旅に生きる~地形や気象から読み取る日本の貧困~ その②
※無料ですが全部読めます。みなさまからの投げ銭で旅をする企画ですが今回は撮りため編にテーマを混ぜた特別篇のようなものです。
稲荷神社(泉作八雲神社)
福島県田村市大越町大字下大越字入ノ作554
いろいろな理屈が出てきても古代から『富の集中』が格差を産むことだけが唯一確実な話。
「みんな平等」と謳ってもその平等を執行する権力が必要で運営にも当然お金といくばくの暴力が必要なのは同じです。
では東北、
南の事情と違ってこっちはもうちょっと簡単そうです。
単純に寒い。
稲作には向きませんね。
そして人夫としても頭数が揃いません。同じ年齢でも南の人よりも発達が不ぞろいだったはずです。
気候と地形に立ち向かえるエリートは少数であり、それらがリーダーとなる。それにしたがうのは彼らに敵わないがフィジカルが強い集団。
そして最後に残る雑用をこなす以外の人間は間引かれたはずです。
足手まといですからね。
稲作が発展した地域はある程度『介護』まではいかなくても弱者の見守りはできたはずです。
年寄りが子供の面倒を見たり、年寄りの最後を子供が看取ったり。
その間田んぼに出ている人数は働き、弔いの瞬間だけ嘆く。
そうするとだんだん生まれてくるものがあります。
『死体への忌避』です。
人間って面白いもので、『死ぬのが怖い』という人は「もっと生きていたい!」と願う人よりも
「死ぬ前の痛みが無ければ死ねる」と「死んだ後のことが多少なり把握できれば痛みも耐える」という人が一定数いるそうです。
かくゆうわたしも『死ぬ時の苦痛さえなければ死んでもいい』タイプで安楽死大賛成で合法化されれば国内第一号を狙っているくらいです。
昔はすぐ死んだわけですが、みるみる腐って腐臭を放つ死体が怖かったんだと思います。
別れを惜しんで少し安置していてもすぐ蟲が湧く。
たまに肉が食べたくて獣を捕まえても血を拭わないと病気になったりする。
しかし東北だとそういうのはまったく気にしなかったと思います。
残酷というか慣れているというか。
狩りで常に獲物を狙うし、日常生活で今よりももっと簡単に死んでいたはずです。
あまりに死が近すぎたような。
近すぎる死を遠ざけるには無関心や死にそうになったら捨てることです。そうすることによって群れを守る。
なるほど、では東北も解決だな!
・・・・とはいきません(´・ω・`)
寒冷な気候だけでしょうか?
まず津軽とか、なんで青森県のような端っこに港が栄えたんでしょうか?
平安時代になって交易の拠点としてアイヌから仕入れた品々の集積地になりましたが、それ以前からも間違いなく使われていたはずです。
何が言いたいか?というと東北は『船移動』が中心だったのでは?ということです。
そういえば古代の海上移動に関しては色々あります。藁とか色々なモノで編んだ船とかそういうので海を渡って来た証明をしようなんて実際にやったのもありました。
わたしはちょっと違う視点です。
東北は編むモノがありません。山ぶどうとかツル植物くらいでしょう?船になります?なりませんね(´・ω・`)
そうすると削った船。
しかしそんな技法では大きい船はできませんよね?
だから繋げて(それが木材なのかロープなのかはわからん)ちいせぇ船団として沿岸部をどんぶらこしていたのでは?と。
北前船などがやっていたことの超小規模バージョン。
そうすると港に寄る理由は
『風待ち・波待ち』と『船の調達』だったのでは?と。
近畿地方のように大きな建造物が不必要だったはずですから海のすぐ近くまで木はあったか、川で下らせる。
そして現地で船を削ってしまう。
それは最初は船員本人達がしていたはずです。だんだんノウハウを知る者が増え、使い捨てていった船の残骸などから削り方をマスターした人間が船の提供を始めた。
そのお礼に黒曜石とか毛皮とかを手に入れる。
だんだん近畿地方に陸路で行ける地域へ行けば交換できるモノが増えてくる。
はい(´・_・`)
話逸れてるように見えると思います。
大丈夫。
船の移動してたって言いきれるのなんで?社会のお勉強の時間です。
東北にはまさに背骨と言える『奥羽山脈』が走っています。
これを昔の無装備状態で通年超えることは不可能です。
もちろん運べる物資もほぼ無い。
つまり日本海と太平洋は分断されていたわけです。
ところが青森県はちょこまか沿岸を伝っていけば太平洋と日本海側の人間が出会えたわけです。
だから北の果て、演歌の似合う雪国ですが地形的にホットだったわけです。
福島県も中通りと会津を繋ぐのは割と簡単だったはずです。川か陸路で超えられる。
つまり『まったく装備の無い丸裸での移動』で厳冬期以外に常に繋がっている場所こそが東北の連結点です。というかそれ以外場所がない。
奥羽山脈に寄り添うように北上高地と出羽山地もあります。これでは日本海と太平洋どころか山間部と沿岸部の交流だってかなり厳しい。だから河川沿いでしか移動していないはず。
剣岳のお話はよく聞きますよね?明治40年に剣岳の山頂に至るもそこには鉄剣と錫杖があったやつ。
それだって修験者が登場してからです。
草鞋もない、服もない、携行食もない未発達な時代の移動は海以上に危険だったはずです。
海は海で死ぬけど、さきほど書いたように『ある程度繋いで』『短い沿岸部を伝って』行けば確立は上がる。
その繰り返しで航路が発達し、海外との交易が出来るのであって地形を把握するまでの危険度というのは圧倒的に陸のほうが高かったはずです。
しかし九州のように大型の船は使えなかった。
というかわからなかった。
九州のほうは大陸からの船や流れついた人がいたはずです。そうすると見様見真似の船も造ってノウハウが溜まるでしょう。
仏像なんかも九州のやつは造形的に良いなんて聞いたことがあります。舶来モノだから。
東北はさすがに流れつかなかった。海流と風的になかった。
寒さと移動可能な土地の少なさ。
しかし金や鷹の羽、数々の毛皮などはそれこそ眩しく見えたのでしょうね。
だから反乱ではなく『東夷』の討伐であるわけです。
反旗すらひるがえしていない。野蛮なやつらが珍しい物産の出る土地にいるからこらしめてやろうという一方的な侵略でしょう。
もちろん近畿地方からすれば『フロンティアへの旅立ち』ですからね。
ここで南と北の『格差』、そしてそれを統合した『中央』の図式が出来上がります。
これが現代まで影響している?
やっぱり頭がお菓子なったんやな・・・・(´・ω・`)
まてまて!2分だけでも
これは1/2だな(´・ω・`)間違えた
地形が貧困に関係している、なんてにわかには信じられないけれど。
でも一回東京とかで働いて、故郷に戻って高い場所から故郷を眺めてみたことがある人はわかる。
ものすごく簡単な話だったんです。
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