました。
MRライブにおいて重要なこと
なぜ、MRライブは仮想と現実の境界を曖昧にできるのか。
それは、「作り物である」ということに思考が向きそうな部分をできる限り隠し、ぼかしているからだと思います。
ステージ上に設置されているように見えるスクリーンも、触ってみるまではそれが本当にスクリーンだと100%確信することはできません。
プログラミングされているように見えるダンスも、本当にプログラミングであると100%確信することはできません。
終演後のお見送り、「手を振る映像を流しているのだろう」と仮定する頭には、自分が手にしているグッズを見た美希が「あ!美希のグッズ!」と声をあげているという事実が揺さぶりをかけてきます。
99%そうだと思われる状況であったとしても、100%の確信にはいたらないようになっています。
いくら状況証拠はあろうとも、決定的な物的証拠は出さない。
それが、あの没入感に満ちた空間を生み出しているのだと考えます。
本公演の致命的な失策
「[liminal;marginal;eternal]」において致命的だったのは、緋田美琴の離脱理由を「体調不良」だと断言してしまったことではないでしょうか。
「スクリーンに見えるけど、実はスクリーンじゃないかもしれない」「プログラムのように見えるけど、プログラムじゃないかもしれない」という疑念を無視してライブを肯定的解釈できるのは、真偽に言及せずぼかしているからです。
「体調不良になった」ということを公式に事実として提示されれば、肯定的解釈する際にそれを織り込む必要が出てきます。
現実を肯定的に解釈するのに邪魔な情報を、わざわざ公式に提示してしまっているのです。
肯定的解釈に無理が生じれば、思考は「作り物なのではないか」という方向に傾きます。
そうなると、ライブ中ににちかの口から事情が語られたことも、その思考を助長する危うさを持つようになります。
結果、逆に「この離脱は人の手によって書かれたシナリオなのだ」ということを強く印象付けてしまっているように思いました。
これは、MRライブという形式自体の価値を下げる重い失策ではないでしょうか。
「仏造って魂入れず」ということわざがあります。
作為性が印象付けられ、「仮想と現実の境界が曖昧になる」という魅力が削がれたMRライブは、魂を失ってしまった仏像のように感じられます。
では、どうするべきだったのか
徹底して確信につながりかねない部分を隠しぼかしてきた中で、今回あえてそれを前面に出すという演出が行われました。
既定路線に対するアンチテーゼとして用いられた「アクシデント」という道具そのものも既定路線だと感じられる要素があったために、不完全なものになってしまったのではないでしょうか。
では、今回の演出を成立させるには、どうすればよかったのか?
私が考えるポイントは、以下のようなものです。
美琴が離脱する際に、にちかの声を流さない
美琴の離脱については、にちかのMCではなくスタッフアナウンスで告知する
離脱の理由は明言せず、「諸事情により」とだけ説明する
12日(日)の2公演は美琴を一切出演させない
公演が完全に終了した後で、体調不良だった旨をアナウンスする
公演終了後に、バックステージの様子を描いたシナリオを展開する
今回の演出を成立させるには、「美琴がいなくなった」というアクシデントについて「最初から決まっていた」と類推されうる要素を徹底的に排除して、本物のアクシデントだったのかどうかを曖昧にする必要があったと考えます。
ストーリーとしての意味付けをするのであれば、終了後にライブの進行に沿ったシナリオを展開するなど、「実際に起こったアクシデントに対して後から意味付けを行った可能性」を残しておくべきだったと思います。
これはこれで相当の反感を招く可能性はあります。「受け手に対する不誠実さ」は何も解決されていません。
ですが、批判覚悟でこの演出をするのであれば腹を括ってここまでやらなければやる意味がなく、かえってライブの価値を下げることになるのではないか、というのが私の意見です。
