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短編小説:おかえり、ノエミ(短編集・詩を書く3)

今日願い明日も願いあさっても願い未来は変わってゆくさ

『滑走路』 萩原慎一郎

15歳の頃のノエミは、その存在それ自体がある日突然南の海上から上陸して何もかもをなぎ倒していく台風のように、とにかく圧倒的だった。

それはその時にノエミと同じ15歳だった私が内側にため込んでいた虚無であるとか厭世感であるとか、私の人生にあの時起きていた色々な不幸と災難とそこから派生した色々、とにかくすべてをひどくくだらなくて意味のないものに一瞬にして変えてしまう力があった。

それくらいノエミは美しかった。

春に芽吹くその年最初の桜のように清廉な

密やかな森の奥に湧く清水のように透明な

ノエミはそういう子だった


かつて私とノエミが通っていたのは旧制の女学校が前身の公立高校で、そのせいなのか校舎が矢鱈と古く、そして設備の高さや幅が全て戦前のものが基準になっているのか天井が妙に低くてトイレの個室が変に狭く、その古臭い校舎の中にぎゅうぎゅうに詰め込まれている生徒はと言えば、皆明るい髪色にスカート丈がパンツすれすれに短くて、毎日とりあえず化粧ポーチと財布と携帯を放り込んだ紺か黒のスクールバッグを持ってくる子はまだ良い方で、下手をすると携帯だけ片手に持って登校してくる。そういう子が多勢を占める学校だった。

自由と、放埓の公立女子高校。

本当なら私はこんな田舎の動物園じみた公立高校ではなくて、東京の私立高校に通うはずだった。制服だって出来上がってクロゼットに掛けられていたし学校指定のカバンも靴も全て手元に届いていた。そもそも私の通う予定だった高校は中高一貫校で、私は中学受験をして中学からそこに通っていたので中学3年生の後半にはすっかり高校入学の準備は揃っていた、準備万端だった。

それなのに高校の入学準備がすっかり整っていたその年の2月、父が職場で虚偽の経費を申請してそれを自分の権限で決済し、そのお金を別の部下の自分の口座に放り込む、平たく言うと業務上横領に手を染めて、その片棒を担いでいた同僚と行方をくらますという事件を起こしてしまった。

2月のしんとした寒い晩、父が何の連絡もないまま朝まで自宅に帰らず、母が何度父の携帯に電話をかけても連絡がつかず、それで心配した母が始業時間を待って父の職場に電話をすると、そこは丁度父の不正が発覚した直後で上を下への大騒ぎの真っ最中だった。その時、丁度英語の授業中で母の電話で自宅に呼び戻された私は、そんな低予算の2時間ドラマみたいなことが自分の人生にも起こりうるのかと思ったのだけれど、実際それが自分の身の上におこってしまうと意外に落ち着いていて、刑事2課を名乗る背広のおじさん達がぞろぞろとやって来て父の持ち物を段ボールに詰めて持ち帰っていっても、なんだかそれを他人ごとみたいにぼんやりと眺めている自分がいて、どちらかと言うとそちらの方に驚いていた。

父は真面目で優しくて誰にでも感じが良いタイプの、会う人が皆「良いお父さんね」という類の人間で、母もその事件があるまで父がそんなことをする人間だなんて夢にも思っていなかったらしい。でも私は何となく普段の父の他人への、というよりは私や母への『優しさ』というものが

「だってお前らは女だろ」

そういう上から目線の上滑りしたやや嘘くさいものだということに小学生の頃から何となく気付いていた。例えば私が中学受験して私立の中学に行きたいと言った時、私が家から少し遠い中高一貫の共学校が第一志望だと伝えたら、母はそれならお母さんも応援するから頑張ってと言ってくれたけれど、父は

「同じお金を出すんなら、すぐそこの制服の可愛い女子校がいいのじゃないか、ホラ設備も綺麗だ。玲は女の子なんだしそんな無理に頑張ることないだろ」

女の子は皆、可愛らしいチェック柄のスカートを好み、きれいなカフェテリアがあってメニューにケーキのある学校を喜ぶはずだろうと主張して私が第一志望だと言った学校を

「ちょっと理想が高すぎだろ、一体将来何になるつもりなんだろうなあ、うちの娘は」

そんな風に言って笑い、それを見て私が「何故女の子だから努力しなくていいと思うのだろう」と不思議にそして何故だか少し腹立たしく思ったのが最初だった。でも私が第一志望にしていた共学校を受けて無事合格した時、父は自分が「そんな無理に頑張ることないだろ」なんて言っていたことはすっかり忘れて、東北に住む父の両親に直ぐに電話をかけて、娘の私が自分に似て優秀だと随分自慢していた。そういう、すこしイヤな調子の良さのある人だった。

