母の日に。NICUのナース達のこと。
今2歳5カ月、我儘炸裂、もう誰にも止められない暴走特急の第3子、末っ子の娘②にはかつてお母さんが沢山いた。
勿論産んだのは私、今育てているのは私、そしてこの先も娘②の成長を見届けるのは私のつもりでいるのだけれど。
娘②が生まれて新生児と呼ばれた時期の約3カ月間、娘②には私の他に彼女を大切にいつくしんで育ててくれたマザーズがいた。
それはNICUのナースたち。
NICU。新生児特定集中治療室・Neonatal Intensive Care Unit。
そのそれぞれの頭文字をとってNICU。
それは早産児、低出生体重児、もしくは先天的な疾患を持って生まれた新生児達のいのちの砦。
🌹
娘②は2年前の12月初旬の早朝に生まれた。
「赤ちゃんには心臓に重い疾患があります、周産期母子医療センターのある病院で分娩する必要があります」
最初にごく気軽にここで産むつもりですそうしますと訪ねた近所の産婦人科で、ちょっとパディントンなクマに似たヒゲの主治医にそう言われて転院した白い巨塔・大学病院。
そこで無事39週で3000g超え、私が産んだ子の中で実は最重量級。胎児から新生児にジョブチェンジした娘②は、私と対面した数分後にMFICUから小児科病棟をつなぐ白い廊下を通ってそのままNICUの住人となった。
生まれて数分の内に胎児期にエコーで確認していた心臓の状態、血管の状態、その他の疾患の有無をもう一度確認し、適切な処置を、この子の場合は肺血流を保つためのプロスタグランジン『リプル』の24時間点滴を開始、それが初回の手術までこの子の命をつなぎますと言われてMFICUから見送った娘②と再会できたのはその日の夜22時を回ってからで
娘②を産むために入院した当日未明、陣痛室では私を含む3~4人の妊婦が痛いの腰をさすれの破水しましたのと言って大変な騒ぎだったので、産後の経過が順調でかつ経産婦そして何より赤ちゃん自体がNICUに叩き送られているタイプの経産婦は産科のフロアでその存在が忘れ去られていたに違いないと今でも思っているのだけれど、どうですか現場よ、怒らないからお母さんに言ってごらん。
ともあれ、産科のナースの案内で、小児病棟の正面入り口から初めて入室したNICUは夜間帯だったこともあり、何やらほの暗く、クベースと呼ばれる赤ちゃんのベッドが整然と並び、その傍らにはモニターと輸液ポンプやシリンジポンプ、それらが常に何かのアラーム音を鳴らしている場所だった。
命が並んでいる筈なのに何か無機質な場所。
その印象こそ私の心象風景だったのかもしれないが。
この時この時期、ドラマ『コウノドリ』がリアルタイムで放映されている時期だったが、そのテレビドラマに出てきたあの明るいNICUとは全然違う、ものものしい、重々しい、そう思った。そして佐々木蔵之介はどこですか。
特に出生直後、予断を許さない先天疾患児は、この病院ではNICUの扉を開けてすぐに設置されているGCU(新生児回復室)のその更に奥、NICUの中でも『疾患児』の子たちの為のユニットの中にベッドが置かれるのだけれど、その日、その場所で再会した娘②は、既に鼻から胃まで通されたカテーテルが白いテープで顔に留められ、右手に3本の点滴ルート、それを白い板・シーネでガチガチに固定され、胸に心電図、足指にサチュレーション計測の為のコードが巻かれ
「どうも!病児です!」
といういで立ちで、かつてこれまで産んだ子2人が健康かつ体重十分、NICUにはとんとご縁の無かった私は少しだけたじろいだ。
これ痛くないんですか。
「今、とても安定した状態ですよ」
そうNICUの担当ナースに言われてその点は安心はしたが、点滴は24時間、心拍、呼吸数、SpO2の計測も24時間、それらのコードが絡まったりするといけないので抱き上げるのは明日からにしましょうねと言われて少し寂しかった。
