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旅に生きる~撮り貯め放出編~ その⑪

※ちうい
いつもの記事と違って順不同、日時不明の写真を掲載していきます。
内容やテーマと一致しません。

その① その② その③ その④ その⑤ その⑥ その⑦ その⑧
その⑨ その⑩

今泉神社
福島県田村市船引町今泉砂田275番

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この撮りためシリーズ長いでしょ?(´・_・`)
さらにテーマがバラバラでしょ?

そりゃそうです。何も決めていないし、本当にすごい数のストックがあるってだけです。
そこで今回は久しぶりに写真と文章がリンクします!すごい(*´Д`)やったね

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磐越東線の線路沿いに鎮座するこの神社、あまりに身近すぎて実は未完成というか。
奥の院には行っていません。


みなさんは鉄道が初めて敷かれる時のお話を教科書や地元の資料などで見聞きしたことはありますか?

中央線が新宿を出たあとまっすぐ走ってるやつとか雑学の定番ですよね。
あと駅を作ろうとしたら
「旅籠が寂れる」みたいな反対運動。

あと蒸気機関車時代だと
「煤煙が」「火の粉」

おっ(´ω`)
実際SLで火の粉は飛ぶんですかね?
結論から言うと『飛ぶ』

(´◉◞౪◟◉)そうなの?


沿線が火災に見舞われるのは鉄道敷設初期からある問題でした。
明治政府は
「自然災害の時に金もらえねーべ?でも鉄道の評判下がると嫌だから見舞金やるは」

って対応だったようで。

ところがどんどん鉄道網が広がってくるとこんな雑な対応が続くわけもなく、火の粉を減少させる装置を開発することになります。

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で、この神社。
今泉神社はそのまま地名です。
この地域の賊討伐でタケミナカタに祈願して勝利した坂上田村麻呂の手になるもの・・・・なはず(´・_・`)

で別に大きいわけでもなくどこにでもある神社、
なのですがここは非常に人が出入りするところでありまして、
獅子舞の練習とか氏子さんが入っている時は駐車場に車がたくさん並びます。

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そんでその小さなごく当たり前の神社がどうしたっていうと
大正7年に磐越東線のSLから飛んだ火の粉で火事になります。
燃えに燃えて消失というファンキーな結果に。

鉄道敷設の時に社領の一部を提供していたからか、鉄道院からお見舞金が出ます。
そしてそれを元手に再建、それからも頻繁に修復などを繰り返し非常に手入れの良い神社が今も篤い信仰を得ているわけです。

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結果として現在は鉄道に反対したところは衰退しがちですが、
やはり火災被害があったことを考えればやむを得なかったんではないか?そうも思えてきます。

ところが面白いもので、住民の反対、と言っても実際に政府へ請願書が出されるような抵抗運動は少ないらしいです。
そこで『反対運動ではなく最初から決まっていたルート』というお話もあると。

わたしは決まっていたルートはもちろん、
『鉄道省内でルートで意見が割れていた時に住民の反対を利用した』ことで
ルート決めていたんではないか?って思っています。

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しかしねぇ・・・・田村市は本当に坂上田村麻呂から逃れられていないなって。

それを現在意識して生きている人はいないと思います。
しかし大きいところではなく、小さいところを積極的に巡っていると

『田村麻呂ネットワーク』
を施しているんじゃないの?って。

まあこういうのは実際に効果があるかどうかではなく、設置した人がどんな願いを込めたか?が重要です。

地名としてわざわざ『田村』というストレートすぎる名前がついている。
市内に存在する神社で縁起がわかっているものはほぼ『坂上田村麻呂由来』

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福島県の『田村郡』を東北、蝦夷の封印だったのではないかなって。

さほど重要でもなく、寂れてつまんねー町。
逆に言えばちょっと日本列島の中でも格落ち感のある東北が今も格落ちのままなのはこの封印が効いてる?

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これも地形だとは思いますけどね。
阿武隈山地の木材資源を運ぶのに大滝根川と阿武隈川は抑えて置きたかった。
今でこそ開けている郡山は水に乏しい原野だったので放置し、田村郡を一時的拠点にしたのではと。

実際、今でも高速道路以外の移動手段は田村市は地形的に穏やか。
いくらなだらかな阿武隈山地とは言え、これから登る、下って一息つく場所は欲しい。

そうすると田村郡は非常によかった。
適度な平地と水運。米はじめ穀物を獲れる。それでいてあまり人口がいないので中央政権は放置していても面倒はなさそう・・・

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つまり地形の地の利以外にも
『放置プレーしててもなんとかなる』土地は拠点としてよかったのじゃないかなと。
そういうのは田村郡ばかりではなく、他の都道府県で

「なんでここが中心地だったんかね?」っていうところの存在理由かもしれません。

明治になってそれがだんだん内燃機関で動く交通インフラによって変化していった。

その黎明期に田村麻呂ネットワークの1つであるこの神社は火の粉で燃えたと。

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撃剣興行の話もそうなんですが、わたしこの手の話題に関しては好きだってのもありましていくらでもネタはあるんです。

でも生き方?そういうものとリンクしないし。
そういうただただ歴史の楽しい旅は他の人でもできるし、それこそユーチューバーで事足ります。
替えがきかないのはアル中カラカラだけです(*´Д`)お゛い゛しー゛

正しく理解するため、当時の人がどう思っていたかを把握するために、陰謀論やスピリチュアルな話題は参考にします。
でも現代の視点から過去を断罪したり、陰謀論ありきで片づけると絶対に真実どころか自分の生き方から離れてしまうのでやらない。

そうするとこういう解釈って実はすごく気を使うんですね(自分に)

使わなくていい、スラスラ書いても問題ない人は幸せなんです。


さてさて次はどうしましょう。
そういえばご飯食べました?食べ物の話しましょうよ(*´Д`)

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