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短編小説:船岡山奇談(短編集・詩を書く7)
あの人は元気でしたか?いや別になにもおしえてくれなくていい
「俺、昔ここでバタフライしてめっさ怒られてん」
どう見ても旅館か邸宅にしか見えない建物の前で(これ本当に銭湯?)と半信半疑のままタオルと石鹸とシャンプーの入ったビニール袋を抱え、松の枝の覆う門の前を3往復している時、その人は突然現れた。
「銭湯やろ?そこやで『船岡温泉』てホラ、看板にデッカク書いたるやん」
ニコニコ笑って話しかけて来たその人は、雪駄に白いTシャツにカーキ色のハーフパンツ、頭に手ぬぐいを巻いた、若くは見えるけれど、でも年齢のよく分からない、とにかく大人の男の人だった。その人は突然知らない大人から声をかけられて目を白黒させている僕に、更に屈託のない笑顔を向けて更に話しかけてきた。
「小学生?」
「エート…小4…」
「この辺の子とちゃうやろ?引っ越して来たん?」
「エッあの、横浜から…イヤ小山さんて家に夏休みの間だけ来てるんです」
「アー、小山のばあちゃんとこの孫か、何やあの家、風呂壊れたんか?」
「ハイあの、浴槽のタイルが割れたって、ばあちゃんが」
「あの家、古いしな、築100年とかやろ」
ハーフパンツから出ている細い脛を、蚊にでも刺されたのかぼりぼり搔きながら、その人は自分を『ショーさん』と名乗り、鞍馬口通りをもうちょっと上がったとこに住んでいるのだと言った。この辺の人は北に向かうことを上がると言い、南に行くのを下ると言う。そうして「ここ温泉て書いたるけど温泉やない銭湯やで」とか「でもええ風呂やで」などと言い、僕に更にこう言ったのだった。
「泳いだらあかんで」
小さい子どもじゃあるまいし、そう言おうとした時には『ショーさん』は夏の陽炎のようにゆらりと、銭湯の前から消えていた。
なんだか白昼夢を見たような心地で恐々入った『銭湯』と言うにはあまりにも荘厳な建物は、脱衣所から見渡せる中庭には手入れの良い灌木が美しく茂り、精巧な鞍馬天狗の彫刻が天井で睨んでいて、脱衣所から浴室に渡る通路には外国の王宮のようなとりどりのタイル、とてもバタフライなんかできるような場所ではなく、僕は生真面目な顔で身体を洗い、真剣な顔で湯船につかり、立派な松に「またおいで」と見送られながら、祖母の家のある西に向かって走って戻った。
「けん君、お風呂どやった?熱うなかったか?泳いだりせえへんかった?」
「あんなとこで泳げないよ。なんかすごいとこで緊張した」
「アンタの叔父さんがようあっこで泳いで叱られたんや。あすこ、おばあちゃんが子どもの頃からあるねん」
「フーン、この家より古い?」
「どやろな。あ、さっきアンタのお父ちゃんからメールがあったわ、また夜電話しますて」
「お父さん、今日も病院?」
「ふん、今日は仕事はお昼で終わりやて、それから葉月の病院に行きますて言うてはった」
アンタのお父ちゃんは優しいなあ、葉月もきっと心強いやろ。そう言いながら台所で何かを刻んだり混ぜたりしていたばあちゃんは、エプロンで手を拭き拭き、食堂にしている8畳の和室のちゃぶ台に魔法のように次々と料理を並べた。ウナギの入っただし巻き卵、ソラマメと豆腐のつぶしたやつ、ナスと身欠きニシンの「たいたん」、それからカマスの塩焼き。
「けん君はなんや、こっちの食べモンの方が好きなんやな」
8月に入ってすぐ、父が用意した巨大な登山用バックパックを背負ってこの家にやって来た僕に、祖母は最初のうち自分の食事とは別にコロッケや唐揚げを用意してくれたけれど、僕はそういうのよりばあちゃんが食べているおかずの方が好きなんだけど言うと、ばあちゃんはぱっと顔をほころばせて
「さよか、ほしたら同じにしよか」
と、それから毎日魔法みたいに手料理の皿小鉢を並べてくれるようになった。
ここは僕の母の生まれ育った町で、家だ。
京都の北、紫野という綺麗な名前の地域の小さな町の一角に祖母の家はある。鞍馬口通りを東から西に貫く道なりにあるこの家の間口は小さく、中に入るとその奥行きは吃驚する程広い。通りには同じような漆喰の壁の格子窓の家々がぎゅっと圧縮されるように詰め込まれて、なんだか妙に人懐っこい顔をして並んでいる。僕が時折テレビで見る華やかな観光地の『京都』とは少しちがう、生活の匂いのする町だ。
