プロの本懐
例えば「お母さんなんだから」という大雑把すぎる括りで、己のありようを限定されるのは個人的に好ましくない。そもそも「母親らしさ」というものは大抵封建的な家制度に深く結びついているもので、そういうものを私はあまり好きじゃない。
仮に人から「母親らしく」に類することを言われて、そうして己の行動や思考を制限されるようなことがあるとしたら、スリッパ片手に地の果てまで執拗に発言者を追いかけたる、くらいの気持ちはあるけれどやらない。だって足がものすごく遅いから。
だから私も、性別や年齢や職種なんかの大枠で相手を捉えてはいけないなと思う。先入観は人を視野狭窄に陥らせる。
しかし逆に例えばある職業集団の人々が「自分達は最終的にはこういうことを目指していて、その高みに登るために努力しているのです」という姿を見るのはとても好きだ。そういうものを垣間見た時、私は大げさでなく救われるような気持ちになる。
3年前、先天性の心疾患児である末っ子の娘が、大きな手術をした。
そこに至るまで娘は、まず生後4ヶ月で鎖骨下動脈と肺動脈の間を人工血管で繋ぐ手術をして、その後1歳半の時に上大静脈を肺動脈に繋ぐ手術を済ませ、その間に何度も入院をして検査をして不要な肺の血管に医療用チタンを詰める処置などをして、ともかくこの3度目の手術を越えることだけを目標に、辛いことを全てないことにして乗り越えてきた、大きな節目の手術だった。度重なる入院、感染予防のための外出自粛、耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、旅行も行楽も何それ食えるのという3年間、そこにずっとつき合わせてしまった上の子達には、本当に申し訳ないことをした。
娘はこの手の疾患の子にしては、発育が良く体重も必要十分、前回の術後経過は主治医をして「おれ、こんな子見たことないぞ」と笑いつつ感心された順調さで、それだから「無駄に心配することは止めて、落ち着いていこう」と待ち続けた手術開始から13時間後、手術室から出て来たのは、長時間の手術に耐久できず、補助循環装置、ペースメーカー、腹膜透析器、人工呼吸器、アイノフロー、吸引機、シリンジポンプ計25台他、おびただしい数の医療機器によってなんとか命を支えられている3歳児だった。
医療機器フル装備3歳児マンは、ICUにいる間は勿論のこと、小児病棟のPICUに移っても一向に目を覚まさず、人工呼吸器はそのままに、心臓どころか全身の状態が安定せず、血圧は上が200、高熱が続き尿のバックに溜まってゆくのは真っ赤な血尿で、終いには原因不明の痙攣まで起こす始末。
そんな状態だったもので、入浴も洗髪も1ヶ月以上できないまま、特にICUにいる間は補助循環装置であるECMOを装着していたため「下手に動かすと危ない」というアンタッチャブルな状況の中、術後の血流の悪さもあって後頭部に大きな褥瘡ができて、結果それが一生もののハゲになった。人は体の一部が壊死すると、甘酸っぱいような不思議な匂いがすると、あまり知りたくなかった知見を仕入れたのもこの時だった。
そこから小児病棟に移床して、やっと長くシーネ固定していた足が自由になり、まずは病棟のナースと一緒にベッドの上に洗面器を置いてくるぶしから下を丁寧に洗ってあげることができた時、ずっとテープで覆われていた足からは、薄い皮がぼろぼろ剝けた。
(人間って脱皮するのか、うちの子はコモドオオトカゲやったんか、どうりで一心室しかないはず)
これは後になって知ったことだけれど、娘が産まれてから今日までお世話になっている病院には、小児心臓血管外科や小児循環器外科の類のドクターが長く不在で、故に病棟で娘の症例や術式は殆ど扱ったことがなかったのだそうだ。そうなると当然、現場のナースはそんな患児の術後管理なんかしたことがない。
「今だから言うけど、本当に毎日何が起きるかわからなくて、現場はずっと緊張していたんです」
これもまた娘が退院したずっと後になって、当時娘をよく担当してくれていたナースに聞いたことだ。初見の症例の、初見の手術の、びっくりする程状態の良くない患児がPICUにいる。大学病院の生え抜き、粒ぞろいの精鋭ナース達とは言え、皆ついこの前まで大学生だった年頃の女の子(たまに男の子)ばかりだ、きっと相当怖かったことだろう。なんだかちょっと申し訳なかった。
しかしその女の子(たまに男の子)達は、ようやく首からCVCが抜け、鼠径部からAラインが抜け、ともかく「これが抜けてしもたら、即医者を呼ばねばならん」という、触れることすら恐ろしい管が抜去されて、創部の抜糸が済んだ頃、まだ起き上がることも喋ることもできませんわという風情の娘を前にしてこう言った。