父の起こした事件は父の職業が国家公務員だったということもあって、世間の風当たりが予想外に強く、全国ニュースにもなったし週刊誌にも取り上げられて、家族である私と母は記者に付け回されることになった。そうなると近所の目は厳しく、私はクラスでハブられて、卒業式にも学校側から「ここはひとつ遠慮してくれないか」という要請もあって、出席することができなかった。

そして父と一緒に逃げていた共犯の部下というのが実は父の不倫相手だったこともあって、母は父が逮捕された段階で離婚を決意したのだけれど、もともと地方の短大を卒業した後にほんの少しの親戚の会社に務めただけで直ぐに知人の紹介で知り合った父と結婚し、その後は週に2日程フラワーアレンジメント教室の講師のアシスタントという、仕事と趣味の間のようなことしかしてこなかった母が、東京でそれなりにお金のかかる私立高校に通う娘をひとりで育てていくのは難しかった。

しかも私達がその時住んでいたのは公務員家族のための官舎だったものだから、新聞沙汰になるような不正を働いて挙句懲戒免職処分になった人間の家族である私達など、可及的速やかにそこから退去しなくてはいけなかった。

そうして父の逮捕だとか、横領したお金の返金だとか、その中で既に使い込んでしまっていたお金の補填だとか、離婚だとか、引っ越しだとかいろいろな事が片付いて気が付いた時にはもう3月の中旬の桜の気配の漂い始めた頃だった。私達は東京を引き払い、北陸の母の実家、と言ってももう随分前に祖父母は亡くなって、長く空き家だった築45年の母の実家に東京からの荷物を全て運び込んでやっと眠る場所を確保したその日の晩、母が普段のおっとりとした口調で

「ねえ、玲ちゃんの高校はどうしたらいいかしら」

と言った時には、周辺の高校の入学試験はとっくの昔に終わっていた。ただひとつ、地域では色々と評判の悪いその女子高校だけが定員割れの2次募集をしているという有様で、私は犯罪者の娘になった挙句高校にも行けないとなるとこの先一体自分にはどんな人生が待っているものかと空恐ろしくなり、進学実績とか偏差値とか校風とかそんなことはもうどうでもいいから、とりあえず家から自転車で15分の、周辺には小さなパン屋兼生活雑貨屋のような小さな店がひとつあるだけの田んぼの真ん中の高校の二次募集を受け、合格し、否応なしに入学を決めた。

そこで私はノエミと出会った。



入学式の日、高校の古い講堂で新入生らしい初々しさに激しく欠けた女の子達が

「だりー」

そう言いながら髪の毛をくるくると弄りだらりと足を投げ出して座る列の中でぼんやりと窓の外を眺めていたノエミは、まるで中世のフレスコ画の中の聖女か天使かのような姿かたちをしていた。

春の柔らかな陽光に透けて金色に見える明るい栗色の髪、くるりとカールした長い睫毛、マイセン陶器のお人形のような白い肌とそこにぽつぽつと落とされた可愛らしい茶色いそばかす、もう存在自体が発光している、そんな子で、私は「こんな鄙に、こんなうつくしい子もあるものか」と口をぽかんと開けて見とれていた、そうしたら

「ねえねえ、たいくつだよねえ、これっていつ終わるのかなー」

私が『山添玲』ノエミが『吉沢乃恵美』、あいうえお順に並ぶとクラスでは最後から2番目と1番目、それでたまたま私たちは席順が隣同士だったのだけれど、隣の天使は突然、赤ちゃんのような屈託のない笑顔で私に話しかけてきた。ただそれは校長先生の式辞の真っ最中で、だから私は慌てて

「もうすぐ終わるから、しずかにして」

シッと口に人差し指をあて、小さな子を注意するようにそう言ってしまった。そうしたらノエミは注意されたのになんだか妙に嬉しそうにして

「えーお父さんみたい、ねえねえ、名前は?何て言うの?」

そう言って私の注意を少しも気にせず話しかけてきた。これは外見は天使だけれどかなりおかしな女だなと思った私はノエミをひとまず無視することにした、そうしたら今度は

「ねー!名前は?」

壇上の校長の祝辞の音量を凌ぐ、とんでもない大声でこちらに話しかけてきので私は慌ててノエミにぐっと顔を寄せて更に厳しい顔と声で

「ねえ、それって今聞かないといけないこと?違うよね?」

「えーだって退屈だしー」

「山添、山添玲!わかったら静かにしてなさいッ!」

幼稚園児みたいな態度でにこにこしているノエミに名前を名乗った上で結構な音量で静かにしてと注意をした。そうしたら

「山添―!わかったからおまえも静かにしとけよー!」

前方から担任教師の無遠慮な注意が飛んできて、私の方その場所にいたほぼ全員から笑われてしまった。ノエミは聖母のような天使のような外見をした、とんでもなく能天気な女だった。

