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死んだ祖母との思い出を笑顔で振り返れるように


祖母が亡くなったのは、2017年9月。

あれから7年経つ今も、正直受容しきれてない感覚がある。

理由は明確で、祖母に対してやり残したことや言い残したことがあるわけではなく、
祖母の死に関連した出来事の中で、自分の中で出てきていたはずの感情を、見て見ぬふりしたり、なかったことにして、心の奥底に閉じ込めたままにしているから。だと自分では思っている。

当時の私の素直な感情を言語化してここに吐き出して、誰かに聞いてもらって、そして今の私が認めてあげることで、つっかえているものが取れるのではないかと。
ばあちゃんはなにも悪くないのに、ばあちゃんのことを思い出すと胸が苦しくなって泣けてくるのは、なんとなく、ばあちゃんに申し訳なくて。



長々と、つらつらと、全部、書き出してしまえ。




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祖母の体調があまり良くないと聞いたとき、なんとなく嫌な予感がした。
検査の結果と、抗がん剤治療をする、と聞いたとき、直感で“たぶん無理なやつだ”と思った。
全く冷静さを装えておらず明らかに動揺しながら、祖母の状態と今後の予定を私に説明してくれている母を見て、「私だけは絶対冷静でいなきゃ」と思った。
母の、抗がん剤治療で絶対良くなる!と信じようと、言い聞かせている(ように見えた)姿に、哀れな気持ちになった。
「私だけは絶対笑っていよう」そう心に決めたことを、今でも覚えている。

妙に冷静だった。
素直に状況を受け止めた。

そんな自分が、嫌でもあり、誇らしくもあった。
自分には心がないのか?
はたまた、
祖母への愛がないのか?
どちらにせよ、人間失格だと思った。
けれど、冷静でいなければいけない今、冷静でいられる自分に、少し安心もした。

でも、大好きなばあちゃんの死を悟ってしまったのに、取り乱さなかった自分が、とてつもなくショックだった。




祖母が入院すると、母や叔母、大叔母(祖母の姉妹)たちが入れ替わりで付き添いをして、24時間誰かしらが病室にいる状態をつくることになった。
私の母は、そのために仕事を辞めた。
叔母、大叔母たちはそれぞれ、年齢的体力的な問題や、病院までの距離や移動手段の問題、子どもの年齢などの問題があり、祖母に付き添える人間のうち、1番自由がきくのが、私の母だった。

入院してから亡くなるまでの数か月間、母は週の半分ほどを、家から3時間かかる祖母の病院で過ごした。
元々父が単身赴任で家におらず、さらに母がいない間、私は不仲の兄と犬との3人暮らしになり、家事と犬の世話の全てを担った。
祖母が入院した時期、私は看護学生になったばかりで、慣れない環境での日々を過ごしていた。
片道1時間のバス電車通学、聞き慣れない用語ばかりの授業、常にたくさんの課題やテスト勉強、他愛もない話をする友達もできていない新しい人間関係。
そこにプラスして、慣れない家事や買い物、犬の世話。
さらにプラスで、兄がつくる余分な家事。半乾きの状態で畳まれた洗濯物の干し直し、ご飯粒が残った乾かし中の食器の洗い直し。

しんどかった。
完全にキャパオーバーだった。
家のことも学校のことも、祖母が弱っているということも、全部、私の心には抱えきれなかった。

けれど、当時の私は、平気な顔をしていた。
「私は余裕」といつも母に伝えていた。

特に私は、叔母が家をあけることで、幼稚園児、小学生のいとこたちの負担が増えるのがなによりも嫌だった。あの子たちに苦しい思いや寂しい思いをさせてはいけない、ばあちゃんが病気だというだけできっと不安だろうから、それ以上に負担をかけたくない。だから、叔母にはなるべく家にいてほしい。そして、叔母自身の身体や心が崩れてしまったら、それこそいとこたちの負担が増えてしまう。叔母に無理させるわけにはいかない。

そのためには、私が我慢して、なるべく母に付き添いをしてもらう必要がある。
祖母にも、母にも、なるべく私の家のことを心配かけないように、平気なふりをして、大丈夫でいなきゃ。
そう思っていた。
だから、家事を楽しんでいる様子をアピールしたりもしていた。


