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短編小説:閉塞惑星(短編集・詩を書く4)

※短歌や詩を枕にして私小説を書くということをしていましてそれの4つ目です。夏の足音がすぐそこまで聞こえるような陽気になりましたので夏の話を書いたら。何せ夏ですから怖いような哀しいような話になりました。

夏はゆく 何度でもゆく だから僕は捕まへたくて 虫籠を置く

山田航『さよならバグ・チルドレン』

僕らはその夏半月ほどを、小さな山荘で過ごした。確か、富山県と岐阜県の県境に近い山の中のちいさな村だったと思う。

鬱蒼とした森の奥、真っ白な入道雲と痛いくらいに青い夏空、むせ返るような深い緑、時折棚田のあぜ道を走り抜けていくイタチの親子、川の浅瀬にやって来るゴイサギ、彩のあるものだけが透明な生命を纏って存在し、24時間街を照らし続けるコンビニや夜通し幹線道路を走るトラックのテールランプのように無機質で明るいもののほとんど存在しない、宇宙のはずれの小さな惑星のような場所で。

惑星の住人は子どもが4人、大人が1人、それだけ。



僕とタケちゃんが同じ年の12歳、リリは僕とは4つ年下の8歳、それから一番大きいぺい君が13歳。僕らは年齢も、住んでいる地域も、それぞれ全く違う4人ではあったけれど、宮本さんという優しいおばさんが経営している小さな学習塾に通う4人だった。学習塾と言うよりは、個人が経営する小規模のフリースクールと言った方が正しいかもしれない。

僕らは普段は東京から在来線で1時間足らず、よくある清潔で白い建売住宅と、よくあるすました高層マンションと、よくある大規模ショッピングセンター、そういうものの中に、よくある共働きの夫婦に子どもは1人か2人という家庭のみっしりと暮らす、とにかくどこにでもよくあるあまり特徴のない街に住んでいた。そこがあんまりにも特徴というものを持ち得ないもので、生まれてからずっとそこに暮していた僕は今でも、ちょっと知り合った人なんかに

「ねえ地元ってどんなところ?」

と聞かれて、それを上手く答えられないくらいだ。同じような四角いマンションと建売住宅の街並み、同じような私鉄の駅前、同じような雑居ビルと雑居ビルの隙間に四角く切り取られた空。有名なものと言えば、街を貫く川幅の矢鱈と広い1級河川と長い桜並木、それからちょっと有名なロールケーキを売る洋菓子店の本店があるくらいだ。それは元々は小さな街の洋菓子店だったものが、創業者の孫の代になってから店の名を冠したロールケーキが物産展をこつこつと回るうちにじわじわと売れ始めて、今は地元を中心に関東に5店舗程の店を構えている、それが僕の家だ。

宮本さんは最初、僕の家によくロールケーキを買いに来るお客さんだった。

宮本さんは本店の隣、ミモザアカシアの大きな木が門扉をアーチのようにして覆う古い洋館に暮らす60歳くらいの品のよいおばさんだった。いつも上品な小花柄のワンピースもしくは皺ひとつなく綺麗にアイロンのかかったブラウスにシフォンのスカートを身に纏って昼前11時頃、まだ混雑していない本店にやって来て、午前中はいつも店に出てショーケースの前に立っていた僕の母親と買い物ついでにちょっとした世間話をしていた。

「ミモザアカシアが今年もたくさん咲いたの、キレイだけれどあれは花弁ていうのかしら、あの黄色いふわふわが風にのってあちこちに散るでしょう、もうお掃除が大変、お庭を挟んではいるけれどお宅のお店の前にも散っていないかしら、ごめんなさいね」

「宮本さんのお宅の庭木、どれも立派ですものねえ、あれうちのお店には本当に素敵な借景なんですよ、ミモザアカシアも、お家の設えも、どれも本当に素敵ですもの」

そんな誰も傷つかない優しい話を優しい言葉遣いで喋る。宮本さんは人の噂話を好まず、誰かを傷つけるような貶めるような言動を決してしない人で、母もお店の人たちも宮本さんをとても良い隣人だと思っていた。その上、宮本さんは3日にあけず店にやって来てロールケーキを一度に3本とか、焼き菓子の詰め合わせを3箱とか、結構な量の商品を買って帰っていくお得意様でもあった。でもひとり暮らしの宮本さんはそれを1人で食べるのではなくて

「子育てに悩んでいるお母さん方とね、気晴らしのお茶会のようなことをやっているの」

宮本さんの自宅にやって来る人達にふるまうのだと言っていた。僕の祖父が本店をそこに移転した年、親族から相続した洋館にひとりで越して来たらしい宮本さんは夫も子どもも孫もいない1人暮らしで、ちょっとした資産家の一人娘で、以前は小学校の教師だったとも聞いたような気がする。それだから宮本さんは家庭で自分の子どもを養育したことはない。でも亡国の王族に仕えた高位女官のように言葉遣いが上品で笑顔の優しい宮本さんが、子どもの発達や発育、それから親子や夫婦のちょっとした揉め事なんかの愚痴を聞き、それに意見をするのでも注意するのでもなくうんうんと頷きながら「そうね、わかるわ、大変よね」と肩にそっと手を置いて聞いてくれるだけで、地縁としがらみのきれいさっぱりと消えた、しかしその代わりにもたらされたつるりと新しい街の清潔な家の中でまだひとつも明瞭な言葉を持たない子どもに向かい合うだけの生活を送る若い母親にはどんなに救いになるだろう。

僕の母もそう感じたひとりだったようだ。

僕はその当時、諸事情で学校に長い間行くことができないまま、それなら私立でも別の学区でもとにかく転校してちゃんと学校にいきましょうと交渉してくる母と、いや学校なんてものは一生いかない、行きたくないんだと言い張る僕との間で母子関係性はこれ以上ない程悪化し、1年程膠着したまま僕は自室に引きこもっていた。それに思い悩んだ母がぽろりと、あれは僕が本来なら小6になっているはずの春だ、ロールケーキを買いに来た宮本さんに

「うちの子ね、実は去年からずっと学校に通えていないんです…」

ため息交じりに打ち明けた。商売をしている家というものは本来家族のことを外の人間に知られるのを酷く嫌うものだ、僕もずっとそう躾けられてきた

『余計なことは外であんまり言わないようにね』

母はきっととても宮本さんを信頼していたのだと思う。それで母から僕がほぼ引きこもり状態で、1日のほとんどの時間をずっと自室でひとり、ただ時間の過ぎるのを待つようにして過ごしているのだと聞いた宮本さんは普段から明るい顔色をもっと明るくぱっと輝かせて

「私ね、実は自宅で小さな学習塾みたいなものをやっているの。ああでも、お勉強というよりも、色々な子集まって楽しくすごしましょうって、小規模のフリースクールみたいなものなんだけれど、ええと、梓君だったかしら?梓君もよければうちに来てみたらどうかしら、本当に私の楽しみでやってるだけの小さなお教室なのよ、お勉強もみてあげられるし、もしお勉強が嫌なら本を読むとか絵を描くとかピアノを弾くとか、自分の好きなことをしてくれていたらいいの」

あなたも、ここのお店に出ていない間はずっとお部屋に閉じこもっている梓君とドア一枚隔ててただ向かい合っていては、息がつまってしまうでしょう。

それはまさに1年間「いったいどうして学校に行きたくないのか、理由を教えて」と問い続けても何も答えないまま自室に籠城する僕に悩み続けていた母には彼方からの光明で天からの福音だったのだと思う。そして学校でも家族でもない外部からの第三者的な力が加わるということは

「だからって、このまま子ども部屋に一生引きこもる訳にはいかないんだ」

そのことを誰よりも分かりすぎる程分かっていて、この惑星の果てに自分は追い詰められているのだと、そんな心象風景を抱え続けていた僕にとっても遠くの小さな救いの星の光のように見えた。

それで僕は宮本さんの家に通うようになった。宮本さんが『学習塾のようなもの』と言っていた洋館の玄関には『たんぽぽの会』と記された誰かの手造りらしい木のプレートが掲げられていた。その凝った彫刻の施された玄関のドアを開けると真っ直ぐに廊下が伸びていて、その奥の突き当りにステンドグラスのような飾りのついた両開きの扉があり、そこが教室だと宮本さんは言った。案内されるとそれは学習塾というよりは僕のように学校に通えていない子どもが勝手にふらりとやって来て、もしくは親に車で送られてきて、それで好きなように時間を過ごす不登校児の児童館という感じの空間になっていた。