入学式の後にノエミが「おこられちゃったねー」と言いながら私に、ノエミの髪や瞳が美しい鳶色であるのは母親がカナダ人だからということ、ノエミというちょっと不思議な名前はフランス語の女の子の名前の『Noémie』で、それは母親がつけてくれたのだということ、そういうことをこちらが頼みもしていないのに一方的に教えてくれた。それで私は

「じゃあ吉沢さんはカナダ育ちなの?もしかしたら英語とかフランス語は出来るけど、日本語はまだ少し苦手とか、そういう感じ?」

そう聞いたのだけれど、ノエミは

「ノエミでいいよー。あたしね、こんなガイジンみたいな見た目だけど日本生まれの日本育ちで日本語しか喋れないし、むしろ日本語もやばいよー」

何がそんなにおかしいんだかゲラゲラ笑いながらそう言った。だから公立高校に受かったことも奇跡なんだよねえと言うので、こんな試験の解答用紙に名前を書いたら受かるような高校に這う這うの体で受かるような人間もあるのかと、私はぽかんとした顔でノエミの顔をじっと見た。そうしたら目の前のノエミの柔らかなそばかすの頬に擦り傷を見つけたので私はつい

「あの、ここ、どうしたの、顔に傷がある」

ノエミの顔にそっと手を伸ばした。ほぼ無意識だった思う、そういしたらノエミは私の指が頬に触れるとき、一瞬怯えるような顔をした。でもすぐにまた能天気な顔で笑い

「転んだのー」

と言った。それで私が良かったらこれ使ってと言ってたまたまカバンに入れていたサンリオのキャラクターの絆創膏を渡したらノエミはそれを可愛いと大げさなくらい喜んで、それで私たちは仲良くなった。いや、そうじゃない、ノエミが一方的に私に懐いたのだ。それはまるでひな鳥のノエミが生まれて初めて見たのが私だと言うほどの懐きようで、ノエミは入学式のこの日から毎朝、私を校門のところで待っていて

「れいちゃん、おはよー、あたし朝ごはん食べてなくてお腹すいて死にそうー」

だの

「ねえねえ数学の宿題さあ、まずページ自体がまったく分かんなかったんだけどー」

だの言いながら私にその細い腕をするりと絡ませて来て、毎朝購買にパンを買いに付き合わされるし、宿題は宿題のページを教えてあげても問題自体が全然解けないしで、私は毎日あれこれノエミの面倒を見ることになった。


ノエミはもともと地元の人間ではなく私と同じで東京から来た子だった。ノエミの父親は仕事でバンクーバーに赴任した時、現地で出会ったノエミの母親と結婚し、その人がノエミを身ごもった後に帰国して、妻となったノエミの母親と日本で暮らしていたのだけれど

「なんかねえ、ママがホームシックっていうの?どーしてもカナダに帰りたいって毎日泣いて暮らしてたらしいんだけど、でもパパは絶対帰っちゃダメだって家中に鍵かけてママを家から出さなかったんだって。そうしたら向こうのおじーちゃんとおばーちゃんが怒り狂ってママを迎えに来たのね、それでママは帰っちゃったんだけど、ノエミのことは連れてってくれなかったんだよねー」

ノエミの話ではノエミの両親は、ノエミが生まれてからカナダに帰りたい母親とそれを許さない父親の間で諍いが絶えず、結局両親はノエミが1歳になる前に離婚して母親は帰国し、その後ノエミはずっと東京の父方の祖母の手で育てられていたのだけれど、丁度のノエミが中学生になる年に祖母が病気で急死し、ノエミは地方転任中の父親を頼って中1の時にここの土地に移って来たということだった。

「ノエミって、なんかこう…外見も相まって幸福そうな空気感に溢れてんだけど、実は結構ハードモードな人生だね…」

私がノエミのこれまでの半生について端的に簡潔な感想を述べると、昼休み、購買での熾烈なパン争奪戦に勝利して手に入れた焼きそばパンを嬉しそうに齧っていたノエミはいつもの何も考えていないそして世界一屈託ない笑顔で