それでもあまり娘②の『ハイ!病児』な様子や抱きあげられない事に意気消沈していたら案内についてくれた傍らのナースは心配するだろう、何しろ3経の経産婦なのだから私は、そして何より生きて産まれてきたのだから娘②は、と思って一言
「娘、デカいですね…」
とつぶやいた、そう、娘②は疾患児よりも、1000g前後の小さな小さな早産児ちゃんと低体重児ちゃんが多勢を占めるNICUにあって3000g級、破格にデカかった。
「そうなんですよ~!大きいですよね!いいですよ!心疾患でもこれだけ体重があると私達もちょっと安心です!」
娘②は生まれてその日、その後母の名代として奮闘してくれるNICUのナースにその体躯のデカさを褒められたのだった。
デブを褒められる人生。
🌹
5泊した病院を母親だけが寂しく退院したその翌日からNICUへの日参は始まった。
産褥期、何それおいしいの、そういう世界。
無論NICUのナース達は「無理をしろ」とは言わない、ただ母親には父親には子の親としての使命があり矜持があり、その時は多少混乱してはいても愛みたいなものがある。
赤ちゃんに会いたいし、会わなくては、そのたゆまない持続と継続を切らしてしまうともうそこにいけなくなるような気がする、とよく思ってた、そういう気持ちで毎日NICUに通っていた。
その毎日には必ず携帯するものがある。
【面会時間に訪れるその時の親の持ち物】
・健康で感染症に罹患していない身体
・赤ちゃんへの愛
・母乳。
そう、母乳を自宅で搾乳して毎日、毎日、毎日NICUに運ぶのだ、故に電動搾乳機はNICU児母のマストアイテム、あんなもん手絞りしていたら腱鞘炎になる、というか私は手絞りが絶望的に下手で無理だった、酪農家失格、酪農家じゃないけど。
もし貴方が周産期母子医療センターのある病院で保冷バッグを持ったちょっと疲れた感じのマザーっぽい人を見たらそれは確実にNIUCのマザーだと思って欲しい、そこには自宅て数時間おきに搾乳した母乳が、カネソンかピジョンの母乳フリーザーバックに入れられて保冷剤とともにぎゅうぎゅうに詰まっている。
それを手に提げて、NICUに入室すると大抵、娘②は誰かナースに抱かれていた。
「泣くとサチュレーションが一気に下がるから」
チアノーゼ系の心臓疾患児はそういう特殊事情を抱えていたが為に。
マスクに使い捨てのガウン、そして手袋で完全防備をしたNICUナースは3000g級で、現場では規格外の巨大児とは言え、いかんせんまだ新生児の娘②など片手で抱えてPCを打ち、他の赤ちゃんのクベースを覗き込み、私の姿を見ると
「あー!ホラ娘②ちゃんママが来たよ!ママお待ちしてた!もうずっと泣いてて!」
ホイっと娘②を渡してきた。
待って待って、母乳、調乳室に渡してこないと溶けるから。
兎に角、手のかかる子だった娘②。
それゆえに、娘②はとてもとてもナースたちに可愛がってもらっていた。
アレの所為で娘②は我が子の中でも破格に気が強くてワガママなのではと原因として疑う程に。
勿論他の赤ちゃんも同様に大切に可愛がられていたと思うが、私はかつてこれまで、2人の子を産んで、夫の赴任地について馴染みの無い土地で育ててきただけに、こんなに新生児期の子を複数の人間と一緒になって育てる事は初めてだった。
それで、病気である事は、自宅に連れて帰れない事は、明日どうなるかわからない事はとても不安ではあったけれど、私はこの時ほど、孤独と無縁の子育てをしたことが無い。
🌹
そう断言できるのは、もちろんNICUという環境とシステムそれ自体の為だろうが、もう一つは、ナース達のキャラ立ちの凄さ、あの赤ん坊へ注ぐ過剰な愛、そして物慣れない母親への伴走のパワー、双子を二組あやした挙句他のお母さんへの注意も怠らない謎の第六感。
