頭の善し悪しは何で決まるのか
頭がいいってなんだろう。世間的には勉学ができるかどうかが大きな基準になっていて、偏差値が高い有名学校に通っている・卒業している人を頭いい人という。だが僕はこれに違和感を感じる。有名なところに行っていればいいのか。逆に、あまり名の知れていないところに行っている人はバカなのか。いや、そうではない。
大学進学を目指すなら、やっぱり有名な塾に通うことになる。東大京大、早慶上理を目指せ目指せと発破かけてくる。良い大学を目指すのは良いことだが、良くない副作用が生まれてくる。それは次第に早慶上理未満の大学を良くないと思う人が増えてくることだ。
大学生になり、芸術大学や偏差値では早慶上理より下の大学に通う人と話す機会が何度もあった。皆、どうしてもうしろめたさがある雰囲気を出してくる。有名大学に行っていないことが恥ずかしいことみたいに。
逆に、有名大学進学を目指す高校生は、そういった人を若干下に見るような風潮がある。例えば、話している大学生が明治大に行っていると知った時、あぁ明治ね、といった雰囲気を出してくる。日大に行っていると言えば、あぁ日大かと言ってくる。
受験というのは本当にいろいろな条件が揃わないとクリアできない課題であるのに、それを理解していない人が非常に多いと思う。大学受験は、問題の傾向が自分とあっているか、受験当日の天候・体調や会場、当日の試験問題などなど様々な条件が自分に合った時、初めて合格するものだ。
だから、東大に受かるレベルの頭の持ち主でも、受けた大学すべてから合格通知をもらえるわけではない。逆に、あまり有名じゃない大学にも落ちたとしても、問題の相性が良ければもっとレベルの高い大学に合格できることもある。
そんな苦難を乗り越えて大学に通っている大学生を、受験を経験してもいない高校生の舐め腐った態度には、正直嫌気がさす。バカにしている大学を全て受験したら、果たして全部受かるだろうかと問いたい。
勉強はこの世界をよりよく知るためのツールであるが、大学レベルの勉強は正直生活の役に立たないものが多い。勉強なんてある程度努力すれば出来てしまうものだから、大学の名前は努力した結果貰った賞状のようなものだと思う。また、家庭の事情等で受験すらできない人も多いから、大学名で頭悪いと考えるのは不公平だ。
では頭の善し悪しは何で判断するのだろう。僕は脳のスペックの問題ではないかと思う。多面的な物事の捉え方ができるとか、察しが良いとか、様々なことを予測していて行動するとか、頭の回転が速いだとか、そういったところ。1つの物事に対していろいろな見方・ものの捉え方ができると、様々な発想が生まれる。それをもとに世界が広がることは多々ある。
大学のセンター試験が廃止になり新しいテストが始まろうとしているところを見ると、国はそういう人材を探そうとして迷走してしまったように思う。こういうあいまいな部分は機械やテストで判断することが難しく、採点するのは誰かという問題にもぶつかる。これからは頭が良くないと生き残れない時代になるのかもしれない。
どうすれば頭良くなれるのだろう。自分もあまり頭が良くないのでわからないが、多くの物事に触れてみることなのではないかと思っている。多くの物事に触れることで、視点が広がり自分なりの意見が持てる。知ったかぶりでいることは相手にも自分にも良くない。謙虚に、経験値を増やしていくことが可能性を高めていくのではないだろうか。