「そうー?玲ちゃんのパパがタイホされたってハナシの方がずっとドラマみたいじゃん」

そう言って私に焼きそばパンの反対側を「いる?」と押し付けるみたいにして口元もまで持ってくるので、私は。

「ドラマじゃなくて現実だけどね、それに父なんて言ってももう無関係な人間だよ、ずっと会ってないし」

そう言ってノエミの焼きそばパンを反対側から齧って、お返しに母が「ノエミちゃんと食べなさい」と余分にお弁当に入れて持たせてくれた卵焼きをノエミの口に放りこんでやった。

最初の頃、川の下流に凝って溜まったようなゴミの吹き溜まりの環境に自分は決してなじまない、ここはただ単に卒業資格を得るための通過点だと思っていた高校には、夏休みが終わり2学期になる頃には毎日教室でノエミとお弁当を食べ、時折同級生の求めに応じて宿題を教え、彼女達からお礼だと言ってお菓子を貰い、成績が一番だという理由から学級委員長にも指名されて、それでなんだかすっかり馴染んでしまっている自分がいて可笑しかった。

桜の季節の頃、同級生達はあまりにも教壇に立つ教師の言うことを聞かないし、生理用ナプキンは中空を飛び交うし、暑いと突然制服を脱いで下着同然の姿になる子はいるしで、まるでサルの群にしか見えなかった集団だった。でもある時クラスの中のひとりがどこから聞いたのか

「ねー委員長のパパってさあ、なんかでパクられたんだって?」

そう聞いてきたことがあって、その時私は過去、東京の私立中学にいた頃にそれがテレビの報道でクラス中に露見し、父親だけでなく私もまた犯罪者であるかのように白眼視され無視された頃のことを思い出して背中がヒヤリとし、一体どう言えばここのでの自分の立場を守れるものかと思考を巡らしたのだけれど、でもそれはまごうかたなき事実であるので

「ああ…うん、でももう父は母と離婚して、私は母と暮らしているし、だから私とは全く無関係の人間だから」

そう言った。それは個人的なことだし、そういうのを聞くのはやめてくれないかなと、それを伏し目がちな感じで伝えたつもりが、ややふっくらと太めでそれをいつも気にしているリサという子は、私の表情なんか一切気にせず長い爪で髪をくるくると触りながら

「ふーん、何したの、放火?殺人?強盗?」

父親の罪状をえらく物騒な方向に持って行こうとするもので私もついはっきりと

「そんなことしてないよ、横領だよ」

リサに向って顔を上げてそう言うと

「横領って何?」

「会社のお金を勝手に使っちゃったの」

「なーんだ金パチってパクられたってこと?パパ、やることちっせえな!」

なんて言ってゲラゲラ笑った。ここは一時が万事そういう調子だった。皆素行も行儀も口も悪いけれど、そして一部は男を取ったの盗られたの、アタシをブスだって言った言わないだのと幼稚園児のような騒ぎを起こすものの、なんだかんだと気が良くて、そして細かい事を全然気にしない女の子の集団なのだ。そしてそういう中に自分がいるというのは意外に気楽なものだった。

そこは色々な家庭の事情を抱えている子も多くて、例えば私の家は母子家庭だったし、ノエミは家は父子家庭で、そのリサという子はどういう事情なのか両親がいなくて祖父母と暮らしていた。あとは両親はいるのだけれど明らかにマトモではない家庭環境なのだろうと推測できる子も沢山いた。夜に駅前のスナックで年齢を偽ってアルバイトしている子、明らかに殴打の跡に見える青アザをあちこちに作って登校する子。

そういう意味では犯罪者の娘の私だって吹き溜まりの中のひとりなのだ。

そんな自虐に似た自覚を持つに至る頃には、私はクラスの多数派の、化粧をししてスカート丈の恐ろしい程短い女の子達とは毛色こそやや違うけれど、それでも彼女達のいっしょの、仲間のひとりになっていた。

高校2年生の時

「おまえらバカ女の将来なんか碌なことにならない」

というのが口癖の体育教師がいて、それは教育的な指導とは一切関係のない「ただ自分より力の無い誰かを罵倒する」ことを目的にした愉快犯的暴言でしかなかったのだけれど、とにかくそいつが体調不良で体育を休みたいと申し出たトモカという子とノエミにねちねちと絡んだことがあった。トモカは早朝原付で新聞配達をしている子で、家が色々とややこしいので早々に自立するのだと、それが目標なんだといつも話している子だった。

