ひとりひとりであるという事、イースターの朝に。
「日本人は先生にたいして、ずいぶんひどいことをしましたね。交換船の中止にしても国際法無視ですし、木槌で指を叩き潰すにいたっては、もうなんて云っていいか。申し訳ありません」
ルロイ修道士はナイフを皿の上においてから、右の人さし指をぴんと立てた。指の先は天井をさしてぶるぶるこまかくふるえている。また思い出した。ルロイ修道士は、「こら」とか、「よく聞きなさい」とか云うかわりに、右の人さし指をぴんと立てるのが癖だった。
「総理大臣のようなことを云ってはいけませんよ。大体日本を代表してものを云ったりするのは傲慢です。それに日本人とかカナダ人とかアメリカ人とかいったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから」
『短編小説集 ナイン より【握手】』 井上ひさし 講談社 1990年
「中学校3年生の、多感を煮詰めて溶かして固めた受験の季節に教科書の中で出会ったこの作品を覚えていますか」
と、愛とか夢とか叙情性とか漠然とした不安とかそういうものからは2万光年くらい離れた場所に精神が生息している弊夫に聞いてみたら
「知らん」
と言われたがそんな筈ないやろ、アンタのとこ光村やったやろ、オムレツやオムレツでてくるヤツやがなというと思い出してくれた。
いつもいつでも絶望的に空腹状態で生きる成長期真っただ中の中学3年生、かつてはそんな男子中学生だった夫の記憶にはルロイ先生の子ども達へのまなざしも、「私」の先生への尊敬と郷愁も、そんな登場人物たちの心の機微も軌跡も何ひとつ微塵も記憶に残らず、ただただ「オムレツうまそう」という事だけが「俺の国語フォルダ」に残存していたらしい。
流石は妻との結婚記念日と誕生日に花も宝石もドレスもプレゼントとして選らんだことは無くひたすら酒を買っては「1番すきなものだよ~」と持って帰り、私の事は結婚当初から一切名前で呼ばず勿論ハニーともダーリンとも決して呼ぶことも無く、それはそれで怖いけど
「ねぇママ~」
と呼ぶ男。誰がお母さんだ、俺はオマエのママじゃねえ、でもプレゼントは例年どおり酒でい、ありがとう。
ではこの件について、私はというと、この「握手」についてはっきり明確に詳細にその内容を記憶していたのかと聞かれると、大体が「あ、あのオムレツの話」でその記憶が締められていて、あの叙情性皆無と妻に揶揄されている可哀相な夫とほぼ同じやないかい。
だってあの頃は、小説それは長い方が偉いものという14歳らしい謎の生意気さに取りつかれていて国語の時間も数学の時間も兎に角主要5教科の時間は基本隠れて違う本を読む事に忙しかったのだ、そうなんだよドフトエフスキー、そしてラスコリーニコフ。でもあの頃読んでいたその『罪と罰』について今何か語れと言われると、まず一番に冒頭のキャベツのスープが思い起こされるのだから中3当時の腹ペコ夫と私はやっぱり大差ない。
そして何度も言うが授業は聞け、14歳の自分よ。
ただ私にはこの40過ぎた今よりずっと前に一度この『握手』を思い出す機会があった。
それは大学生の頃、修道女、シスターの方とお話する機会があった時だ、映画の「天使にラブソングを」や「サウンドオブミュージック」に出てくる、白と黒の遠目にはちょっとペンギンのように見える衣装を纏ったキリストの花嫁たち。
あの『握手』のルロイ修道士と同じ、神からの召命を受けて一生涯をキリストに捧げると誓ったひとびと。
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私は大学生の頃、特に今の生活には何も役に立ってはいないが哲学とか宗教とかを学ぶひとで、故におのずと聖書とキリスト教は必修科目だった。
同じ大学を出ている夫にこの話をするといつも
「あの学部の人間てホンマにおったんやな…幻かと思ってた」
と言われる。
学部規模がかなり相当小さいのだ。巨大ユニバーシティの希少種、変り者少数精鋭。
ときにキリスト教には最大派閥2派、カトリックとプロテスタントがある、カトリックは一つの公同の教会、プロテスタントはその中に細かに単立の組織が集まっているものではあるのだがそれはさておき、まずは大きなまとまりのこの2つ。
私が当時在籍していた大学はこの後者の関係の学校で、聖書とキリスト教について教えを乞うのに牧師はその辺に沢山いた。もういいよ山盛りおるやん、え?先生も牧師?まさかの貴方も?という位その辺にごろごろしていたが、そして同級生も今結構この聖職についてしまっているので私にはあの界隈には親しみはあってもあまりありがたみがない、あいつらの話は長い、そして奴らは酒ばっかり飲む、あの愛すべき酒飲みたちよ。自分も含めて。