宮本さんが母に言っていた通り、そこにいる間教室の子ども達は何をしていても構わないようで数人いた子ども達は皆、好きな事をして過ごしていた。宮本さんは決して子ども達に命令をしないし無理強いもしない、ただ

「こういうの、やってみない?」

と優しく微笑んで提案をするだけで、それはとても自由な空間だった。宮本さんが『お教室』と呼んでいた場所は元々はその家のダイニングルームで、よく磨かれた飴色の床と、中央に置かれた巨大なアンティークのダイニングテーブル、天井にはすずらんのような形のペンダントライトが設えられていて、壁一面は天井まである巨大な本棚になっていた。僕はそこではずっと古い岩波の少年少女文学全集を1巻から順番に読んでいたし、僕とは全く違う理由で学校に行けず、昼間は街をぶらぶら過ごしお腹が減るとコンビニで万引きをして小腹を満たす生活をしていたタケちゃんは、僕と同じ年の小学6年生だというのに見事な金髪で、毎日床に座って宮本さんの用意した計算プリントばかりごりごりと解いていた。僕がどうしてずっと計算ばっかりしてるのと聞くと、タケちゃんは僕のことをじろりと睨んでから、とても分かりやすく明確な答えをくれた。

「金勘定が好きなんだよ、俺、でかい数の計算してると安心すんだ」

「へぇ、すごいね、僕は計算とかは苦手だな、本を読んでる方が好きだなあ」

「これだから金に困った事の無いヤツは嫌だよ、この家の隣のでかいケーキ屋のおぼっちゃまなんだろオマエって」

僕にそんな憎まれ口を言うくせにタケちゃんはなぜだかいつもぴったりくっつくようにして僕の隣にいた。タケちゃんは口は悪いけれどとても頭の良い子で同時に酷く淋しがり屋だった。タケちゃんのお母さんは普段ほとんど家にいなくて、タケちゃん自身は学校に全く行っていない、だからと言って日中自宅にずっとにひとりでいても暇だし電気やガスはしょっちゅう止まるし冷蔵庫に食べ物らしいものは何もない。それで毎日仕方なく外をうろついていて、その時に宮本さんに声をかけられたのだそうだ「あなた、学校は?行っていないの?それならおばさんの家にこない?」と。コンビニの金髪万引き少年とケーキ屋の引きこもりお坊ちゃまの僕、僕らは同じ空間で過ごすうちに、互いに無いものを補うようにして段々と仲良くなった。

そして同じ教室に車で送迎されてくるリリはその僕らより4つ年下の、なんだかひどく浮腫んだ、丸い顔をした肌の色の黒い女の子で、でもその丸く膨らんだ顔と浅黒い肌はすべて病気のせいだと言っていた。リリ本人が言うのには

「本当のあたしはこんなもんじゃないの、もっとうんと可愛いの」

だそうだ。リリの言う『本当の美貌』を邪魔する病気のせいでリリは毎日薬を欠かさず服用しなくてはいけないのだけれど、リリにはこれがとても辛いらしい。いつも『たんぽぽの会』での軽い昼飯のあと、キッチンの小さな椅子に掛けて宮本さんに励まされながら、涙目で何種類もの薬を息を止めて飲み下していた。リリはその薬を一生飲み続けなくてはいけないのらしい。

それからペイ君、彼は僕とタケちゃんの1つ上、だから4人の中では一番年長だったのだけれど、世界の見え方やそれに触れる時の感覚がすこし独特な子で、例えば彼は文字というものが文字として認識できないので自分の名前も書けないし読めない、お陰で僕らは最後までペイ君の本当の名前を知らないままだった。でもそのかわりにペイ君は見たものを見たように描くことができた。特に風景が滅法上手で、というよりもそれは上手だなんて安直な表現と言葉を遠く遥かに凌駕しているものだった。『写実』という言葉の本当の意味を僕はペイ君の描く風景画を見て知った。

「うわ、写真みたいだねえ…」

初めてペイ君の描いた宮本さんの家の隣の家、だから僕の父の店である『かわかみ堂』のスケッチを見た時、僕は感動と驚き、両方の感情の含まれた深い嘆息を漏らした。4Bの鉛筆で緻密に描かれたその風景画は、窓から見える店舗の中のショーケースの、さらにその中のイチゴをちょこんとのせたフレジエまでが美しく整然と描き込まれていた。

「スゴイねえ、本当に凄いよ写真みたいだ」

僕がそう興奮気味に言うとペイ君は

「写真では、アリマセン、写真では、アリマセン、写真では」

そんなふうにして何度も同じ言葉を繰り返した。故障したボイスレコーダーのように同じ言葉を繰り返してしまうのがペイ君の癖というのか彼独特の話し方で、でもそれに驚かずに臆さずに注意深く聞いていればそこにはペイ君の喜びや照れやはにかみというものがちゃんと含有されている。僕は最初、自分が何か不用意なことを言ってペイ君怒らせてしまったのかと少し慌てたのだけれど、ペイ君は時折、慣れない事象や初めての経験に混乱して壁に自らの頭をゴンゴンと打ち付けてしまう事はあるけれど、基本的には怒るということのない穏やかな子だった。

大柄でふっくらとした体躯の彼は、とても心の優しい、そしてそよ風が宮本さんの自宅のミモザアカシアの葉を揺らす様子すら瞬間的にとらえて詳細に描くことのできる繊細な指先と感性をもつ子だった。そしてどういう理由なのかペイ君だけは宮本さんの、この家にあるときは宮本さんではなくて『宮本先生』の家でいつも寝起きしていた。

僕らは年齢、家族構成、それぞれが内側に静かに抱える問題、そのいろいろがあまりにも違いすぎる、まるでバラバラな4人だった。しかしそれぞれの属性の凹凸が激しすぎるとそこには、子どもをひとところにぎゅっと無理に集めた時の、例えば小学校の教室の中に発生する嫌な軋轢のような不穏な空気のようなものは不思議と起こらず、むしろ妙な親密さが発生してそこに存在していた。

僕とタケちゃんは同じ年の友人になり、リリは皆の妹のような存在として大切にされていたし、ペイ君は普段一体何を考えていてどういうことがしたいのか何を好むのか、こちらがよく注意して耳を澄ませなけばわからない点は多かったけれど、いつも飢餓状態の貧血気味の顔でたんぽぽの会に「だりー」なんて言いながらやってくるタケちゃんに取っておいた自分のおやつを分け与え、出がけに母と「学校はどうするの」「そんなこと今考えたくない」という言い合いをしてきてうまく笑えないでいる僕にそっと寄り添い、甘えん坊のリリがおんぶしてと言えば1時間だって背中に背負い続け庭を散策する、まるで僕らの兄のような存在になった。そんな僕らだから宮本先生があの年の夏

「あのねえ、先生のお父さんがね、ああ先生のお父さんはずっと前に亡くなったのだけれど、でもそのお父さんが生まれた家が今も残っていて、それは今夏の別荘みたいに使っているのだけど、そこにこの夏みんなで行ってみない?最近の夏はほんとうに酷い暑さだけど、山の中はとても涼しいの。それに莉々子ちゃんがね、あの子はホラ、病気で入院ばかりしてきたから、旅行なんか全然したことがないのですって」

先生が、教室では一番年下のリリを喜ばせてあげたいと言うのを、僕ら男3人が反対する理由はなかった。『学校』という入れ物が恐怖の器でしかない僕にとっては修学旅行だとか林間学校なんかは死の行軍でしかなかったけれど、リリにとっては砂漠の幻のような、行きたくても行くことのできない憧れであって夢なのだ。「それなら」僕は快諾した。そして修学旅行どころか

「そもそも生まれてこの方、俺は学校なんかほとんど行ってねえ」

そういう人生を送るタケちゃんも、リリが行きたいなら仕方ねえなあと言ってくれたし普段、例えば教室の椅子が定位置から3㎝ズレているだけでひどく混乱して「椅子が違いますッ!」と言って壁にがんごんと額を打ち付けてしまうペイ君も

「旅行は、楽しいです。旅行は、楽しいです」

そう何度も繰り返し、自分も参加するのだと明確すぎるくらいに明確に意思表示をしてくれた。僕らは皆、仲間の中で一番小さなリリが嬉しいのならそれが一番大事なことだと思っていて、そこだけはそれぞれに一致した考えだった。

