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2019/06/27 旅に生きる ~地形考②~


第1回はこちら

1回目の最後で書いたこととは

前回の内容って結局『地理学』で大学生がなんか習いそうな事の超絶簡単な話のほんの入り口じゃね?

という懸念。

その通りなんですけど。

『風土論』が西洋問わず古来からあるし。

落ち着いて軸足を見つめてみよう。

間違いないのは『地形』これがあるから旅に生きるは盛り上がるわけで。

次は『文化・宗教』も絶対に逃してはいけない。これを逃せば日本の歴史の8割は無かったことになってしまう。

あと中の人の趣味である道路は『交通』だな。これも地理学の範囲に含まれる。

というか地理学に含まれないものはない!

『地理学と哲学は諸学問の母』とも言われる。

ではその母なる『地理と哲学』はつながってないんか?というこれまた昔からありそうな問い。(これの総まとめみたいな地理哲学というのがあるが広すぎるので辛い)


これに関しては一般人は知らなくていいお話がある。

『環境決定論』という理屈で

~人間活動は自然環境の強い影響を受け、それに対する適応の結果として地域性が生じる、とする地理学の概念である~(wiki引用)


でも現在は

『環境可能論』という理屈がこの環境論を制圧している。、~自然環境は人間に可能性を与える存在であり、人間が環境に対して積極的に働きかけることができるとする地理学の概念である~(こちらもWiki引用)というか環境論に対して異を唱えるのが現代地理学の流れのような気がする。

だがそうは問屋は卸さない。

現代でも環境決定論的な発想をする学者はいる。時代に逆行しているのではなく、変わらない歴史を保つ地域や伝統を調べるとこうならざるを得ない部分は出てくる。

ちなみにマルクス等進歩的な人達は環境可能論を取る。もちろん昨今の自由主義からしても環境決定論は『差別的』とみられた時代背景もあって主流派とは言いにくい。

自分は当たり前で無難、さらに他人と変わらないのだが

環境によって『変えられる』ところと『そう生きざるをえない』ところがあり、その複雑な組み合わせが層となり重なるのが地域や国民性だと思う。

なので完璧に環境決定論者ではないし災害対策などで人間が地形を変形させることもできるのだから環境可能論寄りではあるのだが、少なくとも日本は

『狭い国土にへばりつくしかなかった』決定させてしまう地形とそれに従ったり、逆らった人間の闘いがあると思っているだけであって、

特別、「世界の流れがこうだから~」という流行り廃りとか「〇〇主義を助長するから~」みたいなレッテル貼りで生きてはいない。

軸足グルグル手のひらくるっくるして生きている人はもはや西と東がどっちなのかわからんのかも知れないが考えればわかる。お天道様は東から昇るに決まってる。

ではお待ちかねの神社に参りましょうヽ(゚∀゚)ノ パッ☆

『開潟神社』読み方は『かいがた』

変換してみると『回方』って出ちゃう。上に候補出ますけどわたしは何回も変換しているから。それでも一発は無理。

こちらは山本丈右衛門と斉藤七郎治はじめ村の祖先を祀っている神社。建立は明治9年と新しい。

ちなみに祀られている人は何をして祀られたかというと『福島潟』の周辺で新田開発をした人達。

湿地は言葉からも漢字の字面からもあまりいい気持しないでしょ?