ところで、あの聖書という世界最大のベストセラーは分厚い、重い、長い、登場人物が多すぎる、そもそも幼児期を田舎民全入の保育所で過ごし、その後の学童学生期は高校まで公立畑で、ミッションスクール何それおいしいのという育ちの私には親しみが無さ過ぎる、それに流し読みするならまだしも、きちんと学術体系的にアレを読んで考察しろと言われると苦しい、辛い、きつい、これは一体どうしたものか。
そんなものはきちんと大学で学べ、そして教授助教授講師に教えを乞え、お高い学費払ってるんだろうと今の私は思うのだが、当時の私はもっとこうフランクに学べないスか、アカデミズムの森意外の場所で、そう思っていた、アカデミズムの森の中のその更に高い塔に住まう先生方に自分のアホさ加減をさらして歩くのはどうにも具合が悪いし恥ずかしい。
そう思っていた時、バイトの帰り道のいつもの道沿いの幼稚園、そこに付属する形で建っている『修道院』と書かれた看板のある建物の前を通りかかった時に私はいいものを見つけた。
「聖書を読む会」
ここで41歳の私はこの小娘に、それもまた自分なのだけど、言いたいことはひとつ。
「そんな文言の掲げられている施設の扉の前にぼんやり突っ立っていてはいけない、自分」
という事だ。
何か変な壺を売ったり、妙な自己啓発セミナーとか自給自足生活とか高額のお布施とか、お布施は寺か、あと鍋買えとかそういう集団だったらどうするのか若き日の自分よと思うのだが、若いというのは恐ろしい、若さゆえの好奇心の強さよ、そしてその気持ちへの躊躇の無さよ、その日その時若い方の私は自転車を止めてその掲示版を覗き込んでいた。
するとそこから出てきた、白いワンピース様の衣服に黒いベールをかぶった60歳位の女の人が
「こんにちは、この会?水曜日の夜なんだけれど、ご興味があったら是非、ね?」
柔和
それを表情にしたらこうなりますねそうですねというとてもやさしい笑顔でその人は自分をシスターのAですと名乗り、自転車のハンドルを握ったままの女子学生にこう言った
「難しいお話ではないので、是非いらしてくださいね、お菓子もありますよ」
この時
『お菓子もありますよ』
そのシスターの言葉が私の心に響いた。
情けないかよ。
そのころの私というと、奨学金は借り放題、バイトは入れ放題、おなかはいつもペコペコですというそれは貧相な学生で、お菓子とかご飯とか優しそうな笑顔とかそういうものには常時フラフラと吸い寄せられがち、ハイいきます、水曜日の晩、と返事をしてしまった。
そしてその案内の紙、確かB5を更に半分に切った紙を貰って自転車に乗って今出川通りを東から西に向けて走るその途中でふと
あの人が修道女と呼ばれる人なのか、初めて実物を見てしまった、優しそうなひと、本当にベール被ってるんやな、そう言えば中3の教科書には修道士というひとがでてきたけど、あれは何の話だったっけ。
それで思い出したのだ、そうそうアレはオムレツの話だった。
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約束の水曜日の晩、アルバイトの帰りにそのまま修道院を訪ね、あの日の柔和なシスターAに案内されてその扉を潜るとそこは白く美しい異空間だった、どうしようお母さん私は彼岸が見えました。
弊大学もそれはそれは古…歴史ある建物、超有名歴史に名を残してる系の建築家が建てた美麗な文化財ではあったが、なぜか私の学部については四角くて暗くて湿っていていつ建てられたんこれ、昭和40年位?昔の住宅公社の匂いがしますがあの狭い階段しかない5階建て位のヤツ、みたいな建物だっただけに、その古い門扉からお屋敷的日本家屋の玄関を入ると直ぐに白を基調にした小さな礼拝堂、カトリックの方はよくお御堂という言い方をするけれど、白いその部屋を通り過ぎてよく手入れされた植木とモッコウバラの植え込みの可愛らしい中庭に聖母子像を配したその修道院の建物はとても不思議でそしてとんでもなく清廉な空間に思えたし実際そうだった。
その清く美しい空間にお菓子につられた貧乏人が…と思うと若干うしろめたくかつはずかしくはあったが、神の前にあっては皆平等、困った時の神頼み、ひとはパンのみに生きるあらず、お菓子も食べます。
