フィールドワーク
うちの末っ子の6歳は現在小学1年生で、心臓に病気があって、医療用酸素を使い、学校には専従の看護師さんが来てくれている。そういうタイプの子どもで、地域の公立小学校の1年生の教室と特別支援教室、ここでは仮に『ひまわり教室』と呼ぶけれど、そこを行き来しながら過ごしている。
特別支援教室は上記ように定義づけられているものの、運営方法や方針は地域によってそれぞれの独自色が強い印象がある。6歳の暮らす地域の教育委員会では
(できるだけすべての子どもを普通級で、他の子ども達と一緒に)
これを基本方針に運営がされているらしい。「らしい」というのは教育員会がこれにまつわる様々な情報をクローズにしがちであるためで、特別支援教室の基本方針もガイドラインもアセスメントも、私は特別支援教室に我が子を通わせる親ではあるけれど、あまりよくわからない。
ともかく「病弱者および身体虚弱児」として特別支援学級に在籍する6歳は、普段殆どの時間を1年生の普通級で過ごしている。特別支援学級にいるのは1日1コマ程。あとは『20分休み』と呼ばれる2限目と3限目の間の休み時間と、昼休みをひまわり教室で過ごしている。
休み時間、6歳もお友達と校庭や体育館で遊ぶことができたらいいのだけれど、6歳と比べると桁違いにパワーとスピードのある健常児の、特に高学年の子ども達が力いっぱい走り回るそこは、酸素ボンベを持ってのこのこ歩く6歳にはちょっとした危険地帯だ。6歳は暑さ寒さにもえらいこと弱く、夏の登下校は私が6歳のために日傘で日陰を作りながら歩いている、なんだかもうお嬢とばあやという風情。故に6歳は休み時間、大体ひまわり教室でお絵描きをしたり、看護師さんや支援級担任の先生とお喋りをしたりしているそう。
ただこれではいつまでたってもお友達ができないなと、それが最近の私の密やかな悩みだった。
そんな酸素ボンベを携帯し、廊下に常に看護師さんに待機してもらい、登下校は保護者の付き添い付き、休み時間はひまわり教室に引っ込んでいる6歳は、授業中に空の色に誘われてつい教室を抜け出してしまうお友達よりも、授業中につい隣の子とお喋りを初めて口論になりそれが殴り合いの喧嘩に発展してしまうお友達よりも、『障害のあるお友達』の色合いが強い。見た目からして教室の闖入者、教室のお友達ともまだちょっと距離がある。
それだからついこの前、5時間目の終わりに6歳を教室まで迎えに行った時
「今日、2年生のお友達がふたりがうちとこに来てくれたんよ、遊びましょうって」
そう聞いた時は嬉しかった。その子達はどうやら2年生で、20分休みの時間にひまわり教室にやってきて、6歳とトランプをして遊んでくれたのだそうだ。それは状況説明のまだちょっと覚束ない6歳児の言うことで、詳しいことはよく分からなかったけれど、ひまわり教室に気軽に遊びに来るということは、校内にいくつかある同様のひまわり教室の誰かが遊びに来たということかと私は推測した(ひまわり教室は①から⑦まである)。特別支援学級の子ども達の多くは、6歳への好奇心を隠さない、それ何つけてんの、なんで車椅子で学校に来るん?