近所には、それが町の真ん中であるのに突然『千年前からおりますけど』という顔をしてこんもりと緑の山がある、それは船岡山というなだらかな山で、そこには、この辺を走る薄緑色の市バスに乗ると「建勲神社前(けんくんじんじゃまえ)」とアナウンスの流れる大きな社がある。祖母に普段「けん君」と呼ばれている僕はそれを聞くといつも自分の名前を呼ばれたような気がして「ハイ!」って、返事をしたくなる。
次の日の朝、僕は薄暗い2階の寝床から這い出して即、もうとっくに起き出して屋根の上に乗っかるように設えてある物干し場にいた祖母にお使いを頼まれた。
「こっからちょっと西に行ったとこに、パン屋さんがあるさかい、そこでアンタの好きなパン買うておいで、それ朝ごはんにするし」
「パン屋…?この通りにそんなのあった?ていうか、こんな早朝から開いてる?」
「そんなん、パン屋の稼ぎ時は朝やがな」
せっかちな祖母に「早う早う」と急かされるまま西陣織の小さな財布を手渡されて太陽の方向に向かって歩いて行くと、確かにそこには夏の朝の光に映える赤いパン屋の看板があった。中にはほんわりと灯りがともり、もう数人の客が買い物をしていた。
「オッ、おはようさん」
「えっ、あっ、おはようございます」
そこに、昨日銭湯の前で会った『ショーさん』が店の前に立っていたので僕は驚いて3歩後ずさりをした。ショーさんはクロワッサンを店の前でさくさく食べていた。
「ひろりか?おとーひゃんとか、おかーひゃんは?」
「食べるか喋るかどっちかにした方がいいと思うけど、僕は1人でこっちに来てる」
「なんれ?」
「なんでって」
この時まだ「近所の住人」とだけしか知らないショーさんに、僕の個人情報を話して聞かせる必要は一切なかった。でもどうしてだか僕は自分から僕の事情をこのショーさんに話していた。
「妹が産まれるんだ」
「何や、お母ちゃんお産か、めでたいやないか」
「そうでもないんだ」
「なんで」
「赤ちゃんがちょっと弱いって言うのか、小さくて無事に生まれないかもしれないんだって、だからお母さんは入院してる」
「そら、心配やな」
「うん…」
昨日、母を見舞った父の話では、母のお腹の中の妹は今あまり良い状態ではないし、その弱ってきた妹を身体から取り落とすまいと頑張り続けてきた母も、本人は気丈にしているけれど段々体が弱ってきていて、父の曰く
「もうぼちぼち赤んぼには出てきてもらうかて相談してるんやけど、なんせまだほんまに小ちゃいし、せやからもうちっと辛抱してもらえへんかて、小児科と産婦人科のセンセがやりおうとる。葉月は赤ちゃんが十分大きくなるまで絶対に産まんて言い張るし、どないしたらええんや」
なんて弱音を吐かれてしまったことも全部話した。きっとショーさんの、僕をじっと見つめる瞳の色が赤ちゃんみたいに澄んでいたせいだと思う。
「けん君のお父ちゃんは、お母ちゃんにずっと付き添うてはるん?」
「毎日病院に行ってその合間に仕事にしてる。お父さんは自由業って言うか写真が仕事で、だから自由がきくんだ。でも病院でおろおろしているだけみたい。ウチはお母さんの方がお父さんより5つ年上なんだ。お父さんはお母さんの弟の親友だったんだって」
「フーン、姉さん女房やな」
ショーさんは、そう言うのと同時に持っていたクロワッサンを一気に口に詰め込んで、服についたパンの欠片を叩き
「ならけん君も祈ろや、そこの建勲神社に頼みに行こ、な」
「何を?」
「せやから、君の妹が無事に生まれてきますようにて」
「そこの神社ってそういう神社?有名なの?安産祈願とか?」
「いや、しらんけど」
なんだかよくわからないけれど、確かに祖母の家で鬱々と心配ばかりしているより「妹が無事に、できるだけ大きく育って生まれますように」って神社で祈っている方がまだマシなのかもしれない。
僕は「行く」と返事をした。するとショーさんは「ほな大鳥居の前に10時な」と言って今度は朝靄の中に消え、僕は焼きたてのパンを5つ買って帰った。祖母は僕が午前中に約束をしたから建勲神社に行くんだけど、そこの神社の大鳥居ってどうやっていくのと聞いたら「もう友達ができたんか」と言ってなんだかとても喜んだ。
