知識があっても実践でできる知恵には敵わない話
知恵の輪をやったことあるだろうか。
ボクはない。
どこに売ってるのかもよくわかってない。ドンキかな?
知恵の輪は、ただ力任せにやっても外れない。
輪と輪を特定の形に持っていって、金属同士をくぐらせて外す知恵が必要なものらしい。
そこで、いくつかYouTubeで知恵の輪を外す動画を観てみた。
確かに外すには工夫が必要で、方法がわかるとなるほどと思った。
発想力のトレーニングにいいかもしれない。
しかし、いくら動画を観てやり方を知ったからといって、実際やってみたらできるかどうかは別だ。
これは、キャベツの千切りと同じである。
キャベツの千切りは、ボクは100回くらい「ふんわり千切りにする方法」のやり方を調べた。だけど、一度だってふんわりした千切りになったことがない。
キャベツを前にすると、何故か消えてしまうのだ。記憶が。
ミョウガの切り方もそうだ。ミョウガはこうやって切るといい感じになると教わったのに、いざミョウガを目の前にするとその教えがどっかいってしまう。
なすの乱切りも、白髪ねぎの切り方も、知ってるはずなのに目の前にすると脳が働かなくなる。
わからなくなった時点で調べ直せばいいのだが、なかなかそれをしない。
いかんせん、切り始めるまではできる気がしてるので、切ってから「あれ?」と思い、違和感を覚えながら続行してしまうのだ。
結果、くっちゃくちゃの野菜の山ができあがる。
「やり方を知ってる」と「できる」の間には、大きな壁がある。知識があっても、いざ実物を前にすると、急にわかんなくなっちゃうのだ。
知恵とは、『物事の筋道がわかり、うまく処理して行ける能力』なのだという。
どんなに「知識」があったとしても、実際にうまく処理するには「知恵」が必要なのだ。
しかし、もし知恵の輪が外そうとするたびに記憶が消えるのならば、何度でも遊べる玩具になるかもしれない。
いつか、実際の知恵の輪を外してみたいものである。しかし、当分先だろう。
何故なら「知恵の輪が欲しいな」とドンキに行っても、店に着いた時点で「何を買うか」の記憶が消えるだろうから。
知識とか知恵とか以前に、まず記憶力がないのかもしれない。