私自身も、可能な限り祖母に会いに行った。
金曜日、教科書やノートに加えて、お泊まりセットも持って1時間かけて登校し、学校終わりにそのまま家と反対方向に2時間かけて祖母の病院に向かうことも、多々あった。
病室の中、祖母のベッドの横で、課題をしたりテスト勉強をすることもあった。

学校終わりに祖母の病院に向かっている最中、私の心の中はぐちゃぐちゃだった。
生活全体への疲労、
この生活がいつ終わるかわからないことへの不安と、終わることイコール祖母の死であると考えると、終わってほしくない気持ち、
祖母に会える嬉しさと、会う祖母は初めて見る弱っている姿である現実への悲しさ、
忙しい中でも祖母に会う時間を作れている自分への誇り、
本心をどこにも吐き出せない苦しさ。
祖母に何もしてあげられない無力感と、孫が会いに来てくれるだけで十分だろうな、という一般論であり事実との葛藤。
誰かといると強がらなくてはいけない苦しさと、1人になると崩れてしまいそうで1人になるのが怖い、葛藤。
もう、ぐっちゃぐちゃだった。



祖母は会う度に状態が変化していて、明らかに弱っているのが目に見えてわかったのに、私は冷静だった。
驚くことも、ショックを受けることも、悲しくなることも、目を背けたくなることも、なかった。
そんな自分がショックだったし、信じられなかった。
治療がうまくいかない度に動揺する母を、羨ましいとすら思った。



祖母が話すことすら難しくなった頃、父がお見舞いに来たとき、父は、かなり弱っている祖母の姿に動揺しながら、「頑張ってな」と言った。
私は衝撃を受けたと同時に、心の底から腹が立った。
父はこれまで、祖母(父からしたら義母)に対して、敬語で話していたから。義理の息子としての礼儀正しい立ち振る舞いをして、祖母に心から敬意を持ち、何十年と良好な関係を築いていた。
なのに、病気で弱っている祖母に、タメ口で言葉をかけた。意味がわからなかった。
病気だろうと、弱っていようと、話せないくらい状態が悪かろうと、祖母は祖母だ。
これまでの祖母と何も変わらない、祖母という1人の人間だ。
父と祖母の関係だって、なにも変わらないはずだ。
祖母のことをなんだと思ってんだ、と。
弱った祖母に対して、これまでと態度を変えた父を見て、怒りと失望しか出てこなかった。
何も言えず、父の言葉に対して頷いた祖母は、なにを思っていたのだろう。



祖母が亡くなったとき、私は、母と叔母と大叔母と一緒に祖母の病室にいて、祖母の冷たい左手を握っていた。
最期までずっと祖母に声をかけ続けてくれた叔母とは対照に、祖母のベッドから離れ病室の隅でしゃがみ込んで泣き続ける母を見ていて、とても残念な気持ちになった。
「そうだよね、大好きな母親が死ぬんだもん、受け入れられるわけないよね」とも思ったけれど、娘として、「しっかりしろよ」と思った。

死が近いです、と、もう1人の叔母に連絡したときも、
亡くなりました、と、その叔母と父に連絡したときも。
「まじでしっかりしろよ」と、心底思った。
「なんで私が連絡してるの?」「なんでお母さんがしないの?」と思った。

同時に、「私だけはしっかりしてなきゃ」とも思った。


連絡を受けた親族のみんなが次々に到着して祖母に会っている間、私は冷静に、病室の片付けをしていた。
いとこたちが到着してからは、幼稚園児の子の面倒を見続けながら、病室を出る準備を進めた。
「みんな、とことん泣いてとことん悲しんでくれ。」と、思いながら。
大人たちは、数日後にはこれまで通りの生活をしなければならない。
だから、今、取り乱しても許される今、どれだけでも泣ける今、めいっぱい泣いて、とことん悲しみ尽くす必要がある。そうでないと、今後のみんなの心が心配だから。
みんな、私よりも祖母との関係が濃くて長いから、私なんかより、みんなが優先で十分に悲しみ尽くすべきだと、本気でそう思いながら、大人たちみんながちゃんと悲しめているかを観察していた。