これこそ平地だけど『へばりつく』生活を強いられる地形NO1って感じ。

とても清潔な感じ。掃き清められているし、周りの風景ととても溶け込んでいるから余計に感じる。

地形やインフラ、古い道などに寄り添うと、自然破壊の現場、もしくは現場だった場所に遭遇する。

「橋!ダム!トンネル!(゚∀゚)」

と歩けば歩くほど自然を嫌というほど感じる。

もちろん登山始め本格的にフィールドワークしている人には敵うわけもないし、もちろんそれを補う頭もないのだが、

日本の地形とインフラを意識するとPCの前だけでは絶対に完結しない。

なろう主人公のようにスマホだけで・・・・という世界ではない。異世界ではペラペラな現実逃避で夢想と無双ができるが、現実はそうはさせてくれない。

デジタルな今でも地図が必要である。もちろん紙ではなくてもいいのだが、俯瞰、詳細、高低線、昔の地名・・・・

グーグルマップだけでは足りない。もちろん無料アプリでも収まるものではない。

地図、現地確認、そして考察。

さらに再確認まで。下手すれば時間がたって自説の訂正や修正が加わる。

これをやるのは気が遠くなる。

だが歴史学のように『〇〇時代の京都周辺経済が専門』みたいなせっまいせっまいポイントだけ攻めていては足りない。

地形を見るとそこに暮らす人が見え、そこに暮らす人が話す伝承を聞く。

そこからわかる交通や政治、宗教。

一生かかっても終わらないでしょう。

逆に在野の、よく地方のおじいちゃんがやってる郷土史研究家なんてね、お気軽なもんだねぇ(´ρ`)

良い意味でも悪い意味でも。

その地域の伝統なんかをずっと守り伝えてくれるという意味では良いのだけれど、一般の模範解答を知らないままに珍説奇説(ところがこれがある程度時代を経ると取り上げられたりしてしまう)を唱えだす。

昔はそれが自費出版や、せいぜい自治体の郷土資料にちょろっと載るくらいで済んだのが、自作ホームページ(笑)なんかでばばーんとやっちゃったりするから。

大学(教授の質にもよりますが)とかと連携したことがなかったりする郷土史家はしょせんアマチュアなのですよ。

わたし?もちろん、わたしは研究家でもなんでもない。『旅人』だσ(゚∀゚ )

ちゃんと神社にも触れときますか。

すごい丁寧に作ってあるんですね。手すり(欄干)みてよ、丁寧に曲げてるの。角は溶接じゃないんだよ。

これ普通に人間の使う建築物なら珍しくもなんともない。むしろ『神様』という存在に丁寧な仕事を捧げるという行為、それが、時代が変わろうが、技術がどんなに洋風になろうが受け継がれていること、これが『新道』の在り方。

もちろん角じゃないところは溶接(´ρ`)

海外の人からすれば

「日本は古い木造建築物がある」というのは今や珍しくもなんともない知識だろうが、

「まだ使えるのに新しくしちゃう」神道の感覚は説明を要するのかもしれない。

もちろん海外でも産まれかわるくらい気分を変えたい時に環境を変えるために家を引っ越したり、バンドを解散させたり、することはある。

でもそれは更地思考だ。

『神』がいる場所はそのままなのに『建物』や『使用する道具』などを刷新する日本の式年遷宮に代表される『神道思考』は神社の周りに住んでみて、あちこち歩いてみないとわかならいと思う。

ここでつまらないネタばらしをしてしまえば(あくまで説の1つ)

『掘っ立て式で建てる神殿は日本の湿った土地では柱が腐ってくる間隔が20年、20年もすれば前回の遷宮参加宮大工もベテラン、子供も20歳で働くにはちょうどいい』

と言う「全部ちょうどいい」という話だ。

自然に寄り添ってもしくは自然的発想(?まずこの言葉が正しいのかがわからない。なぜなら哲学者ではないから。さらにここではこれら言葉の正誤にはこだわらない。内容の本質が伝わればそれでいいからだ)から物事を考えがちになっても案外色々な法則は表現できうる。

例えば

「命をいただくから「いただきます」と言うのだ」

と山で狩りをし獲物を食べる。

命→死→肉→消化→糞→土

このサイクルを外しているとは言い切れない。むしろこのサイクルを子供に優しく説明するときには大人が使いがちな単語だ。

もちろん科学とか物理とかの側面ならこのサイクルは当たり前に説明できる。

だが、

「山には3234匹の兎がいました。しかし今日あなたが食べた兎で1匹減りました」

という事象の説明となるとこれは科学面は良いが、自然面ではどうか?