「そこにある一番弱いもの、一番幼いものを一番大切にしなさい」

それが宮本先生の教えだったし、僕も、タケちゃんも、きっとペイ君も同じように思っていたと思う、

『夏の北陸という場所は思ったほど涼しくないんだな』

それが駅舎の骨組みが建設された当時のままの木造で、そこに吊るされた土地の特産品らしいいくつもの鋳物の風鈴がちりんちりんとうるさいくらいに風の音を鳴らすホームに降りた時に僕らが最初に感じたことだった。

「えっ、すごい蒸し暑い…?」

「なんか、思った程涼しくねえな、ていうかコレ向こうの方が絶対涼しいぞ」

「リリ、暑いです、リリ、暑いです、リリ、暑いです」

生まれつきの病気のあるリリは暑さにも寒さにもとても弱い。僕らはねっとりと体に絡みつくような北陸の湿気を帯びた暑さに、特急の中でずっとはしゃいで、普段は午後に1時間ほど午睡をするのに車窓を飛ぶように流れていく夏の田園や時折瞬間的に顔を出す日本海の群青をひたすら眺め「アレは何?」「海だ!海が見えるよ!」と話し続けてひとつも眠らなかったリリの体が心配になって、宮本先生とリリに大丈夫かと聞いた。

「へいき」

「大丈夫よ、今日はフェーン現象が起きていてそのせいで凄く暑いの、お盆の前とかに時折あるのよ。でも今から行くところはうんと山奥だから大丈夫、森がこの湿気を遮ってくれるし、川の上を吹いてくる風が本当に涼しいのよ」

リリは珍しそうに風鈴を見上げ、宮本先生はにこにことしてこう言った。

心配いらないわ。


実際、僕らを乗せた車が山道を蛇行しながらどんどん山頂を目指して山道を登り、目的の山荘に到着すると、確かにそこはさっきまで僕らのいた駅の雑踏を抜けて渡る風とは確実に5度程温度差のある『清涼』という名前のとてもよく似合う風の吹く場所だった。もうずっと以前に亡くなったのらしい先生のお父さんの生家であるという古い家の1階の大きな窓からは、周囲をぐるりと取り囲む濃い緑の森、夏空を真っ直ぐに突く杉の大木、遠目に川魚の泳ぐ姿のきらりと光って見える清流の流れ、そういうものがいくつも僕らの目に飛び込んできて、とりたてて何も特徴を持たない中途半端な都会からやってきた僕ら4人はわっと歓声を上げた。



意外なことに、魚釣りや山歩きや虫取り、そういうものに最も力を発揮したのは、都会のコンビニや商店を狩場にしていたタケちゃんだった。

タケちゃんは僕らの暮らすあの街では普段キャバクラで働いているお母さんと1LDKの賃貸マンションで暮らしているのだけれど、一時期、長野県の山奥のひいおじいちゃんとひいおばあちゃんの家で暮らしていた時期があったのだと言う。

「俺、こういうの超得意」

タケちゃんは初日からイワナを素手で捕まえ、夜にはあらかじめ蜜を塗って目印をつけておいたクヌギの木に登りカブトムシを何匹も捕まえてきた。更には蛇とかトカゲとか僕が生まれて初めて見て卒倒しそうになった巨大なウシガエルだってタケちゃんは全然平気らしい、ある日なんか山荘の裏手の茂みに潜んでいたヤマカガシという蛇のクビを掴んで振り回して見せてリリを泣かせ、ペイ君の顔色を蒼白にさせた、当然僕もその場から走って逃げた。

「コイツ、毒があんだぞ、ヤバイやつだからな、おまえらも気をつけろよ」

折角捕まえた蛇に誰も良い反応を示してくれなかったタケちゃんはちょっとつまらなそうにそう言ってそいつを振りかぶって遠くの茂みの中に放り投げて逃がしていた。その時のタケちゃんの表情というのが、普段の黄ばんだ薄紙を一枚顔に張り付けたようなくすんだ顔色のくすんだ表情ではなくて、輪郭の輝くようにはっきりとした、そして澄んだ瞳の色のとても生き生きとした12歳の男の子の顔で、僕はタケちゃんが悠然とヤマカガシを振り回す姿には閉口したけれど、友達が本来の12歳の表情をしているのを見るのは、なんだかとても嬉しかった。

僕は毎日タケちゃんと川に行って泳ぎ、川を縦横無尽に泳ぐ魚を僕は網で、タケちゃんは素手で捕まえ、僕らはどんどん肌が日に焼けて真っ黒な、夏の子どもになっていった。

「僕、泳げません、僕、泳げません」

「ペイ君遠慮すんな、ここは膝くらいしか水深はないんだし、それにペイ君はこん中で一番でかいしゴツイし重いじゃん、こんな緩い流れの川で流されたりするもんかよ、入ろうぜ」

「タケちゃん、ペイ君は知らないことが怖いんだよ」

「分かってるよ、だけど、こんなきれいな川、入らないとか人生損してんぞ」

「損しません、損しません、損しません」

タケちゃんは、川の水は冷たくて透明で気持ちがいいし泳ぐ魚の流線形の鈍色はとにかくキレイなのだから一度くらい足をつけて間近に魚を見てみろよとペイ君の腕をしつこいくらいに引っ張って誘ったけど、ペイ君は自分の知らない世界にはとても慎重で臆病なものでなかなか川の中に入ろうとはしなかった。でもとても食いしん坊で、美味しいものには目のないペイ君は、毎日タケちゃんや僕が川で捕まえて来た魚を宮本先生が用意してくれた七輪と練炭で上手に焼いて何尾も食べていた。

「川の魚は見るのも食べるのも初めて」

ペイ君はそれに近い事を言っていたような気がするけれど、生来の食い意地には勝てなかったらしい。ペイ君はそのひと夏で元々大きな身体が更に大きく育った。

実は僕らは、この夏のこの時まで炭火というものを間近に見たことが無かった。それだから七輪の中で炭火がパチパチと音を立てて赤く燃える様子が心から珍しくて、毎日たとえば宮本先生が「今日は七輪で焼くものがないのよ」と言って笑っても夕方、山荘の裏で火をおこし、4人で炭火の熱気のあがってくるそこを覗き込むようにして飽きずにずうっと眺めていた。

僕の家は僕が小学生になった頃から店の売り上げが急激に伸び、それでタケちゃんの言う通りこの頃はそれなりに裕福だったけれど、でもそれは一家をあげて休みなくせっせと働いて稼いでいるからであって、そうでなくても生ものを扱う商売屋というものは長期の休みがとりにくい。それだから僕は実は家族旅行もキャンプも、その類のことを経験したことがほとんど無い子どもだった。それを赤々と火の燃える七輪の前で僕が話して

「僕、家族旅行とかキャンプとか言ったこと無いなあ、タケちゃんは?」

そう聞いたら

「そういうの、俺に聞くのは罪だと思え」

タケちゃんはそう言ってプイとそっぽを向いてしまったので、僕はそれ以上のことは何も聞けなかった。そしてその隣でパチパチと火の粉の上がるのを嬉しそうに見ていたリリは

「リリ、病院になら住んでたことがあるけど」

それは長期入院をしていたということだろうけれど、リリも宮本先生が言っていた通り、ほとんど遠出だとか旅行はしたことがないらしかった。聞けばリリの父親は何やらとても忙しい仕事をしていて、家にほどんと帰ってこないのだと言う。

ペイ君のことはわからない。そもそも彼には家族がいるのかどうかあの時、そういう個人的なことを僕らはペイ君に聞いたことはなかったし彼から話してくれたこともなかった。多分ペイ君自身、そういうことにはあまり関心が無かったのだと思う。ただ無心に火をおこし続けるだけだった。でもとにかく「楽しいことの経験値」のそれぞれに著しく低い僕らは、炭火の赤々と燃えている様子をじっと見ているだけでなんだかとても楽しかった。

「あたし毎日お魚でいいな」

リリは普段はとても小食で、その上食事にも何だかんだと制限があり、仔ウサギくらいの量しか食事をしないのに、ここに来てからは毎日ご飯をお代わりしていた。

「あたしずっとこの山のお家で先生と、あづ君とタケちゃんとペイ君とみんなで暮らすのがいいな。ここにいれば痛い検査ばっかりの病院もいかなくていいし。あたしママなんか大嫌い、ウソつきだし意地悪だもん」

リリはここに来る直前に母親と酷い喧嘩をして家を出てきたらしい。

リリは生まれつき腎臓の病気で、それはきちんと薬を飲んで食事を制限して節制していれば死に至るような性質ものではないのだけれど、しかしリリの人生と身体の一部としてずっと根気強くつきあっていかないといけない性質のものでもあった。

