旅に生きる番外編田村市マイナー神社シリーズその⑥~2019/9/11~
※皆さまからの投げ銭で旅をする記事の番外編です。今回の水害で水没した工具なんとかしようぜ!的な記事なのでちゃりんちゃりん投げていただけると非常に助かります
前回で着地してない『撃剣会』の話を続けまーす(´・ω・`)
そして今回は三春からぶっ飛んで『田村郡小野町』に舞台が移ります。
なんということでしょう田村市は遠くなりにけり(´・ω・`)
ここは『菅布禰神社』
難読やでぇ(; ・`д・´)
「す が ふ ね」って読むんだってさ(´・∀・`)
菅船とか漢字違いが存在しておりますが全部福島県にあるっていう地域限定系?(ひょっとしたら他県にもあるかもしれない)
主神がこれまた東北ではレアと思う『猿田彦』(日本武尊と合祀の場所もある)
どっちかというと関西の神様だと思うのだけれどなんか『西方から船に乗って来た神様』を猿田彦に見立てて椿大神社から勧請した・・・・らしい(らしいらしいすいません)
今回はこの神社の解説はしません。できるほど情報がありませんし(;´∀`)
話を戻すと『撃剣会』
賽銭箱を寄進した『撃剣会』は2代目斎藤弥九郎が設立したモノだけではなく、同じく撃剣会の名前で地方各地に設立された。
福島県の三春町っていうのは自由民権運動の地であるが運動に参加したのは武士と知識人から豪農の息子まで多種多様ではあるが、元々は明治政府に不満を抱えた武士の反乱が基礎。
そして福島県に鬼県令『三島通庸(以下みっちー)』が赴任し徹底的に運動を弾圧した。
運動には撃剣をやっていた人間も混ざっていた。
そして演説の前説に興行をやったはず。
だが集会や演説の届け出をしたって許可が出ないか許可されてもすぐに警官に解散をさせらる。
撃剣が一度廃れ、またふたたび地方の興行で息を吹き返したころにみっちーの弾圧で中心人物である河野広中と撃剣の経験者、愛沢寧堅が逮捕投獄されてしまう。
愛沢寧堅が撃剣会をやっていたか、所属していたか、または「士族の権利獲得のために帯刀して結束しよう」
みたいな呼びかけのために撃剣を使った政治運動もあったので福島県でのそういう役目を果たしていたのかもしれない。
明治23年に河野が25年には愛沢がそれぞれ衆議院議員に当選する。自由民権運動もこの頃に収まった。
撃剣も参加していた実力剣客が警察官に採用されてしまい興行としての質は落ちたかもしれない。
撃剣会は評価が二分されている。
「剣を見世物に落とした」という評価と「時代が変わってもなんとか技術を継承した」という評価。
賽銭箱に書かれた年は『明治33年』
①撃剣会の最末期な地方興行が神社で行われてその記念に賽銭箱を寄進した
②撃剣会が天日鷲神社か三春町富沢地域住民から興行に呼ばれてそのお礼に売り上げの一部から賽銭箱を寄進した
③撃剣会関係者、もしくはゆかりのある人物が記念、記録として賽銭箱を寄進した(興行はなかった)
④興行ではなく撃剣会を忍ぶ催しが行われた記念の寄進(ひょっとしたら会最後の興行を行った可能性あり)
このどれかに着地させたい。
お祭りの見世物は色々ある。
今は煩くてアレだけど『奇形』を見せるやつとかね。
『蛇女』とかやたら暗い小屋の中で見せられるんだけどもう全然訳がわからんのね。
でもはいはいはい!って見せられて追い出される(;´∀`)
だいたいお寺だった気がする。
ちなみに天日鷲神社は元はお寺だったので大規模なお祭りの開催はあり得る。
都会やある程度人口が多い所だと寺も神社もどっちも集客力があるが、地方だと絶対に檀家抱えてる寺のほうが金はあったはず。
だとすれば『撃剣会』を呼ぶギャラも払えたはず(^ν^)
田村市から三春町へ、そして神社から撃剣興行、自由民権運動。
こんだけバラバラな話なのに割とリンクしてるのね近場で(笑)
しかも道路ファンのあこがれみっちーも参戦しているし。
あまり神社とこういう話を繋げた人っていないだろうけれどまあできないことはないって話ですよ。
さて画像が余った( ˘•ω•˘ )
じゃあこっちの神社の説明を軽くしておくべ
ここは『浮金小獅子舞』という獅子舞の奉納が福島県の重要無形文化財に指定されています。
装備を簡略化しているので動きが激し目なのが売りです(゚∀゚)
どかーん!(`・ω・´)
鳥居の先で通せんぼしている樹齢400年の夫婦杉。これマジででかい。
左右どちらか横を通らないと上に登れません。
はい~
敷地が絶望的に狭いです。
夫婦杉からへばりつくように登って猫の額のような狭いところに鎮座しておりますのでこれが精一杯の引きです。
本殿横にお神輿あります
おまとめ系の境内社。これオサレ
まったくわからん⊂( ・∀・)ワケ ( ・∀・)つワカ ⊂( ・∀・)つラン♪
お隣が幼稚園、そして民家でわんこが吠えます。
おわり