海外レコーディングという文化について
古い写真を整理していたら1990年にアース・シェイカーというバンドのレコーディングでロサンジェルスのオーシャン・ウェイ・スタジオでプロデューサーの故TOTOのベーシストだったマイク・ポーカロとの写真が出てき記憶の扉が開きました。
海外レコーディング文化、そして僕が経験した海外レコーディングの経験について書いてみたいと思います。
そう言えば最近は海外レコーディングをしたという話はとんと聞かなくなりましたね。(宇多田ヒカルはそもそもが海外なんで従来の海外レコーディングとは意味合いが違う感じがします)理由としてはレコーディングの予算が厳しくなった事、日本でも海外と変わらないクオリティーのサウンドが出来るようになったのが理由だと思いますが、音のクオリティーとは別に海外レコーディングは個人的のは大変だったとしても人生の記憶に残る楽しさでした。そしてアーティストやスタッフの大きな刺激になるので、この文化がなくなるのは残念な気がしています。
70年代は、はっぴぃえんど、フラワー・トラベリング・バンド、クリエイション、サディスティツク・ミカ・バンドを始め多くのバンドが海外でレコーディングを行いました。今は信じられない事ですが桑名晴子、鈴木茂、山下達郎、矢野顕子、五輪真弓はなんとデビュー・アルバムから海外レコーディングを行っています・
歌謡界でも郷ひろみ、野口五郎、山口百恵、ピンク・レディーなど多くのアイドルがレコーディングを行っています。
理由としては日本の演奏力、サウンド・プロダクションが欧米のクオリティー及ばないと業界、ミュージシャン、音楽リスナーが感じていた70年代、そのサウンドに追いつきたい、本場のサウンドに触れてみたいという欲求があったと思います。歌謡曲系の場合は話題作り、売れたご褒美的な意味もあったと思います。
ですがネットもない、カードも使えない、FAX すらない時代に良くやったと思います。当時をクリエイションの担当のデスクだった女性から「金がなくなったからすぐ送ってくれ」と連絡があり大変だったというような事を聞きました。
70年代はなぜ欧米のようなサウンドは日本では出せないのか、分からないからとりあえず行ってみて探求してみたいという気持ちだったと思いますが、80年代に入ると情報が入るようになったせいか、音が違うのはエンジニアのキャラクター、スタジオの環境というのが分かってきました。(電圧が違うからという説当時も今もありますが検証されたのでしょうか?)
甲斐よしひろがロキシー・ミュージックの名盤「アバロン」を聞き、ミックス・ダウンをまだブレイク前のボブ・クリアマウンテンに依頼したり、佐久間正英がBOφWYのプロデュースを受ける条件としてデビット・ボウイが独特なサウンドを作り上げたベルリンのハンザトン・スタジオでレコーディング(2015年に凛として時雨も使用)を提示しました。
クレジット・マニア(以前の記事をお読みください)の僕はそういう話を聞き、クレジットを見比べ憧れていたものでした。
僕は1986年に邦楽のディレクターになり、いつか海外レコーディングをできないものか思っていました。
意外にそのチャンスは早く回ってきました。初めての担当したアーティストのサンディー&ザ・サンセッツ(東芝EMIからリリースされた作品も配信お願いします)がロンドンでミックス・ダウンする事になったのです。ですがディレクターの渡英の経費は出す事が出来ず残念(といってもさして制作経験もなく海外経験も多く英語が堪能なメンバーもいるバンドについて行ってもただの足手まといだったと思います)当時は海外とのFAXはなく、やりとりためにテレックス・ルーム!というのがあり、そこで書類のやりとり、経費の為替を送るみたいな事が仕事でした。
次に88年、VOWWOWというハード・ロック・バンドのディレクターを担当しました。彼らもすでにイギリスに活動の拠点を移して活動しており、レコーディングの仕切りはイギリスのマネージャー。僕は陣中見舞いに行った程度の参加ですが、それでも初の海外レコーディングで初ロンドン。
ヒースロー空港からロンドン市内への道のりは今も覚えています。僕が参加したのは「Vibe」というアルバムのミックス・ダウンの作業でした、エンジニアは確かケイト・ブッシュ(リバイバル大ヒット!)も担当したエンジニアで「ケイトはアナログ・テープを録音して消去を何度も繰り返して劣化させて使うのが好きで大変だった」という事とメンバーが「アイ・ウォント・モア・リバーブ・アット・ディス・バース」と完全なカタカナ英語で言ったにもエンジニアが「イエス」と言った事ですね。英語も気持ちが大切だという事が分かりました。
その時に布袋寅泰がアビーロード・スタジオでレコーディングをしており、そこにもお邪魔出来たのも人生のトピックですね。
同年、ちわきまゆみというアーティストの「グローリア」というアルバムのミックス・ダウンでロンドンに行きました。