リリの言う『痛い検査』というのは、背中から長い針を突き刺して体外から直接検体を採るという相当に恐ろしいものらしい。しかしそれはリリの治療のためには絶対に必要なもので、だからリリのママは嫌だと泣きわめくリリを嘘をついて騙してでも絶対に病院に連れて行かなくてはいけなかったし、苦い薬も必ず服用するように厳しく言わなくてはいけなかった。別に意地悪をしている訳ではないんだ、でもリリはそれを頭では理解していても素直に頷くことがまだできなかった。仕方ないよな、リリは僕らには生意気なくらいにちょっと大人びた口をきく女の子ではあったけれどまだ8歳だったんだから。背中から長い針を刺される検査だなんて、僕は今でも考えるだけで背中がずきずきと痛む気がするし、体中の毛がぞわっとする。

僕らが山荘にやってきて月の半分ほどの時間の経ったある日、僕らは夜にそっと山荘を抜け出して4人だけで森に出かけようとリリに提案した。

その数日前、僕とタケちゃんとペイ君は、夜の森の中にカブトムシを採りに行き、でも昼間に仕掛けておいた罠の場所に思ったような獲物がなかったので、普段よりももう少し麓の集落に近い場所まで足を延ばして、そこで沢なのか清水なのか、草むらの中に透明な水のふつふつと溜まる美しい湿地のような場所を見つけた。そこには蛍がふわりふわりと仄かな光を纏って飛び交っていて、僕とペイ君は最初それをちいさなひとだまか幽霊だと思って悲鳴をあげた、僕とペイ君は蛍を見たことがなかったものだから。そうしたらタケちゃんがゲラゲラ笑ってこう言った。

「何びびってんだよ、アレ蛍だよ」

「蛍?」

「蛍です、蛍です、蛍です」

僕らはその森の夜の光景を、クワガタもカブトムシも忘れて暫く見入ってた。それは朝にはしずかに消える、森のちいさな幽霊だった。

それで翌朝の朝食の席でハムエッグを乗せたトーストを食べながら宮本先生にそのことを話すと、先生は

「まあ、素敵な光景を見たのねえ、それは沢のちいさな妖精たちよ」

そう言って僕らに微笑んで、食パンに山盛りイチゴジャムを塗っていたリリは先生の『妖精』という言葉に飛びついた。

「何それあたしも見たい!」

当然だけれど僕の住む街の、セイタカアワダチソウの草むらの中に空き缶や菓子袋のゴミにどこかから盗まれて乗り捨てられた自転車の残骸の澱の貯まる臭い川にはそんなもの生きているどころかうまれることすらない。僕らは、長野の田舎で暮らしたことのあるタケちゃん以外、あの山荘に行くまで夜の森に光る蛍を見たことがなかった。それで僕らはその沢の妖精に興味深々の顔をしていたリリに、秘密の約束をしたのだ。

「じゃあ、行こうか?」



月の灯りがくっきりと僕らの影を山道に残す静かな夜のことだ。その日は満月で、懐中電灯ひとつあればあとは月の光が僕らの行く先をあかるく照らしてくれるだろう。その光を味方にして、いくつもの谷や川の分岐を避けて作られた恐ろしく蛇行した山道をあえて避け、森の中を直線的に貫く川の流れに沿って山を下れば最短距離で麓の近くの沢まで辿り着くことができるはずだと言うのが、その山荘に着いてから毎日川遊びと森の散策を続けてきた僕とタケちゃんの計画だった。

当時の僕らは通信や記録のためのガジェットを一切持ってはいなかったけれど、一番身体が大きくて力が強いペイ君は宮本先生が2日に1回買い出しのために麓の集落に行く時、先生が友人から借りたらしい軽自動車に同乗していて、それのお影で山道の様子だとか麓の集落、特に山を抜けた後に目印になるような建物や風景を詳細に記憶してスケッチブックに残してくれていた。

「森を抜けた場所にぽつんと立つ古くてまあるいポストがゴールだよ」

「いいかリリ、宮本のおばちゃんに『リリも夜中に出かける』って言うとさ、流石のおばちゃんもお前は小さいから連れてくなって言うだろうから、今回は黙っとけ」

「リリ、秘密です。リリ、秘密です。リリ、秘密です」

「わかった!秘密ね!」

リリは普段、年齢と何より体のことがあるので僕達3人とは別行動になることが多く、それをいつもつまらないとこぼしていた。それだからこの『秘密の予定』のことをとても喜んで、僕らとの秘密を決行のその晩までちゃんと守ってくれた。それで僕らはあの日、山荘の古い柱時計が100歳の老人が咳込むような音で深夜0時を告げるのを確認してから4人でそっと山荘を抜け出した。リリは最初から山道を歩かせると下山までに疲れてしまって歩けなくなるどころか体調が悪くなってしまう可能性がある、だから僕らが交代で背負うことにした。

「リリは交代で俺らが背負ってやる、道が比較的なだらかな河原まではあづ、足場の悪い山道を俺、沢に辿りついてからが一番長丁場だからペイ君、頼むわ」

「ねえ、途中で休みながら行く方がよくない?」

「いや一気に降りるぞ、途中で止まらない方がいい」

「リリ、歩けるのに」

「やめとけ、お前はここんとこ、顔の浮腫みが酷いし、昼もちょっと川で遊んだだけで息が上がってただろ、あんまり無理すると余計まん丸い顔になんぞ『本当の可愛いアタシ』がマジでブスになる」

遠慮すんな、いくらひょっちいあづでも一応6年生だぞ。タケちゃんはそう言って、いつもリリが着ているキャラクターもののピンクのパジャマの上から自分の着ていた長袖のシャツを羽織らせ、リリを僕の背中に背負わせた。リリは調子が悪いとすぐに顔が浮腫んでしまって、それがまあるい満月のようになるのだけれど、それ以外は不自然な程に細く、それだから背負うと思いのほか軽かった。



山荘を出て、振り返ることなく沢を目指して森に分け入った僕らのことは、予想通り雲ひとつない満月の夜が味方をしてくれた。月の光が邪魔をして星の光が見えにくいだなんてことがあるんだねと僕が上空を見上げながら誰に言うともなく呟くと、タケちゃんはフンと鼻を鳴らして

「あづって、ホント、都会っ子だよな」

と言った。リリは歩き始めてものの数分でウトウトと僕の背中で眠りはじめていた。僕はリリの体温を背中にじんわりと感じながら、そして一番うしろで歩数をぶつぶつと数えているぺい君の声を聴きながら、タケちゃんと知り合ってからずっと聞きたかったことを思い切って聞いてみた。

「タケちゃんはさ、どうして学校に行ってないの?」

どう見ても大人しくいじめられるようなタマじゃない、それどころか頭が切れてリーダーシップもあるタケちゃんが学校で上手くやれない子どもだとは僕にはとても思えなくて、それがとても不思議だったからだ。でもタケちゃんの答えは僕の予想を遥かに超えたものだった。

「俺さ、存在してない人間なんだよ、いないはずのヤツは学校になんか行けないだろ」

「えっ?」

タケちゃんには戸籍が無いのだそうだ。

当時の僕は社会のシステムというものを、戸籍であるとか住民票とかそういうものがこの世に存在していることを知識として知ってはいたけれど、でも目の前にいるタケちゃんが存在していないという意味は、僕にはすぐに理解できなかった。

「それって何?どういうこと?」

「俺が生まれた時に『生まれましたー』って、誰もそういう届けを役所に出してないんだよ、だから俺は生まれて12年経った今も生まれてないことになってんの」

タケちゃん、平岩尊君という名前の少年は僕の前にその実体を持って存在して息をして生きてはいるのだけれど、この国のシステム上はまったく実態のない、幽霊のような存在なのだそうだ。それはどうしてなのと僕が聞いたらそれは

「なんか俺の母ちゃんが、父ちゃんから逃げてる時に俺が生まれちゃったらしいんだよな、そんでそういう時に役所に届けとか出すのは色々ヤバイんじゃないのって俺の母ちゃんは思ったんだって、それで仕方ないから届けは出さずに俺はすくすく育って、父ちゃんが俺達の前に暫くは現れないぞって確信が持てたって時には俺はもう10歳くらいになってたんだよ、時すでに遅しってヤツ」