むしろシャイニーカラーズであればこそ、そこまでやって欲しかった。
今作は現実のライブか、演劇か
ここで一旦今回の演出を「良かった」と評価する意見に立ち戻ってみると、これまで述べてきた特徴である「真偽が曖昧」という点を重視しておらず「作為的なシナリオでもいいから、自分が先の展開を予想できない方がいい」と考えていることが分かります。
通常のライブにおいて全体4回の公演内容が同じだったとしても、それにをマイナスに評価する人は少ないでしょう。
それは、多くの関係者が全体4回の公演内容が同じになるように努力や尽力した結果として成し遂げられたものだからです。
このイベントを「現実のライブ」と捉えているのであれば、公演内容が4回とも同じであったとしても、上記のように捉える人が大半でしょう。
一方で、2公演目の冒頭でこのイベントが「退屈」だと感じている人は、そもそもライブの仕掛けによって真偽の曖昧な状況に没入している感覚が薄く、このイベントを「ライブをテーマにした演劇」に近い感覚で観ているのではないかと考えられます。
今回の演出に対する評価の差は、この捉え方の違いから来ているのではないでしょうか。
先程のことわざになぞらえるなら、「魂なんてなくてもいいから、より派手な仏像の方がいい」という考え方。
そもそもシャイニーカラーズというブランド自体、それより前のアイマスにおいて重要だった「プロデューサーを自称してのロールプレイ」を比較的ユーザーに要求しないことを特徴としています。
そのため、曖昧な状況に自分を没入させていく、という楽しみ方が他のブランドに比べると浸透していないのかもしれません。
演劇としての見方も、それはそれで有意義であると思います。
ただ今作に関して言えば、現実のライブに見えるような仕掛けと作為性の暴露を厭わない演出が混在しているため、どうしても中途半端な印象は否めません。
そういう意味では、シャイニーカラーズというブランドとMRライブは意外と相性が良くないのかもしれません。
終わりに
分析めいた所感は以上になります。
ここからはより個人の心情のようなものになるのですが、「アイドルマスター」シリーズにおいて「シャイニーカラーズ」は「仮想と現実の境界を曖昧にする」ことが非常に上手い印象を持っていました。
重厚なシナリオや、一般的な「ゲームイラスト」のイメージからかけ離れたビジュアルデザイン。
「ご都合主義」を排除する姿勢は、ブランドのアイデンティティにも関わるものだと思います。
アイマスEXPOにおける、まるで現代美術かのようなブースも記憶に新しいところ。
よりにもよってその一丁目一番地ともいえるライブで、このような「ゲームシナリオ感」「ご都合主義」という要素を含む演出を前面に押し出してしまったのか理解に苦しむ、というのが全体としての感想でした。
以下の余談は単なる恨み節なので、興味のある方だけどうぞ。
お読みいただきありがとうございました。
余談
今回の件に関するnoteとかたくさん読んだのですが、当然どの記事も冒頭で今回のライブがどういうものなのかを説明してるので「プログラミングされた映像を流している」という文面を繰り返し繰り返し読むことになるのがめちゃくちゃ苦痛でした。
不要な部分からは目を背けることが重要なMRライブにおいて、そういう部分がこれだけ文字に起こされるきっかけを作ったというだけでもlmeは大損害を引き起こしてると思います。
これからシャニマスに限らず、MRライブ観てると「この子達がライブに立っているのは『体調不良で現場を飛ばすというシナリオを書かなかったというだけ』なんだよな」っていう思いが頭を過りそうで、とても嫌な気分。
ただ、これだけ不誠実なことやっても肯定してくれる層は岩盤支持層として固められるし、ついてこれない層は払い落とせば選民思想のエサになるし、経営判断としては意外と合理的だとも思いました。
もはやアイマス内でブランドごとにパイを取り合ってる面があるのは間違いないし、伸び盛りの学マスとターゲット層が一番被ってるのはシャニマスのような気がするので、岩盤支持層を固めるのは重要なのかもしれません。