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社不クリーム

生きている。電車の吊革に左腕を通していると、ガラス越しの自分と目が合った。あっち側の私は酷い顔をしている。揺れる電車の中、吊革をなんとか握りしめて、大荷物が入った鞄を右肩にかけて、時々足元がぐらついて、「あっ、すみません」と隣の人に聞こえるのか聞こえないのか微妙な声で謝る。目も合わせないで謝る。午後五時の電車、急行押上行きは、線路に横たわるいろんな感情を轢き殺していく。私たちは小さな箱にこれでもかというほどに詰められて、移動している。

先程おいしいシュークリームを食べた。一人で入ったカフェで、コーヒーとのセットで頼んだ。外はパリパリ、カスタードは溶けかけのアイスみたいにちょうどよく固くて甘くて、あまりにも私の理想のシュークリームだったから、伝票を置きに来た店員さんに「美味しいです、すごく美味しいです」とナイフを片手に持ったまま伝えてしまった。店員さんは笑顔を崩さず、ありがとうございます、こちらが当店のオススメでございます、と言ってくれた。
地面から少し浮いている感じがする。体が軽い。ああでも、仕事だ、これから仕事がある。電車に乗らなくてはいけない。すし詰めにされて、運ばれていく。考えただけでうげえ、となる。

私はばかだから、人の十倍努力しないといけないのである。
学生時代もテスト前は夜中から朝方まで勉強したし、受験だって遥か遠い目標点を目指して頑張った。一浪の末、やっと引っかかった大学に入学した。
人の十倍努力が要る。バイト先で皿を割るたび、授業についていけなくて年下の同級生に頭を下げて勉強を教えてもらうたび、もう充分に慣れたつもりではいたのに悔しかった。程なくして、朝起きれなくなって、夜に眠れなくなった。かかってくる電話には「ごめん、今日は自主休講!笑」と明るく返していたけど、ひとりぼっちの日光が差さない部屋に閉じこもって、朝や夜が分からなくなるほど酒を飲んだ。人の十倍、努力もアルコールも必要だった。バイト代を溶かしては酒を買い、早朝四時に意識が戻ってくると現実から逃げたくてまた飲む。
いつのまにか友達はいなくなっていた。「とうわは大学生活からフェードアウトしたもの」と扱われるようになった。

学生課に相談して、休学をすることになったけれど、こんなに何もしてないくせに「何も無い」のが怖すぎて二週間で復学した。この頃はもう、人と比べるような(同級生はみんな、見えないくらい上に行ってしまっていた)ことはせず、ちょうどコロナと重なったこともあり、いよいよ家から出なくなった。

五月某日、街の半分くらいの人はマスクを外していた。
シュークリームを食べる。美味しいと思う。店員さんにそれを伝える。ご馳走様でしたと言って店を出る。仕事めんどいなあと思いながらも、足元は浮き足立っている。電車の混雑具合を考えて少し地にヒールが着く。

今の私は、人の三分の一くらいしか努力していない。というかそもそも、人の基準が分からない。自分と手を取り合って、やれる範囲のことをこなして生きている。おいしいシュークリームも、体重を気にせず食べてしまう。

それなのに、電車の窓に写る私は、大学時代の特にしんどかった時みたいだった。私は極力私に優しくしてきたつもりだ。何が苦しいのか、なんでそんな顔をしているのか、わからなかった。電車は進み続ける。降りる予定だった駅をすっ飛ばしていく。あ、間違えて急行乗っちゃったんだ……と後悔しても遅い。知らない駅に運ばれる。なぜか涙がぼろぼろ出てくる。電車にも乗れないのかよ、さすがにそれはちゃんとしろよ、仕事遅刻するじゃねーか、ばーか、また時給が、あああ。もうだめだ、顔がこんなに酷い。頭も痛い感じがする。

降りた駅では綺麗な夕陽が見えた。このままサボっちゃって良いんじゃない、と疲れきった私が言ってくる。お前とは電車を降りた時点でさよならだと思っていた、居たのかよ。
ホームのベンチに座り込む。休んじゃいなよと私が言う。
本当にいいの?私さっきシュークリーム食べちゃったけど。
いいのいいの、私はそんなに頑張んなくてもいいの。次に頑張りたいことが見つかるまで、適当でいいの。
悪魔の促すまま、スマホを手に取る。あと一時間後には働いていなくてはいけない。……いけない?いけないことはないだろう。指は少し震えていたが、バイト先に電話をかけることができた。適当な理由はいくらでも思いついた。でも、なんならクビになってよかったし、今日を「美味しくて夕陽が見れてスカッとした日」で終わらせたい。店長が電話に出る。私は挨拶もそこそこに、堪えきれない笑顔を抑えながら口を開き、大きく息を吸った。

「五月病なんで、休みまあす」

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