それでタケちゃんの出生届けをタケちゃんの母親が出さないまま、すっかり大きくなってしまったタケちゃんを前にして、こういう場合は一体どうするべきなのか誰に相談するのが妥当なのかそういうことは毎日の生活に追われて調べることもないできないまま、今日までタケちゃんはほとんど学校も通わず街をぶらつき時折コンビニで食べ物を調達してある意味自活して生きているということらしい。でもそれって本当なら今すぐ可及的速やかに何とかしないといけないことなんじゃないのだろうか、タケちゃんの母親の考えは僕にはよく理解できなかった、でも更にもうひとつわからなかったのは

「お父さんは今どうしているの?『もう俺たちの前には現れない』って、そんなことどうしてわかるの?」

ということだった。しかしその理由はとても分かりやすくてかつ確実なものだった。

「刑務所にいるからな。人ひとり殺してんだ、だから俺が大人になるまでは出てこない、なんだっけ、高松刑務所だったかな。なら超安心だろ?」

タケちゃんの父親が一体どういう人物で何の仕事をしていて、何がどうしてそんなことになったのか、そこまでのことは流石に僕は聞けなかった、といよりも聞いてはいけないことだと思って聞かなかった。タケちゃんは、どうやらその父親に面立ちがよく似ているらしい。そのせいなのかは分からないけれどとにかくタケちゃんの母親は、出しそびれたままのタケちゃんの出生届のことも、それから派生するいろいろの問題も、普段の生活も、あまつさえその日に食べるものさえ、全てを放置気味にしてその日ぐらしの毎日を積み重ねて今日に至るのだという。

「じゃあ、あづは何で学校に行ってないんだよ、いじめか?それなら、ここから帰ったら俺があづのこといじめてたヤツなんか全員ボコボコにしてやるよ、そういうヤツってホントは相当弱っちいんだぜ、俺が顔面イッパツいったら泣いてお前にすみせんでしたーって土下座すんだろ、まあ俺に任しとけよ」

タケちゃんは、僕に相当なことを打ち明けたはずなのに、そんなことはどうでもいいしなんでもないことだろってそういう顔をして、むしろ僕が今、前に進むことができず、かと言って後ろに戻ることもできない、そういう状況にあることを本気なのか冗談なのか、まあ本気だったんだろうな「そういうのはサクッと拳で解決しようぜ」なんて言って僕のアタマをポンポンと叩いた。

僕はタケちゃんの「なんで」にこの時、うまく答えられなかった。

真夜中の森の中は月の光と、タケちゃんが山荘からこっそり持ち出した懐中電灯の直線的な光だけがそこにあって、あとは虫の声だけが清かに響いていた、リリはすうすう静かな寝息をたてて眠ってしまったままで、森の奥に分け入ってからはタケちゃんがおんぶを変わってくれたけれど、タケちゃんもやっぱり

「なんだこりゃすげえ軽いな、2年生の子ってこんなもん?」

僕と同じことを思ったみたいだった。背中にいる時のリリの呼吸は眠っているはずなのに走ったすぐ後のようにやや荒く、苦しそうに感じられた。熱があるのかもしれない、もしかしたら苦しいのかも、そう思うと僕はひどく心配になった。体の弱い子どもを死なせずに大きくなるまで無事に育てるって、きっとすごく大変なことなのだろう。

「蛍です、キレイです、蛍です、キレイです」

ペイ君が突然そう言って指さした先、僕らが以前も蛍を見かけた沢の方向を見るとそこには無数の小さな光がふわふわと行き場のない夏の幽霊のようにして彷徨っていた。僕はタケちゃんの背中で眠っていたリリをゆり起こした。リリ、ほら、蛍だよと言って。

「えっ?ホント?どこ?」

「ほら、あそこ、ちいさくて白い光がいくつもあるだろ」

「あれ?ホントだ、すごい、きれいだねえ…」

リリはするりとタケちゃんの背中から降りて、ため息とともに暫くただぼんやりと蛍に見入っていたのだけれど、山の上からふわりと夏草の香りのする風が吹き抜けて蛍の弱い光が点滅し、それがふっと消えた瞬間

「お家に帰りたい」

何かのスイッチが入ったようにして泣き出してしまった。お母さんに会いたい、喧嘩してきちゃったけど、お母さんにバカって言ってきちゃったけど、お母さんに会いたいと言って。そうなんだ、思えばこの半月、僕らは親と連絡をとっていなかった。いくらこの旅行の出がけに母親と喧嘩をしたのだとは言えリリはまだ8歳だ、心細くなったのだろう。僕はリリの柔らかな髪の毛をそっと撫でて

「大丈夫だよ、下に降りたらすぐリリのお家に電話をしよう、ね?」

そう言った。ペイ君はリリが泣き出した事に酷く狼狽して目を白黒させて体を左右に揺らし、タケちゃんは頭をボリボリ掻いて丁度僕らの頭上、一番高い場所に登ってさやさやと輝いている月をただ見ていた。あとから聞いたらタケちゃんはこういう時、女の子に一体どんな言葉をかけたらいいのか全然、皆目わからなくて本気で困っていたのだそうだ。

僕らは「お母さん」と言って泣き続けるリリをなだめ、最終走者のペイ君の背中にリリをよいしょと乗せて沢のその先を目指してまた歩き出した。蛍の沢を抜けて山の入り口の遊歩道にある古い郵便ポストに辿り着き、それから更にその少し先のペイ君のスケッチブックにあった里山の集落に入って一番最初の所にある黒板塀と屋敷林にぐるりと囲まれた大きな家を見つけると、僕らはその家の門を深呼吸をしてから強く叩いた。

真っ暗な山の中から全く土地のものではない子どもが4人、開けてくださいと扉を叩く音に、家の中の灯りパッパッとがいくつか灯り、それからしばらく大人のくぐもったような声の聞こえた後、おじいさんがひとり、門の隙間を覗くようにして出てきてくれた

「あんたらどうしたがや、お父ちゃんやとかお母ちゃんは?」

おじいさんはその土地の訛りで僕らにまずこう尋ねた。時間は午前1時、僕らが家出少年だったとしてもそこは駅からも県道からも遠い村のはずれだったし、子ども自体この過疎地の村にはいたのかどうか、もしかしたら幽霊か妖怪の類だと思われていたのかもしれない。タケちゃんは門扉がほんの少し開いた瞬間、反射的にそこの隙間に足を突っ込んで扉が閉まるのを阻止し、僕はお腹から声をだしてはっきりとこう言った。

「助けてください!」


 

僕らは、そのまま警察に保護された。

こういう時、僕らがただの夜の森の迷子であるのなら、そこの地区の駐在所の警察官が飛んでくるものなのかもしれない。けれど子どもが4人、山の中から夜中に突然迷い込んできたという通報を受けて現場に駆けつけたのは何台ものパトカーと救急車、そして県警の刑事だと名乗るおじさん達だった。

僕とタケちゃんとペイ君は、夜中に赤いパトランプをちかちかとさせながらやって来たおじさん達にまずは年齢と氏名、それから生年月日を聞かれた、あとは僕らの関係。でも僕らはそれよりもまずリリを病院に運んでほしいと、そのことを一番におじさん達に必死になって訴えた。

「この子は病気で、本来は毎日飲まないといけない薬をずっと飲んでいません、名前は上野莉々子、8歳、急いでください」

それを聞いてペイ君の背中に張り付いていたリリの顔を見たおじさん達は、リリの顔が不自然に浅黒く浮腫んでいるのを見てこれを即病院搬送と判断し、リリはそのままパトカーと一緒にやって来た救急車に乗せられて病院に搬送されることになった。リリはどうして私だけ病院なの、先生のお家には戻らないのと言って泣いていたけれど、自分が救急車に同乗するからとリリに付き添ってくれた警察の女の人が

「大丈夫よ、莉々子ちゃんのお父さんとお母さんに連絡が取れたからね、朝にはここに来られますからって、それまで私と病院で待ってようね?」

そう言ってくれたのでリリは少しだけ落ち着き

「みんなもあとからくるの?」

それでも不安そうな顔をしてそう聞いた。

「あとから行くよ、だからリリは先に病院に行きな」

僕らは笑顔でそう答えてリリをその麓の屋敷から見送った。リリは最後まで僕らがどうしてリリを夜中にあの山荘から連れ出したのか、何故目的地だった麓の古いポストを通り過ぎて知らない人の家の門を叩いたのか、それを何も知らないままその村から車で1時間程の救急病院に搬送され、そこに検査と休養のために数日入院した後、迎えに来ていた両親と共に自宅に帰って行った。僕とタケちゃんはリリを乗せた救急車に同乗した警察の腕を引っ張って車外に一度出て貰い

