【実践編】表現運動・リズムダンス~見せない表現~
体育で扱う単元の中で「鬼門」ともよべるのが表現運動である。現在でも運動会の表現演目に置き換えてなんとか「やりすごして」いる学校が多いのではなかろうか。しかし、組体操の廃止や運動会そのものの見直しが進む中で、表現運動を独立単元として復権させる動きも年々強まっていることから目を背けることはできない。
近年は「バブリーダンス」で有名な登美丘高校をはじめ、メディア主催のイベントの影響もあり、高校生のダンス人気が高まっている。また、中学校体育ではダンスが必修となり、多くの教員がダンス指導のノウハウを身につけることに必死でもある。さらに、2024年のパリオリンピックでは「ブレイクダンス」が正式に採用されるなど、社会のいたるところで今「ダンス」の社会的地位に変化が生じているという事実がある。
このような大きな”流れ”の中で、小学校体育がどのように「表現運動・リズムダンス」を扱うべきか。本稿は「表現」という行為のメカニズムを再考し、その導入段階である小学校体育での扱い方について提案することを目指す。
1.身体を媒介とした表現
そもそも「表現」とは、個人のイメージや意思が様々なメディア(媒体)を通して具現化されることを指す。絵画に思いを込めたり、音楽にしたり、このように文章にしたためることもまた一種の「表現」である。表現とは非常に多義性のある言葉だが、体育におけるそれは「身体」を媒介としたものであり、平たくいえば「個人のイメージや意思を身体を動かすことで具現化する」行為である。本稿では、数多ある表現方法との混同をさけるため、以降「身体表現」として論を進めることとする。
2.パフォーマンスとは何か
あらゆる表現方法がある中で、特に身体を媒介とした表現に対して多く用いられる名称がある。それが「パフォーマンス」である。ダンスを披露するときや、舞台上で演じるときなどの表現はよくパフォーマンスとよばれ、舞台上だけでなくスポーツなどでも「ゴールパフォーマンス」や「(特定のプレーを指して)今のはただのパフォーマンスだろ」と使われる。画家がアトリエで描くときは単なる「絵画制作」なのに、観衆の前で描くときは「絵画パフォーマンス」となる。
一体「パフォーマンス」とはどのような表現をさす言葉なのか?
シルクドソレイユのメンバーとして縄跳びパフォーマンスをしている柏尾将一氏が以下のような問いを展開している(詳細は下記リンクから)。
世界最高峰の舞台に立つ「パフォーマー」である方の言葉だからこそ深みを感じる。ただ一人で縄跳びをするのと、音楽や照明で演出された舞台上で観衆の前で縄跳びをするのと、2つは「同じ縄跳び運動」でしかないはずである。しかし、後者は「表現」とよばれ、その時の自分だけ「表現者」になる。そのことに疑問を投げかけているのだ。さらに、柏尾氏は次のようにも述べている。
これは、ある意味表現する者の独りよがりに対する苦言ととることができるだろう。どんなに煌びやかな舞台上でも、ただ決められた運動をこなしているだけでは「表現」とはいえないのではないか?自分の中のイメージを表現しているだけでは「パフォーマンス」とはよべないのではないか?この2つの問いは私にとって非常に示唆に富んだものだった。そして、彼にとって「運動」「身体表現」「パフォーマンス」がどのように定義されているかを類推することで、体育での扱い方に重要なヒントを与えてくれると感じた。
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