「体調不良ってなんだ、生理か、じゃあ何日目だ」

「オマエらどうせ朝まで男のとこにでもいたんだろ」

「気楽なもんだな、おまえらバカ女の将来なんか碌なことにならないぞ」

にやにやとトモカとノエミに絡むのを、トモカは普段から肝の太い子なもので耳を小指でほじりながら聞いていたけれど、ノエミは本当に顔が青白く、思えばノエミは不注意なのか何なのか大体は「転んだ」という理由の怪我が多くて、それに加えてこの頃は貧血の時のような青白い顔をしていることも多くて、それに何よりクラスの殆どの子が「あのクソゴリラ、いつか殺してやる」と結構本気で囁いていたこの体育教師の事をノエミだけは極端に怖がっていた。

というより、ノエミは世の中の大半の男性を怖がる傾向にあった。だから他校の男子がノエミのその外見に一目惚れして、校門で待ち伏せをして声をかけてくることはそれこそ年に100回くらいはあったのだけれど、それをいつも怖がっていつも私の背後に隠れ、クラスの女の子達はそれを惜しがったものだ

「ノエミならどんな男だって付き合えるのにもったいない」

それでこの時はとりわけ機嫌の悪かったゴリラは、トモカの不遜な態度と、ノエミが怯えて返事をしないこと、両方の態度が気に入らないとその詰り方が執拗だった。女はバカだ、お前らは碌な人生が待ってない、だから俺は女子校なんか嫌なんだ。なんなんだろうこの男は、私たちが力のない若い女だからって言いたい放題じゃないか。

たまりかねた私は、気がついたらノエミとトモカを自分の背後に隠すようにしてその体育教師の前に立って怒鳴るように叫んでいた。

「女だからなんで碌なことにならないんですか、ノエミとトモカは体調不良で体育の見学を申し出ているんですよね、それ以上の報告は必要なくないですか、どうして生理が何日目だとかどこかの男とセックスしてきたとかそういうことを言わないといけないんですか、おかしいですよね、特に女だからダメってとこ、撤回してください、ここにいる私達は全員女です」

私は頭にきていた。そうでなくても女の子ばかりの集団というのは、若い、可愛い、それだけを消費されてひどく見くびられるものだ。痴漢は学校の回りにばかみたいに出るし、ノエミに群がるのはその美しすぎる外見に飛びついて来る男の子ばかり、それを煮詰めて固めたのがこの目の前のゴリラの言い分なんだと思ったら、私は思わず仁王立ちになって大声で言い返していた。そうしたら、ゴリラは更に頭に血が上ったのだと思う

「何だこの眼鏡」

そう言ってから私の左頬を拳でぶん殴った、私は自分より頭一つ大きなゴリラが渾身の力で殴りつけてきたものだから大きくよろけて目の前が真っ白になり、少しの間だけ何が起きたのかよく理解できなかったのだけれど、この男は私を殴りつけたんだと分かると、背後の同級生達全員に叫んだ。

「コイツ殴った!警察呼んで!だれか電話!」

「えっ、委員長、警察って何番?119?」

「違うって110番でしょ!ねーそうだよね委員長」

背後の同級生達は、私のひとことでそこにいたほぼ全員がカバンから携帯を取り出して110番か119番かとにかく緊急の番号を押し始めた。それで流石のゴリラは焦ったらしい、おいお前らやめろと大声をだして教室の前方にいた女の子達の携帯を取り上げようと彼女達に飛びかかり、女の子達はそれを面白がってきゃあきゃあ言って逃げ回った。

それでその騒ぎを聞きつけた担任教師と学年主任が教室にやって来て現場は大騒ぎになり、その中のひとりの子の携帯が本当に繋がって本物の警察までやって来て、ゴリラは逮捕こそされなかったけれど警察から注意を受けていた、でもそれは

「女の子を殴っちゃいけませんよね、先生」

というただの世間話的な口頭注意で、私としてはこれは傷害事件じゃないのかと思ったし、こんな男は即刻懲戒免職にしてくれと思ったし、大体私が「女の子だから」殴ってはいけないのではなく、誰に対しても暴力行為は犯罪だろうとは思ったけれど、この時ノエミが私が殴られた瞬間に貧血を起こして仰向けに倒れてしまって、そちらに気を取られていたので私はそれどころではなかったのだ。

