
ジャングルジムのてっぺん、笑顔の先にあるもの。
今は育休中だが、働いていたときは仕事を問われ、
「小学校の先生をしています。」
と答えれば結構な割合で、
「今年は、何年生の担任?」
と聞かれた。「小学校の先生」といえばクラス担任のイメージが強いのだろう。
けれど、支援学級や通級の担任や専科の先生、児童指導の加配などなど、クラス担任以外にもいろんなポジションがあるんだけどなあ、なんてその都度思っていた。
わたしは数年間、支援学級を担任したこともある。支援学級担任は、学級担任に比べ、受け持つ子どもの数は圧倒的に少ない。けれど、その分楽かと言われると決してそうではなかった。
障がいや特性に応じて、一人一人に寄り添って指導やサポートをする支援学級担任。
子どもたちへの接し方も授業の仕方も、クラス担任と全然やり方が異なっていて、最初は戸惑うことも多かったものだ。
数年前、支援学級で受け持った一人、ひかるくん(仮名)は、知的・情緒ともに少し発達に遅れがある子だった。
日常生活では、友だちとの適切な距離をつかむことが難しく、ぶつかったり、トラブルになってしまうことがしばしばある。なので、休み時間もそばでの見守りが必要だった。
ただ、休み時間そばについているといっても、大人と一緒に遊ぶわけではない。周りの子どもたちにとって、「ひかるくんは先生と遊ぶ」というイメージが出来てしまえば、彼の子ども同士の関係の形成を邪魔してしまうこともあるからだ。
だから、体育や図工の学習など、教室で過ごすときは必要に応じてすぐにサポートができるよう彼らの近くにスタンバイしているけれど、特に休み時間はあくまで見守りとして、少し距離をとって近くにいる。
その日も身体を動かすことが大好きなひかるくんは、休み時間、チャイムと同時に校庭に駆け出していった。おにごっこ、鉄棒、ジャングルジム、日によって選ぶ遊びは様々だが、この日はジャングルジムを選んだようだ。真っすぐジャングルジムの元へ走り、
「見てて、見てて!」
彼はそう言いながらジャングルジムに手をかけ、クラスの友だちと競うように、ぐんぐんとてっぺんめざして上ってゆく。
クラス担任だったときの昼休みといえば、ひたすらノートのチェックや丸つけか、たまにみんなで鬼ごっこ。
いずれにせよせわしなく、長いはずの20分間の昼休みは一瞬で溶けた。
しかし、支援学級担任時は、昼休みだけでいえば、少ない人数の子どもたちと濃く関わるので、そんなせわしなさは薄い。
校舎の時計をちらりと見やる。まだ、休み時間が始まってから5分間も経っていない。
あちこち、大人数にアンテナを張って様子を見ながら過ごしていた休み時間と比べると、一人の子どもと過ごす時間は、怪我をしないようにトラブルが起きないようにちゃんと見守ってはいるけれど、なんだか手持ち無沙汰な心地にもなった。
こうしたふとしたときの時間の流れ方が学級担任とはこんなに違うものなのか、と改めて感じた。
「ねえ、見てて!ちゃんと見てて!」
ふいに、ひかるくんに釘を刺される。
心が違う方向を見ていることを、敏感に察したのだろうか。
上までたどり着くと、彼は空を見上げてきゅと目を細めた。唇も弧を描いている。
思わず彼の目線の先をたどった。すっと透き通った空に、ほわんと丸い雲が浮かんでいる。
少しずつ形を変えながら、ゆったりと流されてゆく雲。
彼が、顎をくいっと上にあげてしばらく空を見上げているので、わたしもつられて眺めてしまう。
流れる雲の行方を追ったのは、いつぶりだろう。
校庭で賑やかに走りまわる子どもたちの声もどこか遠くなり、ゆったりとした穏やかな気持ちになってゆく。
視界の端でひかるくんの姿をとらえながら、彼がジャングルジムが好きなのは、空に近づいた気になれるからかもしれないな、と考えた。
なんだかわたしも彼のように、いつもより数メートル、空に近づいてみたくなった。
子どもたちと向き合って、一緒になってその瞳の輝きの先を追ってみると、普段見えてはいるけれど、見つめてこなかったものの輪郭がふいにあらわになることがある。
まるで、共に過ごす時間が溶け合って、同じ感覚を共有しているような。きっと子育てもこんな感じなのかもしれないなあ。
なんて、子育てがまだまだ先のことだったわたしはそう思いを馳せていたが、ついに4か月前から子育てが始まった。
今はまだ、何を考えているのかは言語未満の娘ちゃん。一緒に見える景色もできることもわたしとは随分違うので、まだあまりそういった感覚になったことはない。
唯一、肌と肌をくっつけて一緒にまどろみの中にいるときの柔らかさや温かさが二人を介する世界の全て。
ひかるくんがジャンルジムのてっぺんで、瞳をきらきらと輝かせたように、これから成長すると我が子もあんな顔をするんだろうな。
どんなことに興味を示して、なにに瞳をきらきらさせるんだろう。
いつの日にか、あなたが見えている世界のことを教えてくれる日が楽しみでならない。