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わかりあえる(中外製薬NMOSD啓発キャンペーンシナリオ、あとがき)

☝こちらの施策の、ごく個人的なあとがきです。


「視神経脊髄炎スペクトラム障害、NMOSDとそれに類する難病の方々の体験や経験を元に、一話完結の短いストーリーをいくつか書きませんか」

そのようなメールを頂いたのは丁度、五歳の娘の疾患が、生まれてこれまでずっとお世話になっていた大学病院で「ここではもうこれ以上のことはできないね」と、治療が停滞というか行き詰まり、それで『この疾患において西日本ではもうここ以上のところはないよ』と言われる専門病院への転院と検査入院が決まった頃でした。

私の娘は生まれつき心臓の病気であるので、循環器疾患と呼ばれる病気の名前や症状などは、娘を産んでこれまで、娘のお友達から聞いたり病院で見て分かることはあっても、自己免疫疾患であるという『NMOSD』については全く無知、初めて聞きましたというような状態で、こんな人間にその疾患の方々の日々の抱える困難であるとか、それに直面した時の気持ちを言葉に紡いで世の皆さんに届けるというのは一体できることなのですかねと思い一度は

(それはさすがに少し無理では)

など考えてここは丁重にお断りするのがいいのではないのかとは思ったものの、稀少難病を背負って生きる方々の抱える

(一見普通に見えてそうではなく、麻痺やしびれや歩行困難や倦怠感や痛み、疾患とその後遺症状は患者それぞれに微妙に異なる、しかし確実に以前の健康な頃の自分は失われていて、そのことを周囲に理解してもらうことはとても難しい)

そのような悩みは、自己免疫系疾患とはまた別の疾患ではあるけれど、同じように指定難病であり、傍目には特に健康な子どもと大きな違いはなく、それどころか「元気ですよねー」「病気って手術したら治るんやろ?」なんて言われることのある私の末の娘の持つ悩みとすこし似通っているような気がして、そうなると当事者と全く同じ気持ちとはいかなくとも、少し近い場所に立ってお話を聞くことができるような気もして、それでこのお仕事をお引き受けしたのでした。

依頼の具体的な内容としては『NMOSDを発症し、その後、後遺症と共に暮らしている患者さんからの聞き取りとアンケートなどをもとにして八百文字前後のショート・ストーリーを組み立てる』というもので、実際にzoomを通じて当事者の方と直接お話させていただくこともあり、それは普段

「ママなにしてるの?」
「あたしもおはなししたい」

などとパソコン画面に華麗に映り込んでくる自由放埓な五歳児のいる私にはすこし大変なことではあったものの、この五歳児の兄と姉の協力のもと、今年の春頃から思いもよらない病気を発症してこれまでの日常ががらりと変わってしまったこと、小さなお子さんと離れて療養しなくてはならなかったこと、周囲の人に自分の状況をどう理解してもらえばいいのかと戸惑ったこと、様々な逸話をお聞きしたのでした。

そしてその中で

「私、この病気になってから車椅子を使うようになったんですけれど、車椅子で子どもの参観日なんかに学校に行くと、結構な頻度で先生方に担がれて校内を移動することになるんですよね。学校って意外に段差が多いし、なにしろ古い学校だったんでエレベーターも無くて。そうしたら息子はそういうことで母親が周囲に注目されてしまっていることに戸惑ったんでしょうね、あとは私が大変そうだなって思ったのかも、卒業式はこなくていいよって言ったんです。だから私、息子の中学校の卒業式に行けなかったんですよ、ずーっと昔のことですけどね」

普段はきっととても明るくてさっぱりした方なのだろうなという印象のあるその方が、ほんの少ししんみりしながらそう話してくださったのを聞いた時、私は一番下の娘が大きな手術をした二年前、病床の娘に付き添っていたために、あれは小学校の卒業式だったけれど、それに行けなかったことを思い出した、あれ、淋しかったなと。