この日、私には一応殴打を受けた私には母親が勤め先から迎えに来て、貧血を起こしたノエミは父親が車で迎えに来た。私はその時に初めてノエミの父親を見たのだけれど、酷く神経質そうな痩せた中年男性で、体調が悪い娘の腕を掴んで引っ張るようにして車に押し込んでいたのがちょっと気になった。そしてその時のノエミの私にすがるような、不安そうな瞳の色も。

「なんだか怖そうなお父さんねえ…」

父の逮捕の時すら「しょうがないわよねえ」とどこまでも鷹揚でのんびりとした態度を貫き通していた母は、ノエミの父の表情を態度を見て少し困惑したような顔でそんなことを言った。地元であるこの土地に移り住んで、平日は昔の同級生の紹介で生花店にパートタイムで勤め、土日は自宅でフラワーアレジメントの教室を開いていた母は、よくうちに遊びに来るようにもなっていたノエミの姿を何度も見ていて

「ノエミちゃんてなんて可愛いらしいのかしら、まるでピアノの上のフランス人形みたいな女の子ねえ」

そう言ってノエミをとても気に入って可愛がっていた。そしてお茶やお菓子を持って2階の私の部屋にやって来ては

「玲がいなくてもおばさんがいるからいつでも来ていいのよ」

なんてことも言っていた。レースやリボンやキラキラとしたビジュー、そういうものの大好きな母の世界観にぴったりと合う天使の姿をしたノエミは母の大のお気に入りで、私は母があんまり「ノエミちゃんはいつ来るの?」「ノエミちゃんてお母さんとお花とかやらないかしら」なんて言うもので、随分膨れたものだった。じゃあノエミを娘にしたらいいんじゃないのと。

当時の私は、お花が好きでリボンが好きで乙女の世界の中に生きている母の理想とは程遠い外見と性格をしていた。身長がクラスで一番高く、肩幅が広く、短髪の眼鏡で、年中分厚い本ばかり読んでいる娘で将来の夢は小説家。それも少女小説でもファンタジーでもない『小説』を書きたいのだと、それをノエミにだけは教えていた。ノエミは

「れいちゃんは頭がいいからきっと将来は有名な小説家になるよねーそうなったら私、100冊れいちゃんの本を買うから、全部サインしてね」

そう言ってくれていた。100冊もどうすんのよと私は笑ったけれど、私はノエミのこういう無邪気すぎる位無邪気なところが大好きだった。



そして件のゴリラとの一件があってから、3年間持ち上がりの、クラス替えの無い私たちのクラスは妙に団結し、3年生になる頃

「絶対みんなで一緒に卒業しよう」

という高いんだか低いんだかわからない目標をクラスに掲げて、私は隣の県の国立大学を目指して必死に勉強していたし、ノエミは「とりあえず赤点さえ取らなかったら卒業できるよね」というノエミなりの目標を掲げて頑張っていたし、リサは美容師の専門学校に行くのだと言ってお金を貯めていて、あの時ノエミと一緒にゴリラに罵倒されていた新聞配達少女のトモカは板金の仕事をしている彼氏と卒業と同時に結婚するのだと言っていた、それだって目標と言えば立派な目標だ。私たちは皆ちぐはぐだけれど、それぞれが尊重されてしかるべき女の子なんだ。

そう思っていたのに、ノエミはその年の夏、忽然と私達の前から消えたてしまった。

夏の終わりの朝靄のように、アイスクリームの箱のドライアイスの欠片みたいに、忽然と始めからそこに無かったように消えたのだ。

それは夏休みの最後の頃、ノエミは宿題をちゃんとやったのかなと思った私がノエミの家に電話をしたら、案の定

「えーぜんぜん終わってなーい」

なんて言うので、うちに来てやる?と聞いたらノエミは嬉しそうに「行ってもいいの?」と言った。もちろん、私はこの時、母の「ノエミちゃんは来ないの?」という催促の日々にやや辟易していたのだ。そうしたらノエミは宿題ではなくて、貰い物だという桃をたくさん抱えてやって来た。

「ノエミ、宿題は?」

「あっそうか、宿題やりにきたんだっけ」

「もう、しっかりしてよ、そういうのってあのいちいち機嫌の悪そうなお父さんに怒られたりしないの?もっと勉強しろって」

「パパはねぇ、勉強の事とかはぜんぜん気にしないんだよねえ、女の子が勉強してもロクなことにならないんだって」

そう言って、私に桃の詰まった甘い香りの紙袋を渡し、多分母親譲りなのだろうフワフワとした栗色の髪をかき上げた時、私はノエミのこめかみの所にまた大きな青アザを見つけて

