紫陽花祭りで見かけた、残念な人。
先週末、植物園で行われていた「紫陽花祭り」に行ってきた。
7月を迎え、暑さが本格的になると紫陽花シーズンも終わってしまうので、ぎりぎり駆け込めて良かった。
紫陽花は大好きな花の一つなので、梅雨の時期になってたびたび通勤路で目にすることが出来てうれしい気持ちになっていた。
けれど如何せん、立ち止まってじいっと見つめる時間の余裕も心の余裕もなかったので、こうしてただただ紫陽花を見るという目的のために出かけられて満足。
広大な敷地の植物園の中での紫陽花祭りであり、鉢に植えられたものではなく、広い範囲に自生する種がたくさん植えられていた。
訪れたのは6月終盤というのもあり、枯れかけているものもあったけれど、色とりどりの紫陽花に囲まれることができて、とても見ごたえがあった。
本当は見つけた紫陽花とその感想について嬉々として書き綴るつもりだったのだけれど、今回は見かけた残念な人のことについて舵を切ろうと思う。
「こう撮ると、いい感じ。」
そう言ったのは、近くにいたわたしと同年代くらいの男の人。一緒に紫陽花を見に来たパートナーの女性にそう言いながら、満足げに首から下げた一眼レフを構えた。
花畑において、よくある光景でよくあるやり取りだ。
しかしわたしが、その男の人をまじまじと見てしまったのには理由があった。
ー共に写していたのは、片手に握られた一株の紫陽花。
買った紫陽花か落ちていた紫陽花だろうか、と最初は好意的に考えようとした。
しかし、まわりに紫陽花が売られているわけでもないし、あんな枝の落ち方はしないので、瞬時に絶対に違うな、と思った。
手折られた瑞々しいブルーのそれは、今しがたそこで咲き誇っていたものできっと間違いない。
確かに手元に、自由に動かすことのできる一株があれば、さらに構図も広がる。撮りたい写真も撮りやすくなるだろう。
けれどなんでそこで綺麗に咲く紫陽花たちを目に映して、「映える」写真を撮るという自らのエゴだけのために、今そこで美しく咲く紫陽花を手折るなんてことが出来るんだろう。
もちろん、たくさん咲いているから一つくらいということは、理由にならない。
ー紫陽花が好きなんじゃなくて、美しい写真を撮る自分が好きなんでしょ。
そう、その男の人を侮蔑を込めた眼差しで見やったが、手折ることに何の抵抗も抱かない彼に、きっと届きはしない。
やるせなさともやもやを抱えながら、ああ、どこかで似たような光景を見たな、と思い返す。
昨年、コスモス畑に行ったときのことだった。
「○○ちゃん、ここに立って。」
と2~3歳くらいのお子さんを明らかにロープが張られて立ち入り禁止を示す場所に招いたお母さん。なるほど確かにその位置に立てば、コスモスに囲まれる形になり綺麗だろう。
しかし、写真撮影から親子が立ち去った後には、もちろん幾本かの踏み折られてひしゃげたコスモスたちが。
綺麗なコスモスを見に来たんじゃないの?
良い写真が取れたらそれで満足?
花はいい。
普段特段、花に親しみがなくても、またその名前も詳しい生態も知らなくてもただ、眺めるだけで愉しい気持ちになる。
季節を感じて過ごすことが少ない日常でも、その時期折々の花を目にするだけで、なんだか満たされる気持ちにもなる。
一人でじっくり堪能してもいいし、大切な人と「綺麗。」と言い合って思い出に彩りを添えるのもいい。
そしてそんな花の裏には、美しく咲かせるために、たくさんの人の目を楽しませるために、管理やお世話をする人たちがいるはずだ。
コスモス畑や今回紫陽花祭りで出会った残念な人たちは、きっと花を自分が思う美しい写真を撮るための一つの道具としてしか見ていない。
花そのものも花を大切にする人の心も踏みにじる人たちがいることは、どうにも悲しい。
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