「リリは何も知らないし分かっていないんです、蛍を見に沢に行こうって、そう言って連れ出してきたんです。何も知らせないでください、何も教えないでください、救急車のサイレンもできたら鳴らさないで」

そう言って必死に頼んだので、僕らの願いの通り、リリは何も知らされないまま、リリを乗せた救急車は月明かりの里山の道を静かに、僕らの元から走り去っていった。

リリは最後まで、自分達はただ楽しい夏の旅行に来ていて、蛍を見に出かけてたまたま自分の体の具合が悪くなり、それで自分だけが家に帰ることになったのだと思い込んで帰宅したと、そのあと何度か僕の家に話を聞きに来た警察の人から聞いて僕は心から安堵した。

僕らは仲間の中で一番小さくて一番弱いリリを、ちゃんと守ったんだ。

 

 

 

最初に、縫い針の穴ほどのほんの小さな違和感に気が付いたのは繊細なペイ君だった。

細かな家事や毎日のルーチンワークを漏れることなく、手順を間違うこと無くこなすことを得手としていたペイ君はあの夏、山荘の中にある全部のごみ箱のごみを分別し、瓶や缶はリサイクル回収用の箱に、可燃ごみはそれ専用の大きなゴミ箱に集めて裏の焼却炉のある場所に置くことを自分の仕事と決めて、毎日それはマメにゴミの回収をしていた。ある日、ペイ君は回収したごみをいつもの場所に置き、ふと覗いた焼却炉の中にリリの薬がそれをまとめて入れてある紙袋ごと放り込んであるのを見つけた。

ペイ君は「毎日しなくてはいけないこと」へのこだわりがとても強い、それは自分以外の人間のことでもそうだ。ペイ君は焼却炉の中に「リリが毎日飲まないといけないはずの薬」が丸ごと放りこまれていることで脳がバグを起こした。ペイ君は毎日しなくてはいけないことがひとつ飛ぶとそれだけで酷く混乱して自分を傷つけてしまうことがある。

「これは、リリの薬です。リリの薬です。リリの薬です!」

そう言って山荘の裏で混乱して自分の頭をボコボコと叩くペイ君をみつけた僕はペイ君を大丈夫だよと言って彼をなだめ、ペイくんの足元にリリの薬が散らばっているのを見たタケちゃんはその時キッチンで夕飯の準備をしていた宮本先生の元に行き、先生の背後で一度深呼吸をしてから静かに、こう尋ねたらしい

「なあおばさん、リリの薬って毎日絶対飲まないといけないモンなんじゃないの」

それを聞かれた宮本先生は

「ああ、それは、いいのよ」

とだけ答えのだそうだ、その時の先生の瞳の色が

「なんかどこも見てない、焦点の合ってない感じっていうのかさ、ブラックホールみたいに真っ黒なんだよ、アレはヤバイやつの目だぞ、絶対やばい」

そもそもだけどあの人って本当は何なんだよ、ただ金持ちで異様なくらい親切なおばさんなんだって思ってたけど。

タケちゃんの訴えを聞いた僕は最初「タケちゃんて意外と大げさだなあ」と思ったけれど、思えば僕も宮本先生のことは祖父が本店を駅前のビルからあの楓町の一角に移した同時期に隣の古い洋館に越して来た人だということ以外はほとんど何も知らなかった。小学校の教師だったという過去も、資産家のひとり娘だという噂も、それらはすべて「らしい」と言う伝聞の情報だけで、大体それは一体誰が言ったことだったのか、考えてみても僕にはひとつも思い出せなかった。

そう思ってみると、あの夏の山荘での生活はパズルのピースはかみ合わない事ばかりだった。僕らは宮本先生から『親に電話をしなくていい』と言われて、その代わり手紙を出しなさいと3日に空けず自宅宛てに葉書を書かされていたけれど、それの返事はひとつも返ってきていなかった。僕の母は商売をしている関係で手紙のやりとりをすることがとても多くて、それだから時候の挨拶もお礼状もいつもとてもまめに書いては出す人だったにも関わらずだ。それに麓の村への買い出しに先生は絶対に僕とタケちゃんを同行しなかった。それは僕らがペイ君とは違って大人と意思疎通が図れる子どもで、リリよりも確実に力のある12歳の少年だったからだ。

そして僕らの親には、僕らは富山ではなく、葉山にいると伝えてあったのらしい。それも旅行の予定は1週間。あらかじめ知らされていた宮本先生の携帯電話も貸別荘だという場所の電話番号も全く不通状態で、僕の両親とリリの両親からは僕らが出発してから1週間後に捜索願が出されていた。



僕が無事に発見されたという連絡を受けて、深夜の高速道路を飛ばして来た僕の両親は、警察署に身柄を移された僕の顔を見るなり何も言わずに泣き崩れた。特に母は一人息子の僕が行方不明になっていたことに加えて、家庭の問題をいろいろと包み隠さずに相談するほど心を許していた隣人であり友人である人から裏切られたという事実に酷く憔悴していた。僕は母が子どもみたいに肩を震わせて泣く姿を見て本当にどうしていいのかわからなくて、何を言っていいのかわからなくて、ただ天井をじっと見つめていたのだけれど、父が「怪我とか、痛いところはないか」と聞いてくれた時にひとことだけ

「ごめんね」

そう絞り出すようにして言葉にすることができた。そうしたら父もまた天井を見上げて

「なんで梓が謝るんだ、梓のせいじゃない、ホントに無事でよかった」

そう言ってくれたけれど、僕がちゃんと学校にさえ行けていたら、お母さんをこんなに心配をさせるようなことにはならなかったんだよ、お父さん。

翌日の午後には、僕らは簡単な事情聴取を終えて、それぞれの場所にそれぞれが戻ることになった。

身寄りがない子なのかと思っていたペイ君には実はちゃんと両親がいて、聴取の終わったペイ君は迎えの車に乗せられて自宅に帰っていった。ペイ君を迎えに来たのはペイ君に面差しのよく似た大柄なお父さんと、ちょっとふっくらとして優しそうなお母さん。普通のというよりはむしろとても温厚そうな2人だった、ペイ君の母親が彼の手を引く様子も、父親が車のドアを開けてやる様子も、特に何も問題のない仲の良い親子のようにしか見えなかった。それがどうしてペイ君を全く他人であるはずの宮本先生に預けていたのか、僕にはそれはひとつも分からなかった。

「いろいろと事情があるのよ」

ペイ君の両親と少しだけ話をしていた母は僕にそう言った。

一方タケちゃんは、警察の人がタケちゃんの母親の携帯に何度電話しても、それならと県警から要請を受けた僕らの地元の警察がタケちゃんから聞いた住所を尋ねてもそこはもぬけの殻で全く母親と連絡とは取れず、結局誰もタケちゃんのことを迎えには来なかった。

そもそもタケちゃんが名乗る『平岩尊』という人物がどこにも存在していない以上、タケちゃんが自分の母親だと主張する平岩咲子と言う人もその平岩尊という少年の保護者であるという証拠がどこにもないということになってしまったのだった。結局『平岩尊』と名乗る12歳の少年はどこにも存在の証拠のない、実態のない身元不明住所不定の少年として警察から連絡を受けた児童相談所の大人に連れていかれることになった。この先はタケちゃんのような子の沢山いる、しかるべき施設で暮らすことになるのだろうと、それを僕は帰りの車の中で父から聞いた。

「また会えるよね」

「多分な」

それがあの夏、僕らが最後に交わした会話だ。

「たった8歳かそこらであんだけの目にあって、その後すくすく育って普通に大人になって、普通に結婚して普通の家庭ってもんに夢見て生きられんだなあと思うとニンゲンて頼もしいというか、学ばねえというのか、リリは幸せになるよ、なあ、あづ」

「タケちゃん、結婚式なんだから黒いスーツに黒いネクタイはさあ…普通は白のネクタイだよ、それだとお葬式じゃん」

「俺、お育ちが悪すぎてそういうのはよく分かんねえ、あづとかリリとは根本的に違うんだよ、アイツこんなとこで結婚式に披露宴とか、超お嬢様じゃねえか、それなのになんであんな事件に巻き込まれたんだろな」

「リリはあの夏のこと、僕らと夏山で遊んだってこと意外はあんまりよく覚えてないらしいよ、どころかもしかしたら夢だったのかもって思ってたんだって。むしろ大人になった最近になっていろいろ思い出したって言ってた。あの時僕らが誘拐されてたってことは完全に非公開で操作されていたことだったし、実際に報道されたのは『身元不明の女性が富山県の山中で自殺した』ってそれだけだっただろ。リリにはただ夏にどこか田舎の山荘でお兄ちゃん達と遊んで、蛍の森を見たんだって、そういう夢みたいな記憶しかなかったみたいだ、僕らはリリを守れたんだよ」

