進むのが、怖い。生きるのが、怖い。
生きることに前向きになっていることが、
これからどう生きていくか、考えていることが、
これから自分がやろうとしていることに、ワクワクしていることが、
願いや夢や希望に思いを馳せていることが、
私の人生の新たな章が始まっていることが、
その章の物語がどんどん進んでいることが、
怖くて怖くて怖くて
恐ろしくて
たまらない。
私の心が生きる方向に向いたこと、
これまで諦めたり捨てていた願いや希望を、もう1回持ち直していること、
新しい挑戦を始めたこと、
それらを喜んでくれたり、応援してくれたり、一緒に走ろうとしてくれる人がいたりして、
それはもう本当に、
ありがたくてありがたくて嬉しくて幸せで
感謝しかないのだけれど、
それも、怖くて怖くて。
信じても、
またあの時みたいに、もしくはあの時のように、裏切られるかもしれない。
またあの時みたいに、ひとりぼっちになっちゃうかもしれない。
進み始めてしまったら進むしかできなくなりそうで。
心の奥底にしまったはずの、自分の根本にある願いを取り出したら、もう絶対に戻せなくなりそうで。
たぶん、
進むしかできなくなっていいし
戻せなくなっていいんだろうけど。
でも、怖い。
自分の根本にある願いを叶えるために動くということが、
「自分のことを認めてあげる」ということな気がして
「自分の存在を肯定する」ということな気がして
「自分はその願いを叶えられる人間だ、と自分で信じている」ということな気がして
それが、怖くて。
自分を認めてあげる
自分の存在を肯定する
自分の力を信じる
ことができなくて苦しんできたはずなのに
それがもしできるようになったら、
苦しい人たちに寄り添える心まで失ってしまいそうで
死ぬことだけが希望に見える世界が、どんなだったか、忘れてしまいそうで
それが怖くて怖くて怖くて怖くて。
だって失いたくないよ、忘れたくないよ、
だってだって、私は、
生き苦しさを抱える人たちに、
孤独感に包まれている人たちに、
死ぬことだけが希望に見える世界にいる人たちに、
寄り添い続けられる人間になりたいから。
そういう人たちの、逃げ場になれるような、心の拠り所のような、そういう場所をつくりたいし、そういう存在になりたい。
苦しみの真っ只中、真っ暗闇の中にいたときの私を、何度も何度も救ってくれた、言葉や曲や存在のように。そして、それ以上に。
それに、
失ってしまったら、忘れてしまったら、
苦しんだことがなかったことになってしまいそうで。
あんなに苦しかったんだ、なかったことになってたまるかよ。
今の私はまだ、
自分のことが世の中で一番嫌いだし
自分の存在価値なんてないと思ってるし
自分になにか力があるなんて思ってないし
自分が誰よりも自分のことを認めてない。
みんなが、私のことを
認めてくれたり、信じてくれたりする度に、
嬉しさと感謝と同じくらい、はたまたそれより強く、
それを否定してしまう自分がいて、
拒絶したくなってしまう自分がいて、
そんな自分のことがまたさらに嫌になって。
私の中には、
いつか私自身も、私のことを認めて、信じて、存在自体を肯定してあげられるようになりたい。と思っている自分もちゃんといて、それができるようになって、その上で、苦しい人たちに寄り添える心も、ちゃんと持っていることができる私に、いつかなれると、信じたい。と思っている自分もいる。
自分の人生が大きく動いていることを感じる度、
前に進んでいることを感じる度、
恐怖と葛藤との戦いが、同時に起こっている。
そんな日々そんな自分に疲弊しながら、
私は前に進んでいる。
しょっちゅう後ろを振り返るけれど、震えながら進む方向は、前。
今の私の近くには、
「無理して進まなくていいよ、一旦休みなよ」
と言う人はいなくて
「前に進もう!」「素敵じゃん!」「頑張れ!」
と言ってくれる人ばかり。
みんな優しいから、
「そんなことで怖がってないで、進むんだよ!!!」とは言わなくて、
