旅に生きるその2 2018年7月23~24日
今回の旅、
旅費になる投げ銭の金額では『ただ行くだけ』になるのはわかっていた。
旅路の景色も食べ物も出てこない。
『旅』と銘打ちながらこれはいけないのではないか?そう思った。
しかし、今回仕事で予想を上回るほど胸糞の悪い事があった。
自分の『モノのかかわり方』に深く疑問を持った。
自分が正しいとは言わないがインチキも誤魔化しもしていないのに、それを理解してくれないどころか、恫喝してくる人間がいる。
自分はお金が欲しいのではない。生きれるだけでいい。
特別な事ではなくとにかく『壊れないためにお金を使ってほしい』の一心で20年前の相場でエンジンOHを始めたのだ。
それを大切なパーツはことごとく使いまわし、セッティングはボロボロなのに足回りに50万だ、カーボンパーツだ、・・・・はどうなのか?
でもそれを『やってしまう人』がいる。そしてトラブルを潰しているのにそれの手法が正しいかどうかわかっていない人がいる。
原点に返ろうと決めた。
自分は車のほかにはなぜか『社会インフラ』が好きだ。
建設の方面には行かなかった。構造ではなく『なぜそれを必要としたか』という歴史に心惹かれるからだ。
そのきっかけは小学生の時にボロボロになるまで読み、本当にボロボロになってゴミに捨てられてしまったある児童書だ。
『橋をかける』という実に調べにくいタイトルの本が1985年に出版された。
著者は大竹三郎氏。
この本は子供向けに『日本の橋のありよう』を伝えてくれる名著である。
実に簡単で複雑なことは説明していない。
要石のことや堰き止め方、通潤橋の簡単な仕組みなど。
しかし『構造の説明だけ』で終わる本が多いインフラ系の本の中で
この本は『なぜその土地の人間はその橋を必要としたのか?』を熱く語ってくれるのだ。
流れ橋の『洪水に逆らわない』作り。それは住民がそれだけ水と戦いつくし導いた答え。
通潤橋によって水を得た白糸台地には日本の原風景とも言える棚田が広がった。
自分が子供のころ、車に乗っていると橋の上での信号待ちが怖かった。
ダンプなどの大型はもちろん、車が通るたびに揺れる。
崩れないのかと心配になった。
それから30年経ってそれらの橋が老朽化という高度経済成長期のツケとそれを放置してきた日本という国の在り方を身をもって示してくれている気がしてならない。
自分の原点、『橋』に向き合おうと思った。
さすがに旅費1860円では熊本には行けない。
流れ橋も遠い。
祖谷のかずら橋も遠い。
錦帯橋もとんでもない。
・・・・あった。
『猿橋』だ。
昼に福島を出て国道294号から国道4号へ、
そして国道16号と実に味気ない道をひた走る。道の駅に寄り道しただけで、買い物も景色の撮影もない。
ジムニーはエアコン故障&燃費のために今回動画を撮影しながら走行することもできない。
やっと見どころのある国道20号で高尾山の前を通ったのは21時すぎだった。
そこから山梨県道35号で山梨への車での初入県を果たす。
リニアの実験線を見上げて迎える朝。
壬生駅を撮影だけ
実にいい朝だ。気温はすでに高い。
そこから猿橋へ向かう。
自分は国道からではない裏からたどり着いた。
表の駐車場へ止めるとさっそく『山王宮』。お参りをする。もうこの時点で『橋』は見えるのだがあえて見ない。
この『山王』とは猿を祀っている。この猿橋のできた由来に
『猿が藤蔦をよじ渡り川を渡ったことに発想を得る』というのがあるので
山王信仰と合致するのはごく自然なこと。
また
駐車場とトイレ、そして民家の距離がとても近い。
この目の前の食事処も2階で住人の方(男性)が下着のままで洗濯物を干していた。『日本三奇橋』の一つ、国の名勝である『自分の原点』は生活感溢れる場所だった。それがむしろ嬉しい。