「ノエミ、それどうしたの」

と聞いた。アンタこの3年間生傷が絶えなさすぎじゃない?と。そうするといつもノエミは曖昧に笑って「転んだのー」と言って言葉を濁していたのだけれど、この時、私の家の私の部屋で切子のグラスに入ったりんごジュースの氷を取り出そうとしていたノエミは、手を止め、一瞬考えてそれから

「あのね、れいちゃん、あのさ…」

そう言いかけた。そうしたらその時、階下で母の声がした

「ノエミちゃん、お父さんからお電話なんだけど」

ノエミは携帯電話を持たされていなかった。

「れいちゃん、おばちゃんにいないって言ってってお願いできないかな?」

「どうしたの、けんかでもしたの、お父さんと?」

うんそんな感じ。ノエミはまたいつもの曖昧な笑顔を私に見せた。結局その日は結局私とどうでもいい話を、流行りの唄のことだとか、文化祭の出し物ってどうするのかなとか、来年ノエミはどうする気なのとかそんな話をした。ノエミは進学するつもりはないけれど、アルバイトをしてお金を貯めて

「ママのいるカナダに行きたいの」

と言った。だから私はノエミは向こうに留学するつもりなのかなと思って「それもいいね」と言った。そしてその日の夕方

「お父さんと喧嘩をしたのならおばちゃんが上手く言ってあげるから夕飯食べて行きなさいよ、ね?」

そんな母の誘いを「怒られちゃうから」と断ってノエミは藍色に染まっていく空を追いかけるようにして家に帰っていった、筈だった。でもその日を境にノエミは学校からも家からも、町からも忽然と姿を消した。

ノエミを家に縛り付けるようにして養育していた父親にもその行方は分からなかったらしく、私の家には何度もノエミの父親から電話がかかってきて、実際家に訪ねて来る時もあった。

「ノエミはどこに行った、本当は知っているんだろう、手がかりくらいはあるんじゃないか」

玄関先で私に詰め寄ったノエミの父親の姿は尋常な様子ではなく、なにか狂気を孕んでいると言うのか、あのゴリラに手向かった私にすらとても恐ろしいモノに映り、母もノエミの父の尋常ではない姿を怖がって警察に相談した。それで警察の方から注意があったのか秋の終る頃にはノエミの父親はもう私の家には来なくなった。

でも、実のところノエミはひとつだけ手がかりらしきものを私の手元に残していた。ノエミがいつもバスの定期券を入れていたパスケース、それを私の手元に置いていっていたのだ、そしてその中には隣町の産婦人科医院の診察券が入っていた。

それだけのことだけど、私はそのことをノエミの父親にだけは伝えてはいけない気がしてそのパスケースを私の机の奥にしまい込み、それは誰にも知られないままになった。

『ノエミはもしかしたら妊娠していたのかもしれない』

そう聞いたのは少し後になってからだ。堕胎のためにあの診察券の産婦人科を訪れたのかもしれないと。それを私はうっかり在学中に彼氏の子を妊娠して、でも赤ちゃんは産みたいしみんなと卒業もしたいと言ってクラス全員に「卒業まで絶対黙ってて」と手を合わせていたトモカから聞いた。

もしそれが本当なら、そんな大事なことをノエミは親友の私に言ってくれなかったのかと私は少し寂しかったけれど、ノエミはもういないのだし、すべては藪の中だ。

そうして、私達はノエミは一体どこでどうしているのか、元気なのかなと心配しながら、私は第一志望の国立大学に合格し、リサは隣町の美容専門学校に通うことになり、トモカはというと、妊娠しているお腹をひた隠しにして無事に卒業し、卒業式の次の日にクラスの誰よりも早く結婚して、そしてクラスの誰よりも早くお母さんになった。



それからの12年はあっという間だった。

私は大学在学中に小さな文学賞を取って小説を何冊か出した。でもその後は鳴かず飛ばず。でも夢を諦められずに大学を卒業して1年後に上京し、アルバイトをしながら自分の言葉をひたすら綴り続けた。そうして30歳を目前にしたつい最近になってちょっとした文学賞を受賞した。

それは地元でもちょっとしたニュースにもなったらしい

「委員長?ニュース見たけど!すごいじゃん!」

かなり興奮したトモカが私に連絡をしてきてくれた。トモカは今や地元の小さな企業の社長の妻で4児の母だ、毎日忙しくて死にそうと言いながら私の受賞をとても喜んでくれた。