シスターに案内されて入室した和室ではすでに数名の、この時は全員女の人達が和やかに話に花を咲かせていた。上品な身なりの40過ぎくらいかなと思えるご婦人お2人と、私より少しお姉さんだろうなと思われる女の人、そしてあと2名のシスター。
シスターAはその輪の中に私を招き入れてそしてこう言った。
「こちらのお嬢さんもね、ご一緒に聖書を読む会に参加してくださるんですよ」
『お嬢さん』
え?それは私の事ですか?その一言にもの凄く挙動不審になった私を意に介さず、そのチェーホフの戯曲の世界のようにそこはかとない高貴な空気を漂わせた一座の皆さんはニコニコと私を迎えてくれて、私はタダでお菓子をいただきかつタダで聖書講義を聞きに来ましたとはとても言えなかった。
そして始まった聖書を読む会。
私は開始3秒で後悔した。
それはその日のお題が『ヨブ記』だったからだ。
私的、旧約聖書最大の難所。
そしてその日のお菓子は、カルメル会修道院のガレットだった。金閣寺のほど近く小高い山の山頂にある小さな修道院で作られている薄焼きのクッキー。初めて口にしたそれが凄くおいしくてつい「おいしいですね」と口に出したら、アラじゃあこれもこれも持っていきなさいねと余分に貰った、嬉しかった。あの界隈の人たちは本当に優しい。
それはさておき、何でそんなとこお題目にしたし、シスター。
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『聖書』
よくあのホテルの鏡台の引き出しに入っているあの分厚いヤツ。
新約聖書と旧約聖書の2部にわかれていて、そのふたつはいつもいつでもニコイチで扱われてはいるが、それぞれ成立の年代も違えば、内容も全く異なる、ざっくり言うと、新約がイエスキリストが生まれてからの事を書き、旧約がそれ以前の事を書く。
以上。
超ざっくり。
旧約聖書はいくつかの物語や伝承、そして詩で構成されていて、その中ひとつの『ヨブ記』というのはユダヤ教の、旧約聖書はもともとユダヤ教の聖典であるのだけれど、それによると、モーセが書いたと言われている、ハイそうですねあの海ふたつに割るヤツの元ネタのひとです。
まあそれは眉唾としても、この文書の成立年代が紀元前5世紀から3世紀と言われるのだから古い、そのころ日本弥生時代、超絶昔、とにかく古い書物、死海文書にその起源をもつ。それについては何も聞かないで欲しい、この文章を読んでいる世界史クラスタよ、私の専門は考古学ではないんだ。
その主題はと言えば一言でいうと、言えるのか自分、イヤそこは頑張れ、大学時代と大学院時代散々ご迷惑をおかけした指導教授たちよ今更だけど俺に力を。
『義人の苦難』
だと思う、だといいな、大丈夫か自分。何も悪い事をしていない、むしろ行い正しく清廉潔白で人品骨柄卑しからぬ人間が理不尽な苦難に襲われたその時、私たちは神の前に、もう神じゃなくてもええわ、その世界に対してその事をどう受け止めるべきか。
因みにこの『ヨブ』というのはひとの名前で、へんな名前、でも当時のかの地では普通の名前なんだこれが、大体イエスキリストの『イエス』だってその2000年前のユダヤの地ではタロージロー位の普通地味ネームやってんでと教授も言っていて当時の私は若干夢壊されたものだったが、そのヨブはウツの地、今のイスラエルとヨルダンとエジプトにまたがる地域のお金持ちのお父さんで、行い正しく10人の子どもに恵まれて莫大な財産を持ちとても幸せに暮らしていたのにある日、それを見ていた悪魔が神様にこう言うのだ
「あの者は恵まれた環境にいるからこそ正しい行いをするのであって、すべてを失い不幸な身の上になればそうはいかない、世界も神も呪うだろう」
神様も何でそんな口車に乗ったものか、大体旧約聖書の神様というのは古事記の八百万の神々並みに理不尽かつかなりの人でなし感で、いや神か、それならひとつと、とヨブの大切な家族や財産を次々奪う、可哀相なヨブお父さんはついには酷い皮膚病に苦しむ羽目になる、何それ神様酷くない。
それでその状況にヨブの妻は根を上げる、神を呪って死ぬ方がましでしょうと、しかしここのお父さんはこう言うのだ
「お前まで愚かなことを云うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」
マジかよ。
辛抱強さ満点のこのお父さんは、その後数多の不幸に会いながらも決して世界を神を呪わず最後はまた幸せな人生を取り戻して140歳まで生きる、めでたしめでたし。