祖母が亡くなった次の日、小学生のいとこ2人の運動会に、私も同行した。
幼稚園児の子の面倒を見つつ、人目を気にしながらも涙を溢れさせている叔母のことを気にかけつつ、いとこ2人の出番を把握して叔母と叔父に声をかけ、カメラマンをした。
あとから、“祖母が亡くなった時だから写真や動画が少なくて仕方がない”と なるのが嫌だった。だって、運動会を1番楽しみにしていたのは、祖母だったから。
そして、悲しみの中、普通を装って全力で出場している2人のためにも、叔母には絶対に出番を見逃してほしくなかったし、笑顔で見守ってあげてほしかった。
まだよくわかっていない幼稚園児の子の、無邪気に遊ぶ姿に、「私はしっかりしてなきゃ」と思わされた。

運動会が終わり、お通夜に向かう車内で、叔母に「なんでそんな切り替えができるのか」みたいなことを聞かれた。
はたから見てもちゃんと冷静に過ごせているんだ、と確認できて安心したのと同時に、虚しくなった。言葉にできない、なんとも言えない感情だったのを覚えている。

切り替えができてるわけじゃない、強がって感情押し殺して、必死に冷静さを取り繕ってるだけ。私だって本当はもっと感情的になりたい。でもそういうわけにはいかないでしょう、だから頑張ってるの。
そんなようなことを思いながら、言えるわけもなく、明るく曖昧な返事をした。


お通夜でもずっと、私は強くいた。
静かに座っている間、泣かないことはできなかったけれど、誰かと関わる場面では笑顔で振る舞った。
お通夜のあとのご飯は率先して配膳して、なるべく大人が動かなくていいようにしなきゃ、と思いながら働いた。
「ご飯食べたら、1人でばあちゃんの顔を見に行こう。ばあちゃんと2人きりだったら、思う存分泣けるはず。」そう思い、早く食べ終えて、祖母のところに向かった。
祖母とのお別れを悲しむ純粋な涙と、それまでの我慢し続けた数か月間の涙が、一気に溢れ出てきた。
「やっと泣ける。よかった、私もこれだけ泣けるんだ」そう思いながらわんわん泣き始めたところに、父が登場した。
おそらく、良かれと思って来てくれたのだろうが、心の中は絶望感でいっぱいになった。
父がいては、私は泣けない。

祖母とのお別れを悲しむ場を奪われたこと、
感情を吐き出す機会を奪われたこと、
本当に誰も本当の私のことをわかってくれてないとわかってしまったこと、
本当に頑張らなきゃいけないのはここからなのかもしれないと思ったこと。

この時に思う存分泣けなかったことで、私は祖母とのお別れをリアルタイムでめいっぱい悲しむ機会を失ってしまった。



翌日はお葬式だったのだけれど、私はお葬式に出ず、祖母の家から直接学校に行った。
母に「お葬式出なくていいよ、のんは学校休みたくないでしょ」と言われ、私は自分の意見を言えなかった。
母は、昔から学校を休みたがらない私のことを思い、良かれと思ってそう言ってくれたのだと思う。
けれど、私はただただ悲しかった。

母に、祖母のお葬式より学校を優先したいと思っていると思われていたこと。
学校なんかよりお葬式に出るに決まってる、と言えなかったこと。
主張ができないまま、あたかも本当に学校を休みたくないのが私の希望であるかのように振る舞ってしまったこと。
本当にお葬式に出られなかったこと。
祖母とのお別れを悲しむ機会を、また奪われたこと。
こんな時ですら自分の意見を親に言えない自分。






しばらく経ってから、小学生のいとこ(叔母の息子)が、学校で書いたとある文章を、叔母が見せてくれた。
祖母の死について書かれたもので、「ばあちゃんの骨を見たときが1番悲しかった」という一文があった。
いとこの成長や、素敵な感性を持ちまっすぐに成長していることに感動した。