 

 

あの時、再び会うことを誓って別れた僕らが再会できたのは、それから16年後のことだった。

随分時間がかかってしまった。それは当然と言えば当然のことで、そもそも戸籍のないまま出生後12年間も幽霊のようにして生きていたタケちゃんがその後も平岩尊という名前で生きているのかまずそれが一切分からなかったし、地域との関わりの一切ない、学校にも通っていなかった子どもなんて仮に大金を投じて探偵を雇ったとしても、ヒントが無さすぎて探しようがなかったのじゃないかと思う。

そのタケちゃんを探す糸口をくれたのはあのペイ君だった。ペイ君もあの後一体どうしたのかひとつも分からないままだった、ペイ君もまたタケちゃんのようにその行方を探そうにも僕は彼の手がかりというものをほとんど持っていなかった。大体ペイ君は自分のことをペイ君としか名乗らなかったもので、僕はペイ君の本当の名前を知らなかったのだ。それは僕が自宅に戻って数日してから気が付いたことだった。

それならもう探しようがない、さよならだけが人生だ。

12歳でそんな人生の理を身に染みて知ってしまった僕はその後、別の学区の小学校に転校して普通の小学生として普通の子どもを見様見真似で擬態して学校という箱の中をやり過ごし、時々過去のトラウマに躓きながらそれでも何とか大人になることができた。いま僕は実家の店で毎日ジェノワーズを焼いて、クリームを絞り、フルーツをグラサージュして、そういうことをして暮らしている。

そうして、あの夏のことは時間の経過とともに記憶から消し去ることも意図して忘れることもできないまま、リリもペイ君もタケちゃんも皆一体どうしているのだろうと、12歳の自分の傷を抱えて生きていた僕はある日、職場である店の休憩室で、昼食を食べながらぼんやりと見るともなくお昼のニュースをテレビで見ていた時に酷く懐かしい声を聞くことになる。

「お上手です、お上手です、お上手です」

それは、ペイ君の癖のオウム返しの言葉だった。

記憶の中の声が突然現実の音声として流れて来ると人は相当に混乱するものだ、僕は飲んでいた缶コーヒーを間違って気管に流し込み、むせてパイプ椅子からころげ落ちた。同僚というか、製菓製造のパートに来てくれている近所のお母さん達が驚いてどうしたの大丈夫と駆け寄ってきてくれたけれど、僕はこの時ちょっとそれどころではなかった、棚の上に置かれた小さなテレビの中にペイ君が16年前のあの夏とそう変わらない面立ちでそしてややかしこまった表情で堂々インタビューを受けていたのだから。

僕は慌てて画面に映し出されているテロップを見て画面のその人の名前を確認した 『村瀬鉄平』。

ペイ君だ。僕はコーヒーでびしょびしょになった顔をぬぐう事もしないでその人の名前をスマホで検索した。ニュース画面はすぐに別の映像に切り替わり、今日の午後からの天気を画面に映し始めたのでペイ君が一体何故ニュースに出ていたのかはよくわからなかったけれど、とにかくテレビに出ているのだ、何かしたのだろう、良いことか悪いことかそれは調べたらすぐにわかることだ。

「村瀬鉄平、あ、あった」

『1994年 東京都府中市に生まれる
2歳で自閉症スペクトラムの診断を受ける
2011年 パリ国際ドローイング展入選
現在gallery Le Déco にて個展を開催中 』

ペイ君は今、本物の画家になったのらしい。スマホで検索して一番最初にヒットしたそのホームページは外注されたデザイナーによるなかなか凝った、所謂きちんと資本投下されてそれを回収できている類のもので、ペイ君は今あの時に描いていた繊細過ぎるほどに繊細で写真を越える程に写実的でその場所の空気と香りさえ感じることのできる水彩画を武器にして生きているらしい。

僕はため息が出た。

「梓君大丈夫?どうしたの?コーヒー、ヘンなとこに入った?」

僕はコーヒーまみれの顔を事務のパートの東さんが慌てて持って来てくれたタオルを受け取って拭きながらそれでも

「いえあの、昔の知り合いがテレビにそれがあの絵描きで、それで、あの、はい、すみません」

かなり支離滅裂なことを答えて東さんに僕が頭を打ったのではないかと心配されてしまった。僕は頭は打たなかったけれど、それよりもっと強い衝撃の中にあって、スマホの画面に提示されたペイ君の情報を何度も目で追っていた。衝撃が強すぎて文字が上手く読めなかった。それでも何とか画面を音読して僕の勤め先のこの店から在来線1本でたどり着ける場所で今、ペイ君が個展をやっているのが分かった、それの宣伝のためのテレビ出演だったんだ。

その日、僕は退勤してから転がるようにして店を飛び出し、電車に乗って1時間程の場所にあるペイ君の個展を開催しているギャラリーに向ったのだけれど、ペイ君は不在だった。代わりにペイ君のマネージメントをしているという男の人が出て来てくれたので、その人に

「僕、えっと村瀬さん…の古い友人なんです」

と言うと、彼はやや訝しそうな顔をして僕を上から下までじっと眺めてから

「それでしたら、弟にその旨を伝えますので、芳名帳にお名前と連絡先を書いていただけますか」

そう言われた。その人は「自分は村瀬の兄でアートディレクターをしております」と名乗ってから僕に、不思議なデザインのジャケットから出した不思議なデザインの名刺入れの中から一枚、なんだか妙に凝った名刺をくれた。それで言われた通り紐とじの芳名帳に名前と住所を記した僕は、そのページの先頭に『上野莉々子』という名前を見つけることになる。

あれは、偶然だったんだろうか。

 

 

 

「だからってそれでよく俺の居所がわかったよな、俺今『平岩』って名前じゃないんだぜ、お前すげえよ、一体ナニモンなんだよ」

「僕はただのパティシエだよ。これはホントに偶然なんだ、だって僕もリリのお父さんが警察のえらい人だなんて全然知らなかったし、それで戸籍さえ持ってなくて途中で改姓頭下げに来ちゃうって何なんだよ、自分はこういう者ですってリリの父ちゃんから名刺貰った時、こんな重たい身分の人が一体なにしてんスか、どうしたんスかって、俺ちょっと笑っちゃったよ」

「リリがペイ君の個展を知って、もしかしてってそこに出かけてペイに再会したその日の夜に、リリがパパに僕とタケちゃんの事を『草の根分けても探し出して』って頼んだんだって。リリはあの夏のことをずっと夢だと思ってたけどやっぱり現実だったんだって確信して、僕らにもう一度会いたいって思ったんだってさ。それでも僕はホラ、ペイ君の個展が縁でリリのパパに捜索される前にリリと再会できたし、そうじゃなくてもああいうケーキ屋…商売屋の息子だからすぐに居所が知れただろうけど、タケちゃんは色々事情がややこしすぎて難航したんだって、でも『タケちゃんが探せないなら、パパなんか結婚式に来なくていい』ってリリが言い続けたらしい」

「脅しかよ、あいつ、ひでえな」

「一人娘だしね。リリが言うには、パパは自分に負い目があるんだってよ」

「まあそうだろな、病気の娘を嫁さんに全部任して放ったらかしにして家に何カ月も帰らないでせっせと事件を追い続けてて、久しぶりに家に帰ったら娘が知らないおばちゃんに誘拐されちゃってたんだもんな、警察官としては相当不名誉だったんだろうし、なにより父親失格だと思ったんだろ、無理もねえよ」

あの夏からリリは、毎日きちんと薬を飲み、痛い検査に耐え、食事制限をして病気とうまくやっていこうと母親と一緒に努力をするようになったのだそうだ。そうやって今、浮腫みも肌の黒ずみもほとんど無くなったリリは、当時の黒目がちの大きな瞳にその面影を残すちょっと綺麗な大人の女の人になっていた。24歳で結婚するというのは今の時代では早いのかそうでもないのか、16年ぶりに再会したリリは今日花嫁になって、それでどうしても結婚式に出席してほしいと父親まで使ってこの場に呼んだタケちゃんが、真っ黒なスーツに金髪にサングラスという、道行く人が本能的に避けてしまう類のいで立ちでホテルの披露宴待合にやってきた瞬間、真っ白なシルクサテンのドレスを翻してタケちゃんに抱き着き、タケちゃんを慌てさせた。

