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フィルム写真の「エモさ」について考える

先日、ふとnoteでこんな記事が目に入りました。

とても興味深く面白い内容なので、未読の方はぜひ。
読んでいたらあれこれと感想が浮かんできたので、徒然と書いていきます。


両者の「懐かしさ」は同じものなのか?


まず思ったのは、「今撮ったフィルム写真」と「撮って時間が経ったデジタル写真」に対して抱く「懐かしさ」って、そもそも全くの別物なんじゃないか?ということ。

考察で述べられている「撮って時間が経ったデジタル写真の懐かしさ」は、自分がリアルタイムで体験したことに対する愛着を源泉とするもののように思います。

対して、「今撮ったフィルム写真の懐かしさ」は、自分が体験できなかった過去のものに対する好奇心を源泉としているのではないでしょうか。

同じ「懐かしさ」という言葉で表されますが、この二つは全く異なるもののように感じます。

若い人たちにとって、フィルム写真は「自分が体験する前に時代遅れになってしまっていたもの」だと思うんですよね。

私は1990年生まれなんですが、自分が中学生の頃にはデジタルカメラがかなり普及していたように記憶しています。

フィルムカメラの思い出といえば、小学校低学年ぐらいの時に祖父が写真屋にフィルムを持っていくのについていったことや、乳白色のフィルムケースで工作をしたこと、小学校の修学旅行に「写ルンです」を持って行ったことくらい。

今の20代の人達なら、なおさら馴染みの無いものでしょう。

フィルム写真の「エモさ」のメカニズム


「今撮ったフィルム写真」と「撮って時間が経ったデジタル写真」における懐かしさの差は、心の動きにどう影響するのでしょうか。

「今撮ったフィルム写真」は過去の技術で今の風景を撮ることにより、「今この瞬間も、いずれは失われてしまう」という事実を強烈につきつけてきます。

対照的に、最新の技術で撮影された写真は過去の情景をできるだけ遠い未来へ残そうとします。

そうして「撮って時間が経ったデジタル写真」は、後になって「失われてしまった過去の瞬間を今に呼び起こす」ものです。

同じ「懐かしさ」という言葉で表されるにしても、心の動きとしては真逆ですよね。

「エモい」という言葉が内包するニュアンス


「エモい」という言葉の由来の一つに、「Emo」という音楽ジャンルがあります。

Emoは叙情的なメロディや心情吐露を含んだ歌詞が特徴であり、ここから「スクリーモ」と呼ばれるサブジャンルが派生しました。

そのため、「エモい」という言葉には、「胸を締め付けられる、思わず叫んでしまいたくなる」ようなニュアンスを内包しているように思います。

(ただ、言葉として広く使われるようになった結果、対象が広範化し上記のニュアンスを含まない事象に対しても「エモい」という言葉が使われるようになっているような印象はあります)

「エモさ」とは、単に「懐かしい」と思うだけでなく、それによって「胸を締め付けられる、叫びたくなる」切なさが潜在的に含まれていると考えられます。

「今撮ったフィルム写真」が「エモい」と言われるのは、被写体が何かに関わらず「失われてしまうこと」を強く意識させられることにより、胸が締め付けられるような、叫んでしまいたくなるような切迫感が湧いてくるからではないか、というのが私の考えです。

ちょうどラテン語の「メメント・モリ」のように、「失われることを意識するからこそ、より大切に思わなければならない」という心の動きが起こるのではないかと思うのです。

一方で、「撮って時間が経ったデジタル写真」によって胸を締め付けられるような、叫びたくなるような心の動きが起こるかどうかは、写っている被写体が何かに委ねられます。

「撮って時間が経ったデジタル写真」と違い、「今撮ったフィルム写真」はフォーマットの構造として常にこの切迫性を備えていると考えます。

以上のように、「今撮ったフィルム写真」に対して言われる「エモさ」とは、「撮って時間が経ったデジタル写真」が時間をかけて醸成する「体験したものに対する懐かしさ」に起因する感情とはそもそも別物であり、「今味わうか、将来味わうか」という単純なタイミングの違いとは必ずしも言えないのではないでしょうか。

よって、フィルムカメラを手に取る動機を「懐かしさを醸成する時間の節約」とするタイムパフォーマンス論に帰結するのも、どこか据わりの悪さを感じてしまいました。

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