「それでね、今度こっちで同窓会があるから、連絡がつく子はみーんな呼ぶし、委員長も絶対来て、そんでサイン本とか配ってよ」

トモカは地元に残ってヘアサロンを開いているリサと一緒に幹事をするので同窓会は絶対来いと私に言い、それなら今も実家でフラワーアレンジメント教室をやっている母に会いたいし帰ろうかなと言った時に私はふと

「ねえトモカ。連絡がつく子みんなって、まさかノエミとは連絡がついたりは…しないよね?」

そう聞いた。私はこの12年の間ノエミのことを忘れるようなことは無かったし、SNSで誰かと誰かが簡単につながることのできる時代なのだから折に触れて『吉沢乃恵美』もしくは『Noemi Yoshizawa』で何度も検索をかけていた。でもノエミはどこにも見つからず、もしかしたら苗字が変わってしまっているのか、それかパソコンは電源を入れられる程度のスキルしかない子だったのだからそういうモノには一切触らないことにしているのか、とにかく私にはずっとノエミのことが一切わからなかった。それが

「えっ、わかるよ、インスタから連絡できるから呼ぶね」

「は?」

「エッ、だから、ノエミは今連絡着くから呼ぶよ。インスタをさあ、たまたまぐーぜん見つけたんだよね。ノエミね、結婚して名前が違うの、なんか苗字が英語であたしには全然に読めないんだけどさあ、旦那カナダ人なんだって、でも今日本にいるよ」

「えっ、ノエミ、結婚してるの?それで日本で普通に暮らしてるの?」

「そうだよ、あとでインスタのアカウント教えてあげる、そこから連絡してみて、非公開じゃないしノエミそういうの気にしないし全然いいと思う」

そう言って電話を切ったトモカが3分後に送ってきてくれたインスタグラムのアカウントの中には、3人の子ども達と背の高い夫らしき人と微笑む30歳のノエミの姿があった。

あの天使はちゃんと大人になって、少し太って、それでもあの頃の面影を強く残した幸福そうな大人の女性の顔をしていた。ノエミの子どもは多分一番上の子で7歳か8歳くらい、まだどの子も小さくてあの頃のノエミによく似た天使のような面立ちをしていた。

(あの時の、妊娠していたかもって話が本当だったとして、ノエミはその子を産まなかったんだ)

私がふと、そんな過去の噂を思い出した時、私はあの時の色々な記憶の細かな断片が、糸と糸とでするするとつながりそして次第にある真実としてはっきりとした形を見せて、画面の中の30歳のノエミの微笑む顔がどんどん霞んでいくのが分かった。涙がぽたぽたとテーブルの上に落ちていく、でもそれを自分では止めることができなかった。

いつも生傷の絶えなかったノエミ

男の子に「好きだ」と言われていつも怯えて私の後ろに隠れていたノエミ

大人の男の人の大声を極端に怖がっていたノエミ

厳しい父親にいつも監視されて束縛されていたノエミ

最後に会ったあの夏、父親からの電話に怯えた顔で「いないと言ってほしい」と言ったノエミ

妊娠していたかもしれないノエミ


どうしてわからなかったんだろう、こんな簡単なこと。

「ノエミ」

私はひとこと絞り出すようにつぶやくと、ノエミのアカウントの『メッセージ』をタップした、まずなんて言うのが良いんだろう、なんて書いて送ろう、私は言葉を生業にしているくせに12年ぶりに見つけた友達にまずなにを伝えるべきかわからなくて、凄く平凡な一文だけを打ってそのまま送信した。

「ノエミ、元気ですか、山添玲です」

それだけだ。ノエミは私をまだ友達だと思ってくれているだろうか、あの時何も気づいてくれなかった、友達がいのない子だと思ってもう何も返してきてくれないかもしれない。

でも送信後ものの3分でそれは返ってきた。

「れいちゃん!?うそ、超うれしい、ノエミだよ!結婚しました!あの時何も言わないでいなくなってホントにごめんね、色々あったんだけど去年カナダから戻ってきたよ!私はいま超元気です!」

まるでノエミの声がするみたいな文面だ。

ノエミ、これまで一体どうしてたの?辛かったんだよね?気づいてあげられなくてごめんね、今は幸せなの?

私にはノエミに聞きたいことが沢山あった、あったのだけれど、じゃあ次に一体どんな言葉を編むべきなのかそれがちっとも分からなくて、ノエミのノエミでしかない言葉をあとからあとから流れて来る涙を抑えながらしばらく眺め、それから意を決して画面にまずこう打ち込んだ。

「お帰りノエミ、長い旅だったね」

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きなこ
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