「リリ、何してんだ嫁入り前の娘が、オイ」

「タケちゃん、リリは今日結婚するんだよ」

「リリ、結婚です。リリ、結婚です」

「タケちゃん、あづ君、ペイ君、みんな来てくれてありがとう、会いたかった!」

タケちゃんは今「金融関係」の仕事をしていると言っていたけれど、僕はその辺には深く触れなかった、タケちゃんは計算が物凄く速かったので、とにかくそういう人生選択をしたのだろう。タケちゃんがあの後どういう足取りでどんな道路を辿って今、大人になったのかは、僕には想像できてもちょっと聞く事ができなかった。ただ、チャペルでの式のあとの披露宴までの待ち時間に

「あづ、俺ちょっとコレ」

そう言ってタバコを吸う仕草をしたタケちゃんに付き合って入ったガラス張りのホテルの喫煙室でネクタイは外した方がいいのかとまだブツブツ言っているタケちゃんが

「あれから16年経ってリリは真っ当な大人になったんだな、今何やってんだっけアイツ公務員?教師だっけ?すげえよなあ。俺の16年間なんて感動秘話も何もねえ、本気で碌なもんじゃねえぞ、まあ生きて大人にはなったけどさ。お前もそれなりに大変だったろ、俺はあん時死ななくてよかったなって今も思ってるけど、あづ、お前は?」

タバコの煙を吐き出しながら一息にそう言ってタバコを咥えたままニヤッと笑ったので、そうだねと言ってタケちゃんに貰ったタバコをぎこちなく咥えた僕もちょっとだけ笑った。

 

 

僕らが保護されたあと、僕とタケちゃんの証言と、それからペイ君の手による何枚ものスケッチで山荘の場所は直ぐに特定された。それで夜明けを待って山荘を尋ねた捜査員と駐在署の警察官達は、呼び鈴を何度鳴らしても全く出てこない山荘の主を手分けして捜索し、やがて山荘から少し離れた森の茂みの中で発見されたのが、ガムテープでしっかりと目張りをした軽自動車の中で眠るようにして亡くなっている宮本先生だった。先生の傍らには僕らが何度も火を起こして飽かず見入っていた、あの七輪が置かれていた。

宮本先生は既に体のあちこちに転移の見られる発生源不明の群発性のがんで、それは既に投薬での治療や外科的治療の余地のほぼ残されていないものだったらしい。それで自分は自分の人生の終着駅を自らの意思で決めたのですと、山荘の中に、宮本先生の美しい楷書体の文字で遺書が残されていた。そして、そこには僕ら一人一人のことがそれぞれにこう書かれていた。

莉々子ちゃんは病気で生まれてとても不幸です
尊君は両親に愛されずに生まれて育ちとても不幸です
鉄平君は障害のあることがとても不幸です
梓君はいやらしい大人に汚されてしまってとても不幸です

 皆こんな酷い世界に生まれてきて可哀想です、いろいろが不足して欠けている子ども達というのは、今のこの歪んだ世界では存在すること自体が苦役で罰なのです。

自分も含めた皆が、生まれてこなければこんな苦しみはなかったのに。

宮本先生はその『可哀想な子ども達』と一緒にその夏の終わりを待って、あの山荘で子ども達と共に死ぬつもりだったらしい。

僕らはそれの決行の日の直前に、ほんの少しの異変を感じて、リリを守るためにそこから逃げた。



ところで僕が当時在籍していた小学校では、僕らの誘拐事件のあった年の夏休みの間にひとり、教員が強制わいせつの容疑で逮捕され懲戒免職処分になっている。

それは僕が5年生の時に担任だった男性教諭だった。その後の捜査でその人の自宅から押収されたパソコンからは、小学校の中で盗撮したらしい水着や下着姿の子どもたちの写真であるとか、それから実際に生徒にいたずらをしている現場を固定カメラで撮影したおびただしい量の画像と動画が発見され、その中には小学5年生の僕の姿もあった。

僕はその人の被害者のひとりであることを自分の口から両親には決して言うことができなかった。でもどうしてなのか宮本先生に僕はそれを言うことができたのだ。それで自分の魂は、あの人のせいでずたずたになってねとねととした汚いもので汚されていてそれは修復不可能で、この先、終生、自分の何もかもを生ごみのようなものとして捨て去りたい気持ちから逃げられそうにないと、それに近いことをもっと率直で明確な言葉で先生に伝えていた。自分の体や性器を舐めまわして、体の穴という穴に色々なものを、もう言葉にもしたくないけれどそういうものを突っ込んで来る時の担任教師の表情や目やあの時の息づかいや感覚を自分ではぬぐってもぬぐってもきっとこの先一生、忘れることができない

「死にたい」と。

それがあの旅行のすこし前のことだ、もしかしたら宮本先生がもう手の施しようのなくなったいくつもの病巣と共にずっと抱えていた死というものへの願望と憧れに最後の一押しをしたのは他の誰でもない、僕なのかもしれない。

 


 

「あの山荘から逃げた晩にさ、タケちゃんが僕に『じゃあさ、あづは何で学校に行ってないんだよ、いじめか?』って聞いただろ、僕あの質問にちゃんと答えなかったけど、僕はさ」

「いや今更その話はいいよ、あの後、大体察しがついた。俺、超絶に学はないけど勘は滅茶苦茶いいんだ、むしろそれだけで生きてるフシがあるっていうかな」

そろそろ行くかと言ってすっかり短くなったタバコを口元から離し、僕が言いかけた言葉をタケちゃんは遮った。

「俺な、あの後、あそこに結構長い事留め置かれたんだよ、どこを引き取り先にするかってそれが全然決まんなかったんだろうな、母ちゃんも行方不明になってそれっきりだったし。そんで向こうの警察の人間にこいつは保護者もいないし、精神的にタフそうだし大丈夫だろって思われたんだろ、何度も現場検証に付き合わされたし、遺留品とかその手のものも沢山見せられたんだよ、だからさ、あの…宮本のおばちゃんの遺書も見た」

「…そっか」

「オマエが生きててくれてよかったよ」

「…うん」

「まだ辛いか?」

「…うん」

「でも死んだりすんなよ」

「うん…僕たちは、別に不幸じゃないよね」

「だろ。俺なんかあの後、生まれて無かったはずなのにちゃんと生まれた事にしてもらったんだぞ、すげー面倒な諸手続きを経て、かと言ってその後あんまりまともな人生は、送ってないけどな、それでもさ」

タケちゃんがそう言って笑ったので僕も無理に笑った。そうしたらガラス張りの喫煙室の外側でペイ君がトントンと透明の壁を叩いて僕らを呼んだ

「新郎新婦、入場です。新郎新婦、入場です」

「あづ、そろそろ行くか、俺達の中で一番まともで幸せなお育ちのお嬢様が本日の花嫁としてご入場だぞ」

僕とタケちゃんは昔から時間にとても細かいペイ君に促されて立ち上がった。日曜の大安だ。夏の終わりの暦が秋に向かうバンケットのロビーは僕らとよく似た礼服やスーツの、そういう格好をした人間で一杯だった。ここにいる僕らはそれぞれに存在の理由と問題と希望をかかえてここに生きている。

宮本先生は僕らを『生きているのが可哀想な子』だと言った。

実際、僕は今でもあの当時の傷が治り切らない生乾きのままで時折、生きていること自体がとても苦しい。僕はあれ以来人の体に触ることも触られることも怖くなってしまったし、リリのように普通の結婚は、一生しないだろう。それでも宮本先生のあの遺書を思い出す度、僕は脳内でいつも繰り返し強く反論する。

僕らは汚されていてもここに存在していいのだ。
僕らは誰に愛されずともここに存在していいのだ
僕らは健やかでなくともここに存在していいのだ
僕らは何が欠けていてももここに存在していいのだ

この閉塞した惑星に僕達は存在していていいのだ、誰に許されなくても。

「あづ君、タケちゃん、ペイ君、早く!」

ペイ君に急かされて、披露宴会場のアールデコ調の螺旋階段を上がって来た僕らを、あの夏とおんなじ笑顔で声で、今度はリリが急かした。僕はリリの僕らを呼ぶ声があんまりにも昔と変わらなくて、なんだかとても嬉しくなった。

僕は、誰に許されなくてもいい。

「いま行く」

僕らはあの夏とおんなじ笑顔の女の子に、大きく手を振った。

 

 

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きなこ
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