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【本の話】世界でいちばん幸せになる方法
最初にこの本を手に取ったとき、いわゆる〈ハウツー本〉かと思った。チャーミングなほほえみを浮かべるおじいちゃんと、軽やかな朱文字のタイトル『世界でいちばん幸せな男』。
ああ、これはきっと〈祖父から孫へ贈る人生の秘訣〉的ブックで、「幸せはキミの足元にある」なんて月並みなアドバイスが書かれていそう。棚へ戻しかけ、中央の小さな文字に目が留まった。『101歳、アウシュヴィッツ生存者』――えっ⁉
改めて表紙の写真に目をこらす。まくり上げた左腕にうっすら浮かぶ番号はもしや……。
そう、これは激動の一世紀を生き抜いたユダヤ人 エディ・ジェイクの物語なのだ。
1920年、ドイツ東部で生まれたエディ。「わたしたち家族はユダヤ人である前にドイツ人だった」と書かれているように、父親のドイツへの愛国心は強く、第一次世界大戦後もドイツへとどまって工場を経営。エディは何不自由なく育ち、文化的で洗練された都市で幸せな少年時代を過ごした。
ところがそんな日々に暗雲がたれこめる。ヒトラーが権力を握り、反ユダヤ主義の波がドイツ全土を呑み込んだのだ。ユダヤ人だからという理由で学校を退学されられたエディは、父親のコネで遠方の機械技術専門学校へ入る――ドイツ人孤児の偽名を与えられて。
こうして13歳半から18歳まで、家族と離れ偽りの身分で学校生活を送ったエディ。
10代の多感な子ども時代、どれほど孤独でつらかっただろう。だが彼は必死で勉強し、学校へ通いながら仕事にもついた。学校で最優秀見習い生に選ばれ、高い技術力を評価されて、トップクラスの人間だけが許される組合にも入れた。
ここまでが第一章。ページをめくりながら、ああ、ここで終戦を迎えてめでたしめでたしとならないか――と願ったが、彼の本当の苦難、地獄の幕開けは目前に迫っていた。
就職して数か月後、エディは〈それまでにない大きな過ち〉を犯す。結婚記念日の両親を驚かせるつもりで五年ぶりに故郷へ戻り、ドイツ人の奇襲に遭うのだ。愛犬は惨殺、自身も強制収容所へ送られる。
そこからの目まぐるしい展開は、まるで映画のようだ。(いや、ハリウッド映画でもここまで凄まじい脚本は書けまい)
父親との命がけの国境越え。〈ユダヤ人〉はなく〈ドイツ人〉として逮捕されたベルギー。難民としての逃亡。ブリュッセルでの短い家族との生活。しかしとうとう捕まり、一家でアウシュヴィッツ収容所へ――。両親はそこで殺されてしまうのだ。
絶望、飢餓、暴力、裏切り……つねに死と隣り合わせの日々。決して声高ではなく淡々とした筆で綴られている分、いかに異常な状況だったかが伝わってくる。
多くの収容者が正気と希望と生命を失う中で、エディを支えたもの。それは〈友〉であり、〈技術者としての腕〉であり、〈だれかの思いやり〉だった。奇跡的に再会できた妹の存在も大きかったろう。
しかも彼は維持し続けた。〈人間としての良心と威厳〉を。いっとき忘れてしまえば逃げのびるチャンスもあったのに――。
気づけば、息をひそめるようにエディの足跡に寄り添う自分がいた。彼とともに苦しみ、あがき、ささやかな親切に感謝し、地獄の日々を生き延びようとしているような錯覚を覚えたのだ。
やがて終戦を迎え、エディが自由を手にするときが訪れる。地獄から解放され、胸をなでおろした私。さあエディ、幸せになって!!
ところが彼はこう書いている。
「わたしは幸せでなかった」
「まだなぜ生きているのか、本当に生きたいと思っているのか、よくわからなかった」
そんな彼を変えたのは、結婚後の長男の誕生だった。
その瞬間に、わたしの心は癒やされ、あふれんばかりの幸福感がよみがえってきたのだ。その日から、自分は世界一幸運な男なのだと気づいた。そして誓った。今日から人生最後の日まで、幸せで、礼儀正しく、人の役に立ち、親切に生きよう。笑顔でいようと。
なるほど、これがタイトルの由来か。終盤にはこうも書いている。
これこそ最高の復讐ではないだろうか。わたしの復讐は――世界でいちばん幸せな男になることだ。
本当の意味でエディが新しい人生を踏み出すには時間がかかった。かつてのおぞましい体験を語るには、さらに長い年月が必要だったという。
これまでも数多くのナチスドイツや強制収容所関連の作品(書籍・映画)を手に取ってきたが、過酷で真っ暗な長いトンネルをともに旅し、最後に〈生きる勇気〉と〈笑顔〉を手のひらにのせてもらえたのは、この本が初めて。
そういう意味では、身近にある幸せに気がつき、手に入れるための〈最良のハウツー本〉なのかも知れない。
一世紀を生き延びたユダヤ人 エディ・ジェイクの物語。
コロナ禍の現在、たくさんの人々にこの本を勧めたい。彼の生トークを聴ける動画サイトもある。『世界でいちばん幸せな男』のチャーミングなスマイルに、きっとあなたも勇気をもらえるはずだ。