ただ、それ以上に強い感情で、嫉妬した。
私は祖母の骨を見れていない。
本当の最後の最後のお別れの場に立ち会えていない。
それが悔しくて悲しくてどうしようもなかった。



その後の四十九日や一回忌など、祖母のことで親戚で集まる度に、私は気合いを入れ直し、強く冷静に笑顔で過ごし続けている。












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振り返ると、
冷静になればなるほど、
私は自分で自分を苦しめていたに過ぎないなと思う。
私が頑張っていた全てのことは、誰かに頼まれたわけでも、強要されたわけでもない。
私が勝手に考えたり感じたりして、勝手に判断して、勝手に頑張って、勝手に苦しんでいただけ。
悲劇のヒロインぶっているだけだ。
そう言われても、納得できてしまう。





でも、そうだとしても、私は、あの時の自分に優しい言葉をかけてあげたい、と思う。

今の私はあの時の私から成長しているから、自業自得だったことを理解出来てしまう。
けれど、あの時の私の気持ちをわかってあげることも、できる。

誰に頼まれたわけじゃなくとも、あの時のあの状況に置かれたら、私は、自分を犠牲にして、誰よりも強く冷静でいなくてはいけない、

そういう思考になってしまうのが、私だ。
それまでの家庭環境、親子関係、親戚との関係、元々の私の性格や性質、、、様々な影響を受けた結果、出来上がったのが、そういう私だから。








当時の私。

本当によく頑張った。
頑張りすぎなくらい、頑張った。
辛かったね。苦しかったね。
1人で抱えるには全部が重すぎたね。

祖母の死を経験する18歳の子に、「私がしっかりしなきゃ」「私だけは冷静でいなきゃ」と思わせた、周りの大人に責任がある。
「自分の感情の表出よりも、周りの大人の感情の表出を。自分の感情の整理や受容よりも、周りの大人の感情の整理や受容を。優先しなければ」と思わせた、そしてそれに全く気付いていない、周りの大人に、責任があると思うよ。
それに対して怒っていい。


弱音吐きたかったよね。
出てくる感情に蓋をして、なかったことにして、偽っているうちに、どれが本当の自分の感情か、わからなくなっていったよね。

大丈夫。
あなたには、ちゃんと心があります。
そして、祖母への愛も、たっぷりあります。

大丈夫、あなたがあの時にした判断や言動は、間違ってないよ。

苦しかったね。
よく頑張ったね。
よくやり切ったね。

ばあちゃんはきっと、わかっててくれてるはず。

もう手放していい、
もう楽になっていい、
あなたが苦しみ続ける必要なんてない、

お別れの時に十分に泣けなかったけれど、
悲しみ尽くせなかったけれど、
お葬式には出られなかったけれど、
数か月間、必死に“しっかり者”として頑張ったことは、「祖母のために時間と労力を使えた」と思えることに繋がっていて、
それが、「祖母に対して後悔がない」と思えることに繋がっています。



当時の私、頑張ってくれてありがとう。











祖母の命が終わる瞬間に、手を握っていられたという事実が、私の心の救いになっている。
私が病室にいる時に息を引き取ってくれたばあちゃんに、ありがとう。











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こんな長い、決して楽しくない、超個人的な文章を、ここまで読んでくださった、とても優しい方へ。
読んでくださり本当にありがとうございます。

受容に向けて、書き出して整理して今の私が認めてあげることの他に、“誰かに話を聞いてもらう”ことも必要な気がしていました。

聞いてくださって、ありがとうございます。

とても、救われます。
当時の私も、今の私も。








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このnoteを書き終えてから、

当時の親とのLINEのやりとりを、少し読み返してみた。
冷静で、物事をそつなくこなす私が見えた。

当時の日記を、少し読み返してみた。
他のどこにも吐き出せない弱音と、感情的な言葉たちと並べて、自分への言い聞かせや強がりや覚悟も書き綴っていた。
それだけで、葛藤しているのがとてもよくわかった。

「私だけは笑っていよう」
「私が頑張ればいい」
「私は強くいる」

何度も何度も出てくるその言葉たちに、今の私がどんな感情を抱いてあげれば、当時の私を救えるのか、わからない。



当時の日記の一部






ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。


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