天女のおくりもの
山間の病院に赴任して、2年が過ぎようとしていた。人手不足で多忙を極め、生活は疲弊していた。頼れる近しい知人もなく、体力的にも精神的にも限界を感じていた。
夜勤が終わり、私はひとり溜息をついた。鞄から御守りを取り出す。
一人暮らしを始める時に、母が持たせてくれたものだ。御守り袋は手作りで、私の家系の女性が代々受け継いできたらしい。中には布の切れ端が入っていると聞いていた。
この辺り一帯には天女の伝説があった。昔、天から舞い降りた天女が、人々に酒造りや機織りを教えた。しかし役目が終わった天女を、人々はなぜか追い出してしまったという。私の遠い先祖はこの天女に仕え、忘れ形見の衣の一部がこの御守りに入っているという話だった。
私は溜息ながらに御守りを見つめた。天女に助けを請いたい気分だった。
帰り道、自宅へと車を走らせる途中、ふと県道脇の森が気になった。車を停めて外に出る。真冬の太陽が心地良い。
石の階段が、森の奥へと続いている。
「奈具神社」と書かれた木製の札が階段入口に立てられていた。
好奇心に駆られ、階段に足を踏み出した。
登り切るとお社があった。決して大きくはないが、厳かな威風を感じさせた。隅々まで清掃が行き届き、酒と果物が備えてある。誰かが大切に守っているようだ。
拝殿の鈴を鳴らし、賽銭箱に心ばかりの小銭を入れた。
二礼、二拍手の後、眼を閉じて祈願する。
どうか私を導いてください。
思わず口に出た。何度か呼吸を繰り返す。
どこからか温かい風が私を包んだ。肩の力が抜ける気がした。
眼を開けて一礼する。
懐かしいものに出逢ったような気分だ。
境内を歩き、神社の裏手に回った。拝殿のちょうど真後ろに一本の大きな御神木があった。
木の根元に目をやり、私は釘付けになった。
ストール、いや衣と言うべきか。金糸や銀糸を交えた鮮やかな糸で織り込まれた、一枚の布が横たわっていた。
私は恐る恐る近寄った。よく見ると角度によって見え方が違う。糸は一瞬一瞬、虹のように色を変える。異なる輝きを発する糸が織り込まれ、布全体が水晶のように輝いて見えた。この世のものと思えぬほど、美しい。
私はそっと布を手に取り、鞄に入れて持ち帰った。
翌日、出勤するとすぐ、上席に呼ばれた。隣の県の病院へ研修に出て欲しいという。期間は2日間。私は小躍りして喜んだ。短い間だが、少しでも今の環境から離れられる。
1ヶ月後、研修の日がやってきた。
高速道路を経由し、車で約1時間。日本海に近い、海辺の町に到着した。
研修の開始時間まで、少し散歩することにした。
海沿いの散策路をひとり歩く。人通りはほとんどない。
別れ道が現れた。森の中を木道が続いている。緩い上り坂のようだ。
散策路を折れて木道を進んだ。坂道を登り森を抜けると広場に出た。
海岸の突き出た岬のような場所だった。はるか向こう、地平線まで続く海が見渡せた。眼下の岩場に、波がぶつかり飛沫を立てた。
海から目を移した。注連縄が巻かれた松の木が目に入った。頑丈な幹に立派な枝振りだ。
私は松の木の場所まで移動した。遮るものなく、海の往来が見渡せる。見張り台のような場所だったのかもしれない。
鞄から布を取り出した。あの日以来、毎日持ち歩いていた。
背伸びして、松の枝に布を掛けた。布は太陽の光を受けて七色に輝いた。
急に熱風が吹いた。風は勢いよく布をさらい、松の枝から上空へ巻き上げた。
慌てて手を伸ばしたが届かない。
布は暫く舞っていた。輝きながら、空をたゆたうように。
天女のようだと、私は思った。
布は少しずつ透明感を増し、やがて見えなくなった。
懐かしい感覚が、私を包んだ。
1ヶ月後、私は新しい勤務先に向かい車を走らせている。
あの布はもうないが、心なしか、ご先祖の御守りに愛着を持つようになった気がする。
転職先は以前の研修先。あの海に近い、天女に出逢った町だった。
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