当時はバブルでスタジオ代が1日20〜30万、エンジニア代を含めたらミックスダウンだけで300〜400万円かかり、渡航費、滞在費があったとしても海外でやるのとさほど変わらなかったので海外でのレコーディングは企画が通りやすかったんです。
ザ・ミッションというゴシック・ロックのバンドの音が良かったので調べたらエンジニアはティム・パーマーという人物でした。後に彼はU2、ロバート・プラント、キュアー、ティアーズ・フォー・フィアーズなどを手がけるスター・エンジニアになるのですが(見る目がありましたね)当時はまだ若手だったので安かったのだと思います。
驚いたのはティムはミックスでは自分が要らないと思う音を勝手にミュートしてしまうんです。そして「こっちの方が僕は良いと思う」なんて笑いながら主張するんです。これは日本では考えられないでしょうね。でもそっちの方が良かったので採用しました。
ギャラを為替で払ったら、そこそこ金額なのに、その辺にあったチラシの裏に悪気もなくレシートにしてサインしたのにも驚きました。
次の海外レコーディングは90年アース・シェイカー「Pretty Good!」というバンドのレコーディングでロサンジェルスに行きます。
経緯はあまり覚えてないのすが前任のディレクター失踪か退職してしまい。急遽担当しろみたいな話だったと思います。
お膳立ては全部済んでいてレコーディングは遅れて合流したのですがコディネーターのミスでスタジオがロックアウトで抑えられておらず、毎日夕方にスタジオをバラさないといけないという最悪の状態でした。コーディネイター件通訳の人も音楽関係がメインの感じはなかったようなのでこんなトラブルが起きたんだと思います。スタジオでキュー・ボタンをマイクだと思い、それに話し出した時は「こりゃダメだ」と思った記憶があります。
救いだったのはメンバーが関西人で明るい性格。プロデューサーのマイク・ポーカロがグッド・ヴァイヴスだったのでなんとか乗り切れたような気がします。
マイクは欧米のレコーディングではレコード会社の人間がスタジオにずっといるというようか事はまずなく、作品が完成する頃に聞きに来て、極端な場合、「これは売れそうにないから没にしろ」「良い曲がないから今から作れ」などと言ったりするのでエアロスミスでさえレコード会社のA&Rがスタジオに来る時はビビってるなんて話をしてくれました。メンバーが彼のベースを触って「弦、錆びてるやん」と言った一言も忘れられません。
そして話はVOWWOWに戻ります。彼らはイギリスのみならずヨーロッパもツアーで回れるクラスのバンドになります。そしてロンドン拠点では、これが限界だという判断でアメリカ進出のため89年にロサンジェルスに移住します。
レコーディングのプロデューサー探しが始まりした。当時はドッケン、シンデレラ、モトリー・クルー、ポイズン、クワイエット・ライトなどなどLAメタルがブームだったので候補は何人もすぐに見つかったのですがなかなか決まりません。考えあぐねてコーディネーターがボブ・エズリンの名前を出した時は驚きました。彼はアリス・クーパー、ルー・リード、ピンク・フロイド、キッスなどメガヒット・アルバムのプロデューサーです。ダメ元でもお願いします、と言ったところなんとOKの返事。そして当然桁外れの条件。
僕は当時の上司の故石坂敬一さんにロスから電話、事情を話すと、さすがピンク・フロイドの原子心母のタイトルを考案した男。今の世なら絶対に先の損益分岐表を出せと言われると思うのですが電話口でOKをくれたのです!
レコーディングの現場にはスタン・カタヤマという日本人エンジニアがいました。ボブの片腕としてキッス、ピンク・フロイドを担当、単独でもレッチリ、REM、レイジなども担当。後に氣志團を担当した事もあります。
ミリオン・セールスとなった日本のバンドとのレコーディングの話も最高でした。
(カタヤマさんの自叙伝面白いと思うんですが、どこか出版社の方いかがですか、ご紹介します!)
レコーディングのエピソードで覚えてるのは日本では普通に行われる編成会議などのためラフ・ミックスを日本に送ろうとしたらボブから「お前はまだ完成していないものを聞かせるのか!」とえらい勢いで止められた事ですね。彼は不本意なものは聞かれて判断されたくないんでしょうね。
アルバム「Moumtain Top」は完成。ボブは誇らしげにレコード会社のA&R一覧を出して、彼らに送れば契約は楽勝で決まるからという話だったのですが、これがまさかのどこからも回答なしという結果だったのです!
理由はなんなのか今となっては分からないですがボブも落ち込んだと思います。そしてこれが遠因の一つだったと思いますが
VOWWOWは90年5月の武道館ライブで解散してしましいます。
ナンバーガール、デイブ・フリッドマンとのエピソードについては後編で書きたいと思います。
ご精読ありがとうございました。