難病とよばれるものは、それと共にある人がどんなに明るく、前向きにそれを乗り越えようと、そのような空気を幾重纏おうとしても、底の部分にはいつも痛みと歯がゆさと悲しみがあるものだし、それがご自身のことであるならきっとなおさらだ。

私はそれを思いながら十篇の物語を編んだのでした。

そうしてその十篇が沢山の方たちの手を介してショートムービーになり、静かに淋しくとても素敵な音楽と共に世に出るということになったのですが、奇しくもNMOSDという疾患を抱えた方々のお話しをお聞きして、それらを小さな物語としてこつこつと綴り、そうしてそのストーリーがまるで立体になるようにして音に映像にと組み立てられている間に、前述の自由な娘は小学校入学にむけて電動車椅子を準備することになり、その認定というか補助を受給することが本当についこの前、正式に決まったのでした。

でもそれは「念願の車椅子!」という感じのものではなくて、どちらかと言えば娘を担当している理学療法士さんに「この子の心臓への負担を考えると電動車椅子を使うことが妥当なのではないか」と、そのように提案された時に

(え、このひと歩けますが?)

という、いやそれ大げさなんじゃないのという気持ちが微かに発生してしまう、これまであまり考えていなかった事態であって、その(え、なんで?)という気持ちの次には娘の事情を知らない人々に「え、なんでそんなん乗ってんの」という疑問をぶつけられては笑顔で「疲れやすいので…」とか、毎度同じことを答える日々がまた続くのかというすこしうんざりしたような、哀しくなるような気持ちのじわじわとやってくるものでした。

娘は一歳半から医療用酸素を使っている子で、それ以外では歩けるし何なら軽く走ることもできて傍目には大変元気そうに見えるし、街を歩けばしょっちゅう「なにそれ、どうしたん?」とよく聞かれてしまう子だったもので、私はそのような人様の視線、巷の皆さんの純粋な疑問というものにはやや食傷気味だったというか、ちょっと勘弁してくれないかなと思っていたのでした。

そしてそれはNMOSDの方々が、思いもよらない疾患によって起きた体調の変化や辛さに向き合った時の戸惑いとか焦燥に多分よく似たものであって、そうして(歩けるのに…?)と思ってしまった私の最初の瞬発的な疑問は、NMOSDの方々に接した対岸の、健康で、日々の生活の中に辛い痛みだとか視界の不良、それから痺れなどのない世界の人々の気持ちに似たものなのかもしれないなと考えた時に、疾患児の親というのは当事者とそうでない人々の丁度中間あたりに立っている人間なのだなあと思い至り、更には親の立場にあってさえこうなのだから、健康な人とそうでない人、障害のある人と健常な人、それぞれの立場にある人が互いを理解して、尊重して、心地よい関係を紡いでゆくことのなんと難しいことよと、そのように思ったのでした。

もうかれこれ五年十カ月、病気と共に育ててきた自分の娘にすら「車椅子って、大げさやん?だって歩けるやん?」など思ってしまうのだから。

当事者の心情を想うというのは、病気の理解というものは、その子の実の親であっても本当に難しい。

とはいえ私達には言葉というものがあって、病気のことを語り、それを文字に書き起こし、更には歌にさえして誰かの耳に届けることができる。全く見も知らなかった疾患の名前をまず知って、その当事者の方々から、日々の一体何が辛いでしょう、そこから生まれる悲しみは何でしょうと聞いて、言葉にして、音や映像に乗せて伝えることができる、いや、この場合は「できたよ」というかな。

そうやって、世界にはそれと共に生きていくにはかなりやっかいな病気があって、病気の種類や状態によっては一見元気そうに見える人にもそれぞれに病気から生まれる困難と、深い悲しみがあって、それでも日々は静かに続いてゆくのだよと、そういうことを知って、互いのことを思いやることができようになるのだと思う。

いずれは、きっと。

10月18日18時より、下記特設ページでショートストーリー動画が公開になっています。よろしければ☟
https://nmosd-online.jp/yama/


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