『この橋を作った・使った住人の息遣い』はずっと生きている証だから。
実に絵になる石碑と基礎に根付いた樹木。文字はあまりに薄れて読み取ることができなかったが芭蕉の句らしい。
『かれ枝に鴉とまりけり秋の暮』
ここで橋とご対面。
しかし渡らずに下へ降りる遊歩道へ向かう。じっくり眺めさせていただこう。
車で渡ってきた近代の橋。これは上流側で山梨県道505号(なんて号数だ!)の『猿橋』。県道名は『猿橋線』。
石段を降りてすぐ橋の下に潜れる。そこにもなにやら石碑。
これはまったくわからなかったが『小林県外』という俳人の句碑で
なんとこの猿橋の生まれなのだとさ( ˘ω˘ )
『甲斐ヶ根や奥は紅葉の日和冷え』
まず県道猿橋線の『猿橋』を見る。女の子で言えばスカートをめくられている状態。もし私はそれを実行すれば逮捕されるが橋のスカートはいくらめくっても無罪だ。
鉄骨とボルトの武骨さは実に力強い。支えるための機能美がここにはある。
車との共通点、
『ただのモノなのだけれどたくさんの人が想いを乗せて関わる』こと、
これがインフラの魅力だと思う。
自分はダムでもなんでも巨大さにはあまり惹かれない。
やはり『人とのかかわり』に愛を感じる。
だから明治~昭和初期までのインフラ遺構はとても暖かく強いのだ。
高度経済成長期からはとにかく『発展のための一時的なモノ』が
そのまま延命されている感じであまり強さを感じない。
実際、明治期のインフラ遺構の強度はなかなかのものらしく鉄道や道路をはじめいまだ現役も多い。
逆に昭和期に巨額を投じたインフラが老朽化で廃止されたりする。
こういうやつの昔のノリが『城の石垣の工夫名掘り跡』なんだと思う。
誇らしい仕事なら職人だって土方だって歴史の一部なんだ。
平成最後で間違いない塗装の記録に自分の手を入れさせてもらった。
さてここで川を眺めてみる。
・・・・( ゚Д゚)
とんでもない高さである。
幅は狭いのだが非常に深い谷になっている。
これに橋げたは建てられない。となればつり橋になるのが当然であるのだが、つり橋は効率が悪い。
ここは宿場、安全に人が渡れないし手段ではお話にならない。
甲斐の人々はこれを『刎橋』という手法で解決した。
うわぁ・・・・(;''∀'')
逆光ですまぬ。
美しい。
これを自分は様々な形で追いかけていたんだと思う。
人間は勘違いをする。
その最大のモノは『どこまでいっても人は自然の中でしか生きられない事を忘れる』ことだ。
木材・コンクリート・鉄・・・・そしてあらゆる技術をもって自然に挑んでもひとたびの地震や津波や水害で街は沈み人が死ぬ。
「克服した!」と思ってもたいていそれは地形を変えてしまうような『破壊』でその後の斜面崩壊や地盤沈下、渇水に洪水と必ず自然はあっさり『ブチのめし』て仕返しをする。
橋とていつかは朽ちる。
そこで日本は架け替える前提や災害時に流れを阻止しない構造を選んだのだ。
石橋は海外の地震が少なく石材が簡単に手に入る環境でこそであり、
日本の地震洪水が多い土地では石造りは壊れた時のダメージが大きく復旧している間にまた次の災害に逢ってしまうからだ。
桔木と呼ばれる部分材木を岸壁に埋め込んで少しずつ重ねて伸ばしていく。
この桔木と桔木の間に枕梁という木材を直交方向に入れて強度を増す。
猿橋はこの桔木と枕梁に屋根がついている。これは少しでも腐食を防ぐ知恵なのだが同時に武骨になりそうな構造を水墨画のようなシンプルで奥深い力強さを与えている。
うっとりするほど『カッコイイ』と『美しい』が同居している。
すごく小さくて地味かもしれないけれど海外の人には魅力的かもしれない。そして日本人としてもこの姿は『雅とは違う華やかさと素朴さの同居』を感じれるはずだ。
橋はまだ渡らずさらに下に降りる
これがけっこう急だ(;´Д`)