「よかったねえ」
「ウン、また遊びたい」
6歳はその日、ずっとそのお友達の話をしていた。きっとすごく嬉しかったんだろう。
そしてこの、突然やって来た『お友達』の正体は翌日判明する。現在中学生の6歳の姉の元担任の先生が、いつものように6歳を学校に送り、廊下で1時間目の始まる迄様子を見ていた私にそっと教えてくれたのだ。
「2年生の子が2人、6歳ちゃんとずっと『お話してみたいなァ』って言っていて、それでこの前ひまわり教室に私が連れて行ったんです、6歳ちゃんと仲良く遊んでましたよ」
2年生の教室は昇降口を挟んで1年生の教室と対になってる。この造りだと2年生から普段の1年生の様子がよく見えるし、2年生は体育の授業も時々1年と合同。その2年生のお姉さん達は、普段から医療機器を携帯し、看護師に付き添われている1年生のことがずっと気になって仕様がなくて、いつもとても気さくなその先生に「あの子のとこに連れてって」と、お願いをしたらしい。
素敵な話だと思う。
病気で色々と不自由らしいひとつ年下の女の子が学校にいて、その子が一体何なのか、どういう感じの子なのか、一体自分達と一緒に遊んだりできるのか、それを知りたくて先生にお願いしてひまわり教室にその子を見に行き、その子と一緒に遊んだ。きっとその日、お家でも親御さんに自分達が体験したことを話したんじゃないだろうか。それで多分「良い事をしたね」って言われたんじゃないかと思う。
健康で健常なお友達に「まずは様子見」と距離を置かれてしまう傾向にある6歳は、こうしてお友達を増やしていけばいい、そもそも向こうが「あそぼ」と言って行動に移してくれることは本当に有難いことだし、6歳本人もとても喜んでいる。
だから別にこの話を深く掘り下げる必要はないのだと、ほんまのとこよく分かっているのだけれど、でもあえて掘り下げてしまうと、この「ひまわり教室のお友達への訪問」は、彼女らにとって一種のフィールドワークなんだよなあ、多分。
フィールドワークは主に文化人類学の調査手法(社会学なんかでもそうだけど、そこはまあともかく)。大航海時代を経て迎えた19世紀の末に始まった比較的新しいこの学術分野は、当時非西洋の未開の民族集団を対象に、彼ら独自の文化を調査し、異文化比較を行うものだった。自分達と全く異なる未開の文化の探求。これはあくまでその当時の話で、現在の人類学の在り方とはやや異なるのだけれど。
ともかくその子達は、自分達が普段立ち入ることのできない土地に、その子達にとっては全く未知の存在である6歳を、教師をガイド役にして見にやって来たのだ。
それでもそこで「へえ、ひまわり教室ってこういう所なんや」「ふうん、この子普通にトランプとかできるんや」と見て感じて、これまで自身の内側に引いていた
―あそこは自分達の教室とは違う場所
―あの子は自分達とは違う子
そういう内的境界線を「いや、ちょっとちゃうんかも」と、新しく引き直してくれたのなら、きっとそれはいいことなのだし、多分それこそが学校の求めている「インクルーシブ」なのだと思う、健常児を主軸に置いた場合は。
でも訪問を受けた側にとって、これはどう映るのだろう。今はまだ無邪気に喜んでいる6歳も、いずれ精神的に身体的に成熟し成長してゆく過程で
「え、うちあの時、ちょっとめずらしい人類の生物標本みたいな扱いになってへんかった?」
ということに気が付いて、それにちょっと傷ついて、白いシャチとか、ピンク色のカワイルカみたいな地球上の希少種に妙なシンパシーを感じるようになってしまったら、親としてはちょっと寂しいなと思う。
多数派は、少数派を傷つける存在でしかないのか。
6歳を育てていると、登下校の付き添い、行事付き添い、それから通院と習い事の付き添い、とにかく6歳の予定に合わせて動くことが多く、結果普段の生活で活圏外から出る機会が皆無になる、病院と学校の関係者以外誰にも会わない。いま平日の私と世界との接面はほぼ現実のものではなくて、メタ―バースというか、インターネットの世界が中心になる。そこは二元論的線引きの色味のとても濃い場所で、中庸の色味が少ない。健常者と障害者、男と女、老人と若者、ブルジョアジーとプロレタリアート。
そういう線引きの中では、親子である私と6歳もまた、あちら側とこちら側に立つ人間として別分類になる。私は健常者、6歳は障害児。私はあの子にはなれないし、あの子も私にはなれない。
一体6歳には今世界がどんな風に見えているのか、それを本人に聞いたことはないのだけれど(そんなことより6歳は今、カービィのぬいぐるみを集めることに夢中だし)、3年前にこの子が2ヶ月遅れで幼稚園に初登園した日、「いったいなにがなにやら」という、なんともいえない顔で帰宅した6歳は(当時は3歳)家に帰ってぽつりと
「みんな、なんもつけてへんかったなァ」
と言ったことはよく覚えている。それまでずっと病院と家を行き来するだけで、遊び相手は障害児デイサービスの友達。そこにいる子どもらは大体自分と同じような何かしらの医療機器を、酸素とか人工呼吸器とかを装着していて、あとは大きな背もたれのついたバギーなんかにも乗っている。それが当たり前の、普通のことだと思っていたのに、なんであの子らはみんながみんな何もつけてへんくて、普通に立って普通に歩いてんの?