「娘ちゃんをお風呂に入れようと思います!」
風呂に付けたら術後ずっと安定せず、170か180は「低い方」という数値的バグが起きている血圧が更に爆上がりして即ICUに突っ返されそうなこの小さい人をどうやってお風呂に入れるのか、困惑する私を前に、あの日PICUの担当だった当時5年目のしごできナースと、彼女の同期、それから手の空いていた小柄で可愛い3年目のナースがやってきて、たちまちベッドの上に水色の吸水シートを何枚も重ね、隙間のないように敷き詰めた。こうやってベッドの上で身体を洗い、洗髪もするのだという。
その発想はなかった。
たまたま病棟で退院と外泊が重なり、人のまばらだった日の午後、看護師3人と患児の母がベッドを囲み、娘の脂でべたついた髪を洗い、垢で粉を吹いていた肌を洗った。あの時半覚醒状態だった娘は、ぼんやりと半目を開けているだけで特に反応してくれなかったけれど、ナースのひとりが
「アッ、娘ちゃん、いまちょっと表情が柔らかくなった!」
と言ってくれたことが嬉しかった。術後、何を話しかけても反応が薄く、起き上がることもできなくなっていた娘はこの時「脳に不可逆的なダメージを負ったかもしれない」と言われていた。そうじゃないはずだと思いたかったけれど、それを否定する根拠は無かった。この子が寝たきりになったら、それでも絶対連れて帰るけど、私に育てられるのだろうかと考えていた頃のこと。
「覚醒して本気出してきた時が怖いね!」
「ルートなんか秒で引き抜くからね!」
「挿管してない状態で目覚めて欲しい…(※気管挿管を引き抜こうとした前科がある)」
心疾患児にあるまじきパワータイプで、病棟での素行が赤ん坊のころから大変悪かった娘が復活することを願い、皆が頭の先から足指の間までせっせと洗っていた時、ベッドの周囲をぐるりと囲っていたカーテンに隙間が空いた。教授先生方の回診らしい、PICUの内と外に白衣の病棟医、研修医、学生学生。
(ええ、うちの娘マッパなんやが)
そう思った瞬間、5年目のしごできナースが、ほんの少し開きかけたカーテンをシュッと閉め
「ダメです!入浴中ですッ!」
ぴしゃりとそう言い放った、ついでに同期と3年目のナースの「そうです、ダメです」の後押しの声。カーテンの内側にいた私には教授先生がどんな顔をしたかは分からなかったけれど、そのまま娘のベッドを素通りして、教授回診の行列は去っていった。
相手は小児科のトップである部長先生、対して「入るな」と言って部長先生を追っ払ったのは師長でも主任でもない20代の看護師。ええんか、ええのんかとは思ったけれど、患者が病床で無防備な姿をしている時、相手が医者とは言え、不特定多数の他人の目に裸体をさらすことを是としない。たとえそれが3歳児でも『患者の尊厳は守ってなんぼ』という看護師の魂を見たような気がした。いや見た。
この年になると、寂しいことに段々と世界に期待をしなくなる、寄ると触ると人を傷つける性質の人間がいることを知っているし、私自身も知らぬ間にそこに加担しているのかもしれない、目を覆うようなひどい事件も日々起こる。でもこういう真摯な人の誠実な仕事を見るとちょっとだけ、救われた気持ちになる。
そもそも「ママ、一緒に足浴しましょう」とか「ベッドの上でシャワー浴をするので、ママも一緒に髪の毛を洗いましょう」なんて提案をしてくれたのだって、高度医療の砦の中にある時期の我が子に親は手も足も出せないからだ。足浴に使うお湯の温度も知らないドシロウトなんて、そこいたって本当は邪魔なだけだろう。でも一緒に足を温めて、手ずから髪を洗えば、親も我が子に「なにかをしてあげられた」ことになる。
このベッド上のシャワー浴の後、娘がベッドから起き上がり、笑顔を取り戻し、会話をして食事を自力で摂れるようになるまで、約1ヶ月半を要した。
それから更に3年後、娘は今6歳で、医療用酸素を携帯しながら毎日地域の公立小に通う元気な医療的ケア児になった。人と違う体で、特別な装備で、それでも普通の学校に行って、普通の子ども達の中で暮らすのは結構大変だし手間だし、何より福祉や学校や医療、娘を取り巻く諸々の関わりの中で
「なんでやねん!」
とフルスイングで突っ込みたくなることは本当に多い。でもそういう時はいつも、あの日「女の子がッ、入浴中でしょうがッ!」と田中邦衛もびっくりの怒号で娘の尊厳を守ってくれたナースのことを思い出すようにしている。
それから、あの子が今も元気で看護師をやっているといいなとも。