玉ひゅん階段(;´Д`)
それでは酔いそうな動画でどうぞ
川はきれいだけど橋と水面は31m!(;´・ω・)
1706年には今のような刎橋だったらしい。それ以前については確証を得られる文献が乏しいようで。
ちなみに刎橋はとうぜん埋め込んでいる桔木に雨露がかかる。
そこから腐敗が進む。そこで猿橋は屋根をつけたが、それでも架け替えをするのは木造の定め、架け替えの記録は1676年から13回も架け替えた記録が残っている。
これは『脆い』という証ではなく
それだけ『人が渡っていたから架け替えた』と見る。
架け替えはだいたい20年周期だったようでこれくらいなら厳しい温度差や湿気で朽ちるころとタイミングが合うだろうし。
甲州街道の要所として宿場となり猿橋は『インフラ』として人々の往来を助けた。
狭くなる川では水運はスムーズにいかなくなる。
山地の隙間にできた平地(に近い)この土地でたった30mの川幅を超えることはそれこそ『この土地の全て』にかかわっていただろう。
それではいよいよ(私の個人的な)渡り初めだ
うわ・・・・・
ぞくぞくするね・・・・
ちなみに指が映り込んでいますが、こちらは『八ツ沢発電所第一号水路橋』といいまして1912年建造の水路橋です。
今もゴンゴン水が流れています。こういう土木遺産は残さねばなりません。
30分ほど猿橋と対話をして(あくまで脳内)周りを歩くと神輿と山車を保管している小屋を発見。
神輿が座布団?積み重ねたような形なんですね、これは初見。
その神輿の横の個人宅に祠が。
こういうのを子供のころから好きだったのです。
神様とかまったく何者かわからなくて仏教も神道もキリスト教も区別がつかず、お寺のお坊さんに怒られるほど本堂かけまわり、卒塔婆を振り回していたクソガキの時分からなぜか惹かれるものがありました。(笑)個人宅にある祠はだいたい水神、稲荷、たまにククリヒメとかかな(部落とつなげるのがネットで見られますが正直差別で飯を食うためのネタを探してるようで関心しません。そこの土地、そこの家の信仰はそれでいいじゃないですか)
すごい地味な入口なんです( ˘•ω•˘ )
ナビで来て『目的地付近です』で止まったら(笑)ガススタのところを曲がってください。
ちなみにお稲荷様も駐車場にいます。
どこでもいつでも正一位( ˘ω˘ )本当に朝廷が追贈したのではなくねつ造したのでは?的なのもありますね。
神様の位を僭称してもしゃーないのにやっちゃうのが人間。
トイレも桔橋風になっております。そしてそのトイレの裏に・・・・・
さきほどの水路。階段がありますが立ち入れませんよ( ・´ー・`)
そしてさらに
なんかいる・・・・!(;´Д`)
これがあんまり説明がない猿の石像。
なんだよ!?と問えば
『猿覚善大神』つーて身延山に行く日蓮がここに来たら大量のお猿さんがわーって繋がって橋になり
「日蓮!渡れよ!」
ってやってくれたのでお猿さんは神で日蓮を助けた、という縁起のために建てた石像なんですね。
ちなみに『日蓮主義者』とか物騒な文字も入ってて「戦前か!」って感じ。
その日蓮主義者の建てたお猿さんが見ているモノは・・・・
トイレの洗い場(掃除用)
まあ、産業遺構とかにあんまり特定の宗教色を出してもしょうがないからね。バカにしてるとかそういう意味ではなくそっとしているのならばそれでよし、ってことにするのが大人じゃん( ˘ω˘ )
詳しいことは現地でこれを読んでくださいな。
わたしはあんまり興味ないんでサーセン
しかしそんな石像よりもさらにひどいのが・・・・
昔の説明というか案内の板。
残してくれるのはいいんだけどこれじゃあんまりっすよ。
トーテムポール。
結局ね、日本ておもしろいのが、
神道は土着の信仰で無意識のうちになにかしら影響受けてるですよね?