「怖いよね、でも進もうよ!」
「一緒に進むから大丈夫!」
って。
これがたぶん、今の私の答えで。
今は、進むべきなんだと、
今進むことは、無理することではないんだと、
周りの人たちが伝えてくれているようで。
これまでの人生、「無理しないで」「休んで」「ゆっくり」と声をかけてもらうことが多い時期が長かった。
でも今は、そうじゃない。
震えながらでも、進むべきなんだと、
そんな気がしている。
でも結局、
最後まで自分の味方で居続けられるのは自分しかいない。
自分のことを救ってあげられるのも、自分しかいない。
自分を生きられるのは。自分と一緒に生きてゆけるのは。自分しかいない。
なのに、今のこの
“自分のことを信じてあげられてない”私のままで、本当に、進んで大丈夫なのだろうか。
“私ならできる”と思えないままで、
みんなが言ってくれる「のんならできる!」だけを頼りに、進んで大丈夫なのだろうか。
“他人からの評価”だけを頼りに身につけた自信と勇気だけで、進んでいいのだろうか。
大きな壁にぶつかったとき、それでは乗り越えられない気がする。
私に自信と勇気をもたらしてくれる周りの人たちからの言葉は、あくまで“その時、他人が発した言葉”でしかない。
自分の中に、自分の根本に、自信があるべきだ。
その自信をもとに、勇気を振り絞るべきだ。
その自信を強くしてくれたり、
勇気を振り絞る力をくれたり、
背中を押してくれるのが、
他人からの言葉であるべきなんじゃないか。
「頑張る」と決めるということは、
これから本当に「頑張る」ということ。
そして、その先に出た結果が、私の力だということ。
良い結果が出せる自信なんてない。
これまでの人生、
“人より優れていること”
“良い結果”
があってはじめて、認めてもらえた。
条件付きの愛情や条件付きの承認しかもらえない中で育った私は、良い結果が出せる自信のないことには、挑戦してこなかった。
良い結果が出なかった瞬間、私の存在価値はマイナスだから。
そうして生きてきたから、私自身も、私に対して条件付きでしか承認できなくなった。
結果が伴わない自分を、許せない。
そして、本当の努力の仕方もわからない。
自分を許せない結果になるのが怖くて、
認めてもらえないことが怖くて、
正しい頑張り方もよくわからなくて、
自信のないことを「頑張る」ことが、怖い。
約3年半前、助産師をやめると決断したとき、私は“頑張らない”決断も同時にした。
「頑張るのをやめる」「楽に生きる」と決めたその時以降、精神状態は少しずつ良くなっていった。
精神状態が良くなった要因に、頑張るのをやめたことがどこまで関係しているかは、正直わからない。
けれど、この事実がある以上、私の中には
“頑張り出したら、精神状態が悪化するんじゃないか”という不安が発生してしまう。
それも、怖い。
もうあんなに苦しみたくない。
「頑張る」と決めるということは、
「生きる」と決めるということ。
「生きる」ということは、
「闘う」ということ。
「闘う」ためには
「闘い続ける」ためには
「いつも絶対に自分は自分の味方でいる」必要がある。
「いつも絶対に自分は自分の味方でいる」ためには
「自分を無条件に受け入れる」必要がある。
そのためにもまた、闘うことが必要だ。
自分の味方でいるために、自分と闘う。
自分の人生の終わりは自殺だと、信じて疑わなかった12年が、
死ぬことだけが希望に見える世界を生きてきた12年が、
自分を否定することで自分の心を守ってきた12年が、
自分を傷つけることで命を繋いできた12年が、
私には、ある。
そんな私が「生きる」と決めることは、
たぶん、きっと、
経験のない人には想像できないくらいに、
怖いし、難しい、と思う。
闘いながら、
進みながら、
私の“生”を、繋いでいこう。
いつかきっと、
私の一番の味方は私だと、胸を張って言えるように。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。