あの時、6歳は自分の世界に一本の線を引いた。それまでの世界はつるりとした境界のない地続きのものだったのに、実はそこに健常な子のいる世界と自分のいる障害と医療的ケアのある子の世界がそれぞれあるのだと、気が付いたのだと思う。
ところでつい先日、6歳のそろばん教室のあった日、6歳は私に「お教室が終ったら、自分で帰って来るし」と、即ち自力で帰宅するので迎えにこないでと言い切って出かけて行った。
そろばん教室を週2回開いている集会所は、我が家と同じ集合住宅の別棟にあって大人の足で30秒程、子どもの足では1分程。距離とも言えない距離だし、ベランダに出ればその様子は見える。ならまあいいかと、私は自宅で6歳の帰りを待っていたのだけれど、待てど暮らせど帰ってこない。
よっぽど解けない問題があって居残りになっているのか、もしくは外で転んで泣いているかもと心配になって見に行くと、6歳は同じそろばん教室に通っている同じクラスの男の子達と集会所の前の広場で『だるまさんがころんだ』に興じていた。
その男の子達は普段学校いる間、6歳のことを「あの子はひまわり教室の子」としてなんとなく遠巻きに見ていて、別段6歳に声を掛けたり、ましてや一緒に遊ぼうぜなんてことは言わない子達で、6歳も自分からは彼等に声を掛けたりしない。互いに何となく「違うよな」という境界線を、あえて飛び越えるということはしない、そういう関係だった。
それが、他学区の小学校の子が混在するそろばん教室では、その子達と6歳は「おんなじ学校のおんなじクラスの子」という『仲間』になるらしい。ここで境界線の外にいるのは、多分他学区の小学校の子ども達だ。
6歳は、昼間の熱気の残る広場で蚊にふくらはぎを刺されながら途轍もなく楽しそうだった。見たことがあるだろうか、医療用酸素を乗せたカートを片手に、お友達を追ってきつい勾配の植え込みをがしがし登っていく心臓疾患児を。医療機器を抱えて歩く6歳には確かに機敏さというものが無い、けれど妙なスタミナはある。いや、これもう根性やな。
19世紀末の人類学は、非西洋の未開の民族集団を対象にし、彼ら独自の文化を調査し、異文化比較を行い、その差異を発見するものだった。でも21世紀の今、何故人類にはこれほど多様な文化があるのか、その差異はどうしてどこから生まれたのかを模索し、そこに人類の中の普遍の欠片を見出して、互いが新しい関係を結ぶことを目的にする…ともかくもそこに分断を産むことを目的にしていない。
それならば6歳も、自分の世界の中にいくつも線を引きながら、自身の世界をあちらとこちらにどんどん分けて行けば、いつか細分化されたその線の中から普遍が産まれ、もしくは細分化を極めたそれが緩やかに溶けて、かつて自分とは全く違うと思っていた世界とヒトが結ばれてゆく、そういうものなのかもしれない。
「わたし」は自分以外の他者の存在によってはじめて「わたし」になる。ただ、それをするために「わたし」は世界の外に外に出ていかなくては。
その外の世界で6歳はときに「ちょっと珍しい人類」としての扱いを受けるだろうし、傷つくことも避けられないのかもしれない。そしてそれを、6歳の親である私は今一番恐れているんだよな。
まあでも、酸素ボンベに繋がれながら果敢に木に登ろうとするこの人類は、もしかしたらその点についてはぜんぜん大丈夫なのかもしれない。これは私の希望であって、なんの根拠もない推論ではあるのだけれど。
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