「夏中1人でゲームばっかりしてても楽しないやろと思ってたけど、友達がでけたんやったら安心や」
アレ友達って言えるんだろうか、なんか妙な大人だけど。
「あすこの神社さんか、アンタのお母さんもアンタの叔父さんもよう遊びに行ってたわ」
「そうなんだ。神社っていうか結構山だよね、迷いそう」
「ほうよ、アンタの叔父さんなんか10歳の時や、夏休みの宿題をやりたないて全部裏で燃してしもてん、当然ウチは叱るわな、ほんで膨れてあの山に家出してん、でも神社さんのあるよな山て言うのんは常世と現世の間なんやわ、どっかに迷い込んでしもて、宮司さんも町内会も総出で山探しや、ホンマに碌なことせえへん子やったわ」
「うちのお父さんみたい」
「せやから大学でアンタのお父ちゃんと叔父さんは意気投合してん。造形大て、今は違う名前になったけど、北白川の学校に行ってる間中、北野君が、あんたのお父ちゃんがウチに入り浸って、その間に盆やら正月に、東京の会社で働いてた葉月が帰省するやんか、そんで若い2人は出会うて、北野君がいよいよ4回生で卒業やて年によ『おばちゃん、葉月ちゃんと結婚したいんです』て突然言い出すやんか、どういうことなんて聞いたらお腹に赤ちゃんがおるんですて」
「えっ、そうなの?」
「いや、けん君知らんかったん?」
「叔父さんがお父さんの親友だったのは、知ってたけど」
僕はこの日、ショーさんも食べていたクロワッサンを齧りながら初めて聞いたのだけど、僕の父と母は結婚する前に僕が母のお腹にやってきたので、予定よりやや早めに結婚することになったのだそうだ。
でもその時、2人の間を取り持った叔父はもうこの世にいなかった。
叔父は大学4回生の夏に事故で亡くなっている。深夜の北大路通りで猫をよけてバイクで転倒、祖母の曰く「阿呆の子らしい」誰も恨めない事故。祖母は息子を亡くし娘が結婚し孫が生まれるという出来事を一気に経験した年の事を
「けん君が生まれた事しか覚えてへん」
と言う。僕は早世した親友を片時も忘れないでいたいという父の意向で健太郎と言う名前になった。叔父は祥太郎という名前だったから。
夏の京都の少し気の遠くなるような蒸し暑さの中、建勲神社の拝殿にはなんだか清しい風が吹いていた。僕が拝殿に『神社の御拝徳』と書かれている札を見つけて、それを読むとそこには安産祈願の文字なんかひとつも無くて
「大願成就・開運・難局突破・産業指導ってこの場合違わない?」
「難局突破てことでええやないか」
「いいかげんだなァ」
僕が笑うと、ショーさんもお尻を掻きながら「ひひひ」と笑った。僕らは互いに小銭を賽銭箱に投げ入れてお参りを済ませると、ショーさんは
「この山な、頂上から左大文字がめっさよう見えるねんで」
登ってみるかと僕に聞いた。それで僕は僕と同じ年の時、この山で遭難した叔父さんのことを思い出してそれをショーさんに言おうとした「そう言えばさ」って、でもそうしたらショーさんが僕より先に
「俺なぁ昔この山で遭難したんや、10歳ん時」
そう言ったので僕は
「ねえショーさんて名前は?本名っていうか」
と聞いた。実のところ僕はずっとこの人の人懐っこい笑顔に見覚えがあったんだ。でもその質問の答えを貰う前に背後で祖母が僕を呼ぶ声がした。
「けん君えらいことや、葉月が急にお産になりましたて、ほんで無事に生まれましたて電話あったわ、せやし家に一ぺん戻っておいで」
拝殿までの階段を駆けて来たらしい祖母は息を切らしながら、妹が小さいなりに、しかし無事に生まれた事実を告げた。
「本当!?」
僕は叫んだけれどその時に
「ホラ、御利益あったやろ」
と声がして振り返るとショーさんの姿はどこにもなく、その後、僕がショーさんに会う事はなかった。
僕が叔父の祥太郎の命日と妹の生まれた日が同じ、入り盆の日であるのを知ったのは少し後の事だ。
ショーさんが笑った時の目元は、祖母にとてもよく似ていた。
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