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忘れがち:他
思った事を徒然と。
・忘れがち
そういえば前回の紹介記事の最後にお題を募集している旨を書き忘れたけど、まぁいっかで結局ズルズルとそのままにしている。
思えば制作したモデルの配布告知をXでしていた時も、自身のショップタグを付け忘れる事が多かったし、何なら職場でも仕事をしましたアピールなんて事もほとんどしていなかった。
自分がやった事をアピールするのは大切だ。
けれども小さい頃、私は家の手伝いや学校の事で褒められた経験が無いので、やっぱり大人になっても自分がやった事をアピールするのは気が引けてしまう。
できて当たり前。やるからには勝って当たり前。一番になって当たり前。
親にそう叩き込まれ続けてきた結果、自分に対して当たり前の事が出来ない出来損ないという評価しかつけられない訳だ。
大人になって、働くようになって、一人暮らしを経て、やっと親が間違っていた事に気付いた時の喪失感は筆舌に尽くしがたい。
今こうやって創作活動を世に公開しているのは、そうした事に抗っているのだろうと思う。
ありがたい事に私の作品を褒めてくれた人もいる。
例えお世辞であったとしても、私にはそれがこの上ない幸せなのだ。
それはそれとして、きっとこの記事の最後にも、お題募集の記事を張るのを忘れると思う。
・という妄想
XがAI学習に関する規約を改めた事で炎上している、という話を小耳にはさんだ。
私はAI学習に関しては問題無いと思っている人で、AI_VTuber”絵藍ミツア”のプロジェクトにも先生の一人として参加していたりする。
そもそもAI学習云々以前に、私は学習用のつもりでフリーアバターを公開している身である。
自分が良いと思ったモノを真似する所から始めて、また新たな形として遺す。
歌や絵画など、文化という物はそうやって古くから連綿と続いてきたものだ。
動物だって生き残る為に親の真似をして立ち、歩き、食べ物を探す。
言ってしまえば、誰かの真似をするのは本能という事だろう。
本能で生きる動物と違って人間には知性があるが、残念な事にその知性の高さはウソという形で表面化する事が多い。
何の能も無い者が、慕われていた親の七光りで自分は偉いんだぞ凄いんだぞとウソをついて土地を治めていたなんて話は枚挙に暇がない。
脱線して来たので話をAIに戻そう。
AIもしょせんは道具でしかないので、それを使う人しだいという事は大前提、共通の認識にしておくべきだと私は思う。
そこで「悪用されるぞ」と、誰が言い出したかも知らないウソに流されない事が肝要なのではないか。
悪用されない為に、じゃあ正しい使い方をみんなで覚えましょう、考えましょうという流れになった時に、うつむいて黙るような連中の言う事なぞ鵜呑みにしない方が良い。
さて置き誤認とは言え、私のアカウントが凍結されたのはこの騒動に巻き込まないように逃がしてくれたのではないか、という妄想はセンチメンタルが過ぎるだろうか。
・親は子供と共に育つ
YouTubeで雑談配信を見ている事が多い。
ラジオ感覚で聞き流しているので、見ているという言い方には語弊があるかもしれないがそれはそこに置いといて。
ココに置いといた語弊を持って行ったのは誰だ!( ゚Д゚)
そんな中、ここ最近で耳に残ったのがタイトルだ。
どのような話の流れだったかは思い出せないんだけど、いい言葉だと思う。
最初から親として完璧な人などおらず、子供と触れ合う中で親として成長する。
これは親と子供の部分を上司と部下に、なんなら人と人に替えてもいいだろう。
・X解凍を待たない
前にXの凍結が解除されたら新しいアバターをお披露目すると言ったけど、そういうたらればで今後の活動を制限するのは馬鹿らしいなと思い直したので新アバターは五周年の時にお披露目する事にした。
問題は私が五周年の日を覚えているかどうかだ。
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