雪の舞う空を見ながら、人の記憶はどこまで辿れるのだろうか。ふと、そんなことを思った。
私の強烈に印象に残っている記憶は、映画で見た富士山の噴火の場面だ。たぶん、映画好きの母に連れられて観た映画だったと思う。タイトルもストーリーも覚えていないが、登場人物が弥生時代の風俗だったように思う。富士山の山頂から大きな岩がゴロゴロと下り落ち、煮えたぎる溶岩が麓の村を襲い人々が逃げ惑う恐ろしい情景だった。
その映画を観た日から、私は決まって自分が大きな石や溶岩に追いかけられる夢を見た。歩いていても、富士山の姿を見ると怖さに身を震わせた。私が住んでいたところは、常に富士を仰ぎ見て生活する、まさに富士の裾野だった。
映画と言えば、飽きて落ち着かない私を座席に座らせておくために、母はアイスクリームを買ってくれた。まだ家庭に冷蔵庫が普及していない時代のことだ。経木でできた小さな四角の入れ物にちょこんと入れられたアイスクリームを木の匙でゆっくりと味わっている間、私は静かに椅子に座っていた。母は、その間だけ映画に集中できた。
少し大きくなると、私は4歳下の弟と二人で映画館にいくようになった。何を観たか定かではないが、子ども向けの映画であったろう。私と弟は椅子に座って夢中になって映画を楽しんだ。映画館を出ると、二人とも映画の主人公になったように興奮ぎみに話した記憶がある。
この弟との思い出で記憶に残っているのは、従兄弟の散髪練習に協力した後の、近くの店先での出来事だ。弟が「これを買いたい!」とただをこねた。私は財布の中にそれを買うだけのお金を持ち合わせていなかった。私がお金が足りないと説明しても、弟は譲らなかった。その品物が何だったのか全く思い出せないが、その店先で長い時間弟と押し問答した。最後の頃には私は泣きそうになった。たぶん私が小学校の低学年くらいのことだ。
私は、57歳で亡くなった弟の告別式の場で、なぜかそのことを思い出した。弟は5月5日生まれ。その日、私は祖父と浅間大社の祭りで、金柑の苗木を買った。それは弟の記念樹となって、長い間我が家の庭にあった。そんなことも思い出した。
弟の記念樹を買ったとき、上空で、ヘリコプターが紙切れを撒いていたことも覚えている。その頃は何かとヘリコプターが活躍していたように記憶している。広告も空から降ってきた。田んぼへの消毒も空からだった。
下の弟とは、8歳離れている。出産の間際まで、母が縁側の拭き掃除をしていたことを鮮明に覚えている。
弟が少し大きくなると、近所の子どもたちと遊ぶとき、わたしは、弟を背中に背負って走り回った。その頃は皆、弟や妹を背中にくくりつけられて子守りをするのは普通のことだった。誰かがおたふく風邪にかかると、あっという間に広がっていった。
近くの店の前が集合場所のようになっていて、そこに行くと誰か彼かがいて遊びが始まった。たぶんそれぞれが五円玉や十円玉を握りしめていたように思う。私たちはその握りしめたお金を少しずつ使った。1円であめ玉が2個買えた時代の話だ。
私はよく怪我をする子だった。皮膚が弱くて、すぐに切れた。だから、外科医と縁が切れなかった。
何かの怪我で外科病院を受診した帰り道、私の乗るバスとダンプカーが交差点で衝突した。バスに乗ってすぐのことだった。わたしは、額を切った。大人が止めるのを振り切って、先程訪れた病院に駆け込んだ。1針額を縫った。病院からの連絡がいったのか、家族が連絡を取ったのかは定かでないが、後日、バス会社の人が3人訪ねてきたことを覚えている。
保育園に入園する前ころだったか、大勢で遊んでいた私たちは、近所の家の上棟式の時間が迫ったので、皆でその家に向かって走った。餅をたくさん拾って帰宅した。
その晩、同い年の男の子がいないことがわかった。餅を拾いに行く途中で発電所の水路に落ちて流され、遺体となって発見されたのだ。
次の日、頭を包帯でグルグル巻きにされたその子と対面した。もう、何もしゃべらないことが不思議だった。
親戚の家で寝ていた私と祖母は、「泥臭いぞ! すぐに逃げろ! 」の声に飛び起きて、近所のお寺に避難した。土砂が家のすぐ横を流れ落ち、私たちはなんとか命拾いした。
数日後、その家からの帰りのバスは、高波と高波の間隔を見計らって前進した。現在では、悪天候の度に東名高速道路の富士と清水の下り線が通行止めになるが、何十年も昔はそんなだった。
暮れの大掃除はおおごとだった。家の中のものをすべて運び出して行ったからだ。4人の大人は大変だったが、子どもたちは楽しかった。ずっと見つからなかったものを発見できるからだ。夕方になって、家具がすべて運び込まれてきれいになった家で食べるご飯は美味しかった。
1年生になった参観会、おしゃれをした母親が来るのが嬉しかった。授業中、いつも以上に先生の話をよく聞いて勉強した。帰宅して「よそ見しないでしっかり前を向いて勉強していて偉かった」と母に誉めてもらった。それが嬉しくて、それからの参観会は母が来たかどうか確かめることもせず前を向いて集中した。母がどんなおしゃれをしてきたかは休み時間になってわかった。
2年生の国語の時間だった。「種」という字の読み方を質問された。皆がそれぞれに答えた。誰も正解しなかった。わたしは文脈から「たね」と読むに違いないと勇気を振り絞って答えた。先生は惜しいことを認めながらも、答えは「しゅ」であると言った。よほど悔しかったのであろう。この瞬間の記憶は消えない。
授業で記憶していることがもうひとつ。中学1年の家庭科で靴下を編んでいたときのことだ。爪先を閉じるやり方が理解できなかった。先生が回ってきて、いきなり「違う!」と言った。子供心に「やり方の図を書いて教えてくれればわかるのに!」と心の中で叫んだ。
高校1年の古典の先生が怖かった。わたしは、怖いけれど、なぜかその先生に負けたくなかった。とにかく死に物狂い(当時はそう感じていた)で古文を暗記して授業に臨んだ。
何十年か経ってある雑誌の「記憶に残る名物先生」というコーナーに
その日に学ぶ文章は、予習でしっかり読み込み、丸暗記してあるのが当たり前だという理由で、 教科書を見て読むと怒り狂う先生がいました。怖かったけれど、おかげで古典が大好きになりました。
と記事を寄せた。そしたら「○○先生のことだとすぐに分かった」と、同じ恐怖を味わった同級生から連絡がきたことがある。
思いつくままに、記憶をたどってみた。断片的ではあるが、忘れたくない出来事である。きっと、これをきっかけに記憶が縦横に広がっていくことだろう。
👣 最後まで読んでいただき感謝します。
皆さんにも奥底に眠ったままの出来事があることでしょうね。たまには、空を眺めながら思い出したらいかがでしょう。
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