創作大賞の結果を受けて
昨日、2024年創作大賞の中間選考の結果が発表された。
碧魚まりの名前でやっているX(旧Twitter)アカウントには、創作アカウントが多いので、タイムラインはその話題でもちきりだった。
わたしは、だめだった。
先週から発表まだかなまだかな、とそわそわして結果を待っていた。数日前から何度も確認したメールボックスには何の知らせも入っていなかったから、だめだったんだろうなと思いながらも、もしかしたらの期待を捨てきれずにずらっと並ぶ作品名をスクロールした。
やっぱり名前はなかった。
親しくさせてもらっている方々のお名前が何人もあって、その名前を見つけるたびに、祝福の気持ち、うれしい気持ちが沸き上がった。
その中には、これはぜひ勝ち残って欲しい!と推している作品もあってご本人に「おめでとうございます」の気持ちを伝えたかったけれど、昨日はどうにもコメントを打つ元気が出なくて、ただただタイムラインを眺め続けた。
「だめでした。受賞された方、おめでとうございます!」
昨日、そんなtweetもしようと思ったけれど、やっぱり指が動かなかった。
シンプルに悲しい。
去年も中間選考に残れなくて悲しかったけれど、去年は来年こそは…!!と思い続けていたから、悲しさの比が去年どころじゃない。
つまり、悲しいということはおこがましくも、もしかすると…と淡い期待を抱いていたということ。
ちなみにわたしはエッセイ部門で5作品くらい応募したけれど、わたしの中での主力メンバーはこちらの3本だった。
要項を読むと、すでにコンテストで入賞した作品でも出して大丈夫なようだったから、応募した。(このコンテストは、何の景品や特典もなかったし…!)
たまに自分で読み返しては、初心を思い出しては気合いを入れ直すお気に入りのエッセイ。
これは、これまでとは少しテイストが違ったエッセイだったけれど、苦戦しながらも向き合って、当時の感情を書き切れたと思う。
これは、これまでの先生生活で印象的なエピソードで、いつか書きたいと、ずっととっておいたやつ。
どのエッセイも題材、わたしの想い共に自分の中では渾身の文章であり、この3本でだめなら、もうだめだと思った。
他の方の作品を読んで、題材や構成、表現にすごいなあ、面白いなあ、と舌を巻くのだけれど、自分の作品にどう生かせばいいのか分からない。
選ばれなかったのだから、きっと選ばれない明確な理由がある。
それはわたしの文筆家としてのシンプルな実力不足であって、自分の中でいくら渾身の作と思っていても、客観的に見るときっと何か足りないものがあるに違いない。
でもそれが、何なのか分からない。誰かに批評とか、添削とかしてもらえたらいいのにな。
エッセイを書き続けて4年。
別に自分が書きたいから書いているだけ、で終われれば気持ち的にも楽で良かったのだけれど、いつの間にかそういうわけにいかなくなってしまった。「書くことがすき」だけで収まっていたら良かったのだけれど、のめり込むうちに欲が出てしまった。
確かにこれまで書くことに熱と力を注いできたけれど、全てをかけてやってきたかと問われれば、到底そうとは言えない。下書きに放りっぱなしの文章はたくさんあるし、1か月に読み切れている本もわずかだ。
本当に魅力ある文章を書けるようになりたいのならば、惰眠をむさぼって、スマホを見て、とだらだらとわたしが無作為に過ごしてきた時間に、もっともっとできることはあったはず。
世の中には、文章で食べている人がいて、天性の表現力や感性を持っている人がいて、わたしの比でないくらい努力している人がいて。
文章で何かを成し遂げたい人は、この世にごまんと溢れているというのに、わたしは張り合えるだけのことを十分にやってきていないのではないか。
そこまでの実力を伴っているわけでもないし、相応の努力をしてきたわけでもないのに、こうやって悲しめてしまう自分のことが浅はかでみっともないと思う。
でも、それでもやっぱり、未練がましいのは百も承知なんだけど、悲しいものは悲しいよ――!わーーん!!泣
でもいつかこの気持ちを晴らすには、この先の栄光を夢見て、これからもプロ・アマ問わず素敵な文章をたくさん読み続けて、やっぱり泥臭く書き続けるしか道はないのだ。
そして、たとえ評価されなくったって、やっぱりわたしは書くことが好き。
あれも書きたい、これも書きたいと胸躍らす時間も、書いているときは気付けば一瞬で過ぎている時間も、わたしの人生でかけがえのない時間だから。
そして、悲しい、と思っているうちはまだ自分に可能性を抱けてるってことだから、腐らず書き続けよう。
ファイト、碧魚まりー!!