で、そんな話の講義を、だから神を信じろとか、人間信じる事で救われるとかそういう事ではなくこの書物の書かれた時代背景から始まり、ヘブライ語、そして現代解釈、批判的解釈、ついでにニーチェが出てきた時には腰を抜かした、だってニーチェですよシスター「神は死んだ」の人よ、死んだらダメでしょ。
それもそのはずでこのシスター 某K大学文学部哲学科をお出になっているらしいついでに大学院も。
K大で哲学、西田幾多郎、それしか思いつかない私も私だが、兎に角この修道院、そういう人を意図して集めているのか、ひとは何かを突き詰めると唯物的なものすべてから解放されて世俗から隠遁したくなるものなのか、耽美なロシア戯曲の花園かと思っていたそこは実は旧帝大系頭脳派集団の巣だったのだ。
早く言ってよ。
即ち、この『聖書を読む会』は大学の講義それより大幅にハイレベル、しんどい修練の場だったという事だ。
神よ何故なのですか。
それでも毎回何とか予習して予備知識をつけてその修道院に通ったのはお菓子がもらえるのもあったが、あの扉からちょこっと顔を出して、是非いらしてねと言ってくださったシスターのあの柔和な笑顔の故だ。
いつも優しく穏やかな口調で、私のどんなアホな質問にも
「そうね、良いところに気が付かれましたね」
と答えてくれたシスター。
そのあまりの聡明さと優しさに私はある時、このヨブはどんな苦境にあっても神を棄てなかったけれど、逆に人は学問を極め望めばなんでも手に入るような生活をしていても突然手元にある全てを捨てて生きて行きたくなることはあるのだろうかと聞いた、それはシスターがK大を出て、このシスターは多分若い頃はさぞお美しかったのだろうなあという面立ちをしていらしたのだけれど、何もかもに恵まれていたであろうはずの貴方はどうしてここにいるのですかというそんなことを、若くて好奇心にあふれていた私は暗に聞いたのだ。
そうしたらシスターは
「神様の前にあって人間はひとりひとりですから、どんな事を学んで、どんなものを持って、どんな生活をして、どんな容貌をしているかなんていうのは関係ないんですよ」
そう言って微笑んだ。
私もあなたも、一国の宰相であってもひとりひとりです、同じですよと。
「ひとりひとりの人間がいる、それだけの事ですから」
ルロイ修道士と同じ事を云うんだなと、その時の私は思った。
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そしてそれから時は相当流れて20年後、私はあまり幸せではなかった。
夫は慢性疾患で片目の視力を無くしてしょっちゅう休職するし、息子は発達障害で常に何かをなくして壊してついでに学校からの連絡はほぼ毎日、とどめに重度心臓疾患の末娘、ついでに自分も精神を軽く病む。
神よなぜなのですか。
というか神死んだな
そう思いながら、ほぼやけくそ気味の明るさで毎日を過ごしていたこの数年。
ここにきて世界は大変なことになった。
未知のウイルスの大流行、打つ手の無いまま伸びていく罹患者数、降ってわいた疫病の脅威に皆等しく怯える理不尽な日々。
さて、今からものすごくちっさい事を云う。
リムーブ推奨。
それを今誰かに云ってどうする自分。
思いついた事はすべて言葉に文章にしてしまうのはもう私の業みたいなものだと思うので許してみんなたち。
今、本当なら桜もハナミズキも美しく心楽しい筈のこの季節に、世の人たちが、普段の生活をはく奪され、買い物に不自由し、感染症の恐怖に怯え、あるひとは仕事を失い、小さな子どもを持つ親は万が一我が子が罹患したその日その時、幼い我が子がひとり病院に隔離され収容されるかもしれない可能性に皆心を痛めている。
まさか世界がそんなことになろうとは。
それを目の当たりにした私は、みんな頑張ろう、そして皆でこの苦境を乗り越えよう、来年はきっとみんなでお花見ができるよ。そう思う常識的で共感性の高い41歳の己の中に、もうひとりの怒りで地団太を踏んでいるわからずやの14歳位の自分を内包している事に気づいてしまった。
というかこの14歳児よく出てくるんだ私の脳内に。
何かあったのだろうか14歳の時。その14歳が云うのには。
「いまさら何を言っているのか」
「そんなこと私は全部、全部経験してきたぞ」
心臓に重度の疾患を抱えて生まれてきた娘の母親になった2年と4カ月前から。
突然普通の平凡な凡庸な母親から、疾患児の障害児の母になり日常は180度変わってしまった。
時間毎に行う投薬と栄養注入、今は重たい酸素ボンベ、もう一人超絶世話の焼ける発達障害児の世話で自由に外に出る事も出来ず