そのすべての故だと思う、そうですよね同志たちよ。
かつてのNICU日参の日々からかれこれ2年も経つのに彼女達、彼等の名前も顔も結構はっきりと思い出せる。
卵を買いに出た先で何故かアイスとサントリーの角瓶だけを買ってくる私がだ。
娘②がお世話になっていた病院のNICUは、ナースがチーム分けされていて、フロアと担当患児を確か4グループに分けて、そこをそれぞれ数名のナースがチームになって担当していた。
患児の担当はそのチームの中でルーティンで担当という形。
だから、1カ月もいれば我が子のいるチームのナースなら大体顔と名前が一致するようになり、私はNICUに通い詰める毎日、今日は誰が担当かな、あの人かなと担当割りを楽しみにするようになった。
例えばTさん、私のお世話になったチームはどういう訳か、助産師でもありかつ私自身も3人の子持ちよ、上の子はもう大きいけど、とかその手の頼もしさ満載、え?下のお子さんとウチの息子同い年ですわ、ところで冬休みの宿題やりました?という感じのナースが多くて、この人もそんなマザーナースのひとりだったのだけれど、何故か夜勤帯に娘②を担当することが多く
「昨日は寝なかったわよ~」
とか
「昼寝しすぎないで~夜寝ないから~」
とか
「もう泣きすぎていい加減ヤバイから昨日はお薬入れたのよママ!」
とかNICUに娘②がいる間ずっとスーパー寝ない娘②と格闘してくれていた、そんな夜勤に入ってお子さんは大丈夫だったのか、我が子の傍らで眠らず、寝ないわ泣くわそして新生児ながらでかくて重いわの赤子だった娘②の渾身のお世話をありがとうTさん、NICUを卒業して1年後位の時、私はこのTさんと小児病棟で再会したけれどその時開口一番にこう聞かれたものだ。
「娘②ちゃん、ちゃんと夜寝てる?」
TさんのあのNICUでの健闘のご利益あって娘②は今、夜ちゃんと寝る子に育っている。
そしてもう一人、この人もマザーでマダムな助産師ナースのSさん、おっとりとして穏やかで優しくて私はとてもすごく大好きだった。
多分助産師としては母乳の指導を得意としていたのだろうSさんは、心臓疾患故に呼吸数がやたらと多く、疲れやすく、誤嚥が最大の敵という三重苦の娘②の為に、結構ぎりぎりまで、というのはウチの娘②は生後2カ月目にしてオール鼻から胃に直接ミルクを流し込む経管栄養の子になってしまったので、その最後の日が来るまで
「母乳実感がダメなら、授乳のお手本かそれとも母乳相談室か」
哺乳瓶を変え手を変え品を変え、娘②の経口摂取が少しでもうまく行くようにと尽力してくれた。
そして、娘②を「お嬢様」と呼び、我が家にインフルエンザが蔓延して、NICU入室禁止10日間の憂き目に私があったその時も丁度生後2カ月を迎えていた娘②の記念写真を撮り、ママが居なくて寂しくないようにとビニール袋や折り紙でおもちゃを自作して待っていてくれた。
「でも娘②ちゃんはシリンジポンプのランプが一番すきなのよねぇ~」
おっとりと微笑んだあのインフルエンザ罹患の禊明けの日を私はよく覚えていて、今は産婦人科で助産師として働くと噂に聞いているSさんを、私は娘②の最後の手術が終わって退院を迎えたその日には絶対に尋ねたいと思っている。
問題は妊婦でも見舞客でもない私に産科病棟に入る手立てがない事だ。
そんな事情なので、その日が来たら入れてください、産科の師長さん。
まだまだ大好きなナースは沢山いるのだけれど、文字数的にも時間的にもアレなので、あとひとり、真打をあげたい。
それはNICUの主任さん(当時)。
上記『名前を覚えてる』と言いつつ、主任さんは主任さんとしか覚えてないない、『主任さん』と呼んでいたので。
主任さんは、そのお立場故に、担当ナースとして患児とその母に個別につく事はなかったけれど、この人には、娘②がいよいよNICUを卒業して小児病棟に転棟し、そこで24時間付き添いをして手術の日を待ちましょうという段になって、それはそれはお世話になった。