「星になりました」

という説明をしても

(๑'ᴗ'๑)「お星さまが一つ増えたの?」

と突っ込まれたら?

これを『逸らす』のがある意味『里山の暮らし』とか『自然』とか『宗教』とか色々な知恵なのだと思う。悪い事ではない。

直視しすぎて具合が悪くなることは誰にでもある。

だが「兎3234-1=3233」の数式を説明すると土に還ったこと、骨になったことをどうしても避けて通れない。

「大人なら大丈夫やろ」

となるだろうが、これがもっと戦争だったり貧困だったり近しい人の死だったりしたら?と現実は常に人間へ重くのしかかる。

答えを出す必要があるのは人間が『自然の中で生きている』からである。

環境可能論でも『自然が存在しなくなった』としたら人間は疑似的に都合のいい自然現象だけを人工的に作り出すしかない。

SFアニメでありがちな設定だ。

「核シェルターで生きてるから日没や月の満ち欠け、星もコンピューターが表示している」

ような。

だがそれも地形から逃げられてるのか?

『シェルターという地形』のお話になっている。

『シェルター内のインフラストラクチャ―』へと自然が変化している。

結局人は逃げられない。

地形から道から。

橋から川から山から。

ダムもビルも。

人は考える時にきっと地形とインフラに左右される。

もしくは利用してその恩恵の上で考える。

うわ~めんどくせぇ(;´Д`)

めんどくせぇ、めんどくせぇよ!

こんなんならがーってなってまうやろ!がーってあああああああああ

彡(。)(;)・・・・・


バカなわたしがちょっと考えてもこうなってしまう事を頭のいい人達がずーっとソクラテスよりも前から考えてそれでもまだずーっと考えてるんだから、そりゃ無理なんだ。

と、なると実は教義がるような宗教やご先祖の言い伝えは楽であり、とてもありがたい知恵なのだね。

日本海側が交易で栄えた、

それは『動く人が立ち寄る時に相手をした動かない人々』がいた。

そういう人に大きく変われと言っても難しい。

でも新潟県は新しいことも取り入れてるような気がする。

わからないよ、地元の人からすればまだまだ閉鎖的に見えたりするのかもしれない。何かまだ足りないことがあるかもしれない。

しかし福島県の寒々しいだけで華も艶もなく枯れた味もない、まさしく『衰退』のところ。

原発事故は災難だったがジャブジャブ金を引き出すチャンスだった。

実際金が使われたであろうモノはあちこちにある。道路も震災前は暗がり区間だけ地味にやってた路線が一気に開通したりもした。

でもそうはならなかった。

国はそうさせなかったし、福島県もまたそうしなかった。

原発こそあれど、特別な『ガラガラポン』がないのにそれなりに持続しているのはとても羨ましい。

高速を超えて新潟県に入るととても眩しいのだ。

東京よりも近いけど、東京よりも明るく見える。

便利さとか発展具合はもちろん東京ですけども。

地方都市だと仙台ってつぎはぎ人工感(津波後はより感じる)がある。

新潟はもちろん鉄とコンクリートだらけだけど整っているんだ。

仙台DiSってるわけじゃなくて新潟市は住むにはかなりいいと思うんだ。

仕事は大変かもしれない、ホワイトカラーな仕事なら仙台のほうがあるだろうけど、健康で体力がそこそこあるなら新潟県のほうが道は開けそうだ。

なんだろう、平成を経て令和になってもなお『モダン』だな。

もちろんおかしなところもあるのだろうけど、それはどこでも一緒だし。

地形からすれば『阿武隈高原地帯』のつまらない地形。

いやつまらなくはないんだ。つまらなくしたのは人、感じてるのはわたし。

寄り添ってないのは私たちであってきっといつか跳ね返されるんだけど、

別にどうってことはないのだろう・・・・

今生きている人にはね(´ρ`)

次に続きます→その③

投げ銭を旅費にして旅をしてレポートしたり、リクエストを受け付けて作曲をしたりしています。