食料品の買い物に出る事も不自由して、住む市町村からもう2年近く出る事もしていない。
勿論就労も出来ない。
上の2人の子どもの参観に欠席して、PTA活動課外活動は軒並み不参加、それをうまく説明することも難しくて周りに怪訝な顔をされ
娘のICU入院PICU入院中、一番辛い娘に付き添う事が出来ず
何より感染症に「絶対罹患させるな」と言われている子を医療機関とは全く異なる自宅という環境で育てる恐怖と緊張と。
それでも、自分が産んだのだから
そう思って2年頑張って来たのだ、この育てにくい子を育てにくい環境で手助けの乏しい今の環境で、他のきょうだいがかわいそうじゃないと言われながら
じゃあ私は可哀相じゃないの、疾患児を産んだ母親は、そのケアを一手に引き受ける事を当然とされた障害児の母親は。
目には見えない自己責任の印籠を世の中に突き付けられながら頑張ってきた2年と数カ月
マイノリティーの枠組みの中の「障害児とその母」の中にいて外を眺めていた年月を経て、突然世界が、特に今緊急事態宣言を出されたこの地では、自分にそっくりな環境に置かれた親が沢山現れた。
突然の世界の転換。
子どもの預かり先は無く、自宅に閉じこもり、何なら仕事にも行けない、そして今日の買い物に苦労し、何より感染症を最大の恐怖として畏怖する、そんなひとたちが突然世の多数派になった。皆辛いと言う。
そして何とかこの苦境をみんなで乗り越えようと言う。
分かる41歳の自分にはその事はちゃんと分かる、何なら私なんかよりもっと大変な状況の人はごまんといるだろう。
でもじゃあ何故私は一人で同じ事を耐えなくてはいけなかったの、他の疾患児の障害児のお母さんたちは一体今この状況をどう思っているのだろう。
納得いかない。
そう思ってしまった精神的14歳の自分ちっさい、へそ曲がり、根性が悪い、もう死にたい。
日々、ニュースで「コロナに負けるな」的みんな頑張ろうという報道を見るたびにこの感情が沸き上がってきてしまうのだから、この14歳は相当扱いづらいお前ときたら反抗期かよ。
そうやってこの世界の危機の最中、脳内で世界の二元論を勝手に構築して、怒ったり悲しんだり、そんな自分の狭量さにあきれ果てたりしている時に、あの2人の言葉を思い出したのだ
「神様の前にあって人間はひとりひとりですから、どんな事を学んで、どんなものを持って、どんな生活をして、どんな容貌をしているかなんていうのは関係ないんですよ」
「総理大臣のようなことを云ってはいけませんよ。大体日本を代表してものを云ったりするのは傲慢です。それに日本人とかカナダ人とかアメリカ人とかいったようなものがあると信じてはなりません。一人一人の人間がいる、それだけのことですから」
突然降ってわいたように皆が同じものの脅威にさらされたこの春、私たちは健常児の親でもなく、障害児の親でもなく人種や属性を超えて均して今、ひとりひとりだ。
🥚
私はこの未知のウイルスの大流行のその後、人間の英知がこれに負けずに私たちがその後の世界を生きることになったその時、社会の在り方とは平等とは仕事とは使命とは家族とは愛とは、とにかくすべての事は再考され再構築されていくだろうと勝手に思っているけど、あなたはどうですか。
私はというと、心臓疾患の娘を産んで育てているその過程で、そのひとつひとつは壊れていって今少しずつまた組み立てなおされているその道半ばだ。
ヨブお父さんは理不尽すぎな苦難にあったその時、特にその人間性を損なわなかった。
私は世界の危機に比べるとそこそこちっさい苦難に会った時、かなりやさぐれた。
そして今、少しずつ何かを取り戻して、これからは子どもを守るためにもっと能動的であるべきだと少しだけ思っている、基本的には超非社交的なので、まずは本当に少しだけ。
他の、ひとりひとりはどう思っているのだろう。
皆突然、これは神というよりは世界、もっと言うと疫病という苦難の前にひとりひとりになりこれまでの生活と常識と世界の在り方の再考をいやおうなしに迫られる、世界のコペルニクス的転回の時に。
そしてそんなコペルニクスは司祭だ、キリスト教繋がり。
生き抜いたその後はいろいろなことを考えよう。
そしてあの2年と4カ月前に私の人生にコペルニクス的転回をもたらした末娘は、卵が大好きで、とりわけオムレツにはことのほかうるさい。
今朝、イースターの日のこの朝も
「タマゴ!ヤイタノ!」
と言って朝6時からオムレツを焼かされる私よ。
何の因果ですか。ルロイ先生。そしてシスターA。