で、何宗かわかりませんが『日蓮主義者』もトーテムポールも同居してて、
その後ろをゴミ出しのお父さんが往復してるのが『認められちゃう』ってとこですね。
海外だとインドみたいにごっちゃごっちゃしてるけどどれも綺麗に混ざりきらない雑多さがあるでしょ?
日本だと寺も神社も新興宗教の施設も
「迷惑さえなけりゃ同居しててええやろ」って精神で
みんなそれを何とも思わない『内側に取り込む強さ』があると思うですよ。
海外のように「石で固め、征服したら更地にする」のではなく
「とりあえず前の奴が作ったやつだけど、まあ残したろ」ってどんどん
層にして積み重ねて最終的に
「日本のあるべきやう」にしてしまうのが『お国柄』だと思うんです。
そうやってへばりついて生きていくのが日本人。
国道413号。
東北より関東、それも山梨や神奈川、東京のほうが道は面白い。
福島は山がちだけれども勾配は大人しめなんですよ。あと古めの道路でも大工事でぶち抜いてるのでスケールが中途半端な感じがします。
でも関東は経済的に恵まれているからこそ発達した道とそれを繋ぐ細い生活道路が小さいスケールながら急こう配と暴力的なヘアピン、そして廃トンネル、快適路面、ダイナミックな河川や湖沼をなぞり食らいついていく狭幅な区間が一度に楽しめる。
福島では味わえない濃度。
ここに通さねば生きていけなかった厳しさに立ち向かった人間の爪痕。
しかしそれは愚かとは言い切れない。
この道で救われた何かはたくさんあるはずだから。
役目を終えて静かに眠る姿を見せつけることになるとはだれも思わなかったかもしれない。
でもとなりに快適などでかい新トンネルが終焉をずっとずっと知らせ続ける。
何かに再利用されるトンネル、埋められるトンネル。
福島の三森峠のトンネルが旧道そのものと一緒に土に還されたのを山登りをしてみているだけに複雑になる。
日本人はへばりついて生きている。
平地で富を味わうと津波や水害を食らう。
斜面に生きれば不便でならない。
結局どこまで行っても
日本という『自然豊かな国』には『ぶちのめされながら』生きていくしかない。
それならせめて人には優しくありたい・・・・はずなのだが
どうも最近は冷酷だ。
それでも、
クソ腹が起つ最低な野郎も
必死に生きる最底辺も
みなを平等に黙って渡らせてくれる猿橋のなんと美しいことか。
JR猿橋駅は通勤客がたくさんいた。
こんな時間から電車に乗らないと通えない仕事、
利便性を追い求め新幹線を張り巡らせて在来線が次々に死んでいった。
夜行列車は残り僅か、寝台列車もサンライズやクルーズ列車以外はもうない。
ブルートレインもL特急もない。
18きっぷも完全鉄道関係だけで移動できなくなった。
「拝啓、僕は日本のどこかにいます」
「なんでだろう涙がでた」
「早く着くよりも大切にしたいことがある人へ」
「あの頃の青を探して」
こんな名コピー達が死に絶えていく。
日本を見せることができる当事者達が自ら潰していく。
どんどん平地へ集まる人とモノと金。
そしてたまに忘れたようにその地を舐めていく水害。
旅に出ると原点が見える
やっと自分がわかる
そして家に帰ることができ。
帰宅するには出かけなければいけない。
冒険や旅に出なければ
「ただいま」は言えない。
猿橋に初めて会って
「ただいま」を言った。
へばりつく山から集う街へ
軒先の細道から
3車線へ
そして家に。
それをできるのは
過去と旅と歩いてきた道や渡った橋。
当たり前が崩れているのです。
それを見るには直接行くしかない、
そういう旅だったのです。