何しろ、当時小学3年生と年長児の2人の子どもしかもこれがまた歳より相当手のかかる子を家に残しての24時間付き添い、毎回その病状と今後の予定を話し合うカンファレンスについて来てくれた主任さんは、自分も3人子どもがいて、ウチ1人を病児として産んで、そう言えばこのひとは妊婦だった時、勤務中に突然倒れてそのまま産気づいて同僚ナースに我が子を取り上げてもらったというかなり恐ろしい逸話を持っていた。
先輩との絆が強いというか、現場の同僚もよもや隣で働いてた同僚の子を自分の勤め先で取り上げるとは思わなかっただろう、そしてその2人は今でも同じ職場で働いている、その同僚が前述のTさんだ。
で話は逸れたが、お母さんの心配はわかるからと、転棟付き添いのその日の為に、相当頑張って小児科のナースチームにこちらの事情と汲んで欲しい事情を事細かく通してくれた。
そして今でも、定期の小児科入院中、偶然出会うと飛んできて
「イヤーン大きくなったねえ」
「可愛くなっちゃって!」
「お肌もきれいね!お母さんえらい!」
娘②の体重と、肌の調子を褒めてくれる、このひとは主任にして肌ケア専門の認定看護師で、娘②のとんでもなく酷かった乳児湿疹とおしりかぶれをいつも丁寧に診てくれていた。
3児の母で生き馬の目を抜くNICUの看護主任で、認定看護師のライセンスも持つとか何事ですか人間ですか主任、次の入院の時は絶対会いに行く、そしてまた私を褒めてください優しくて偉大な主任よ。
🌹
で、今どうしてなんでNICUのナースの話なの何なのと聞かれると、もうあれから2年も経って、そして一度卒業してしまうと二度と入室できない、赤ちゃんの国であるNICUのあの時の思い出を偶にこうして取り出して磨いておかないと、忘れてしまうかもしれないと思うからだ。
私にはとても大切な思い出なので。
あの搾乳室が時間によっては激込みで、ひとつの搾乳機、メデラのシンフォニーというお高い電動搾乳機を2人で1つ、よそのママと分け合って使った事とか。
24時間点滴だった娘②を入浴させる時、ナースが点滴の腕を支えて、2人で点滴のラインに絡まりつつ入浴させた事とか
肺炎になってしまった娘②の前でボロボロ泣いていたら、どう考えても持ってきすぎやから位の量のペーパータオルをもって若い担当ナースが飛んできてくれた事とか
いつ退院できるのか見当もつかず、お宮参りもクリスマスもお正月も初節句だって家で迎えられないんだなあと思ってこそこそ泣いていたら即バレてものすごく励ましてくれた当時妊婦だったナースの事とか、この人は早産児のマザーズから、相当「走らないで~」「重いの持たないで~」「ウチの子は抱かなくていいから~」と言われていた、皆我が身を振り返ると気が気でなかったらしい、そして無事男児を産んだと聞いた。
母の日の今日、そのNICUことをちょっと記憶力のさび付きつつある41歳の頭で反芻してよく磨いてまたきちんと記憶に収めておきたいのだ。
そして、何より文字にすることで、あの日、娘②の母として娘②を守り育ててくれたNICUのナース達に心からお礼と感謝を伝えたい、伝わるのかどうか皆目わからないが。
ありがとう、お母さん達、男性ナースもいたけど君もお母さん。お陰様で娘②はワガママだわ、気は強くて言い出したら聞かないわ、主治医以外の特に研修医には無礼千万だわ兎に角大変な子に育ちました。
そして何より今日も元気に生きています。
あの大変ないのちの砦でそれぞれの赤ちゃんに愛情を注いでくれていた事。
あの日のお母さん達
本当に
本当にありがとう。
サポートありがとうございます。頂いたサポートは今後の創作のために使わせていただきます。文学フリマに出るのが夢です!