スイセイのこと 1

世界の捉え方が少し不思議な男の子と、世界を見る角度が少し変な男の人の小説を書きました。皆が同じように感じる事を普通の感情としてうまく表す事が出来ない子どもは私の身近にもいて、そして今でこそうまく人間の大人に擬態している私自身もその仲間なのかもしれませんが、そう言う子がどう世界を捉えているのか、そして彼らは一体『普通』を希求しているのか、それを考えながら書いています。長くなりそうなこの話のバックアップの代わりにここに大体1万~2万字程度を区切りながら置いていきたいと思います、終わりの一文字を書く事が出来る日までお付き合いいただけたらとても嬉しいです。
                             きなこ


☞1

僕は、お母さんの作るラーメンなら食べる事ができた。

と言っても家に銀色の寸胴を持ち込んで鶏ガラでスープを取って、麺は自家製麺でとかそんな本格的で壮大なものでは全然なくて、それはインスタントの袋めんだ。というのも僕は昔から食べられる物が少なくて、それは一般的には『偏食』とか『わがまま』とか言われるものなのかもしれないけど、本当に本気で食べられないものは食べられない、口が咀嚼を拒むし、喉が嚥下を許さないし、胃が受け付けてくれない。

だから僕が一口に「ラーメンが好きだ」と言っても、お店で食べるような本格的なものは僕には食べれらない。その理由はわからない、おいしくないのではなくて『食べられない』。スーパーで売っている生めんタイプの袋めんとか、冷凍の物も試しては見たけれど全部ダメだった。唯一食べられるのはサッポロ一番味噌ラーメンで、僕はこれなら他のどのメーカーの製品がすり替えられてもすぐわかる。あと、味噌ラーメンは良いけどお味噌汁は限られた種類の味噌と具の組み合わせのみしか体が受け付けてくれないし、肉類も油分があるパーセンテージを超えるとアウト、魚は匂いがほぼダメ、川魚は近くにあるだけで眩暈がする。じゃあ淡泊な味の物なら大丈夫かと思えば豆腐とその類のものが全然が食べられない、あとは緑の野菜はほぼダメだとか、自分の頭の中に意図せずそういう細かいフローチャートみたいなものがあって、たとえばもし、僕が食べられない類の食品を、意を決して口に入れ、無心で咀嚼して、無理に飲み込んでも、「これはダメだ、違うぞ」と体の細胞のすべてが僕に指令を出してきて、即、気分が悪くなって、結果、胃の中の物をすべて吐いてしまう。

一般的に小さな子どもは酸味や苦みにとても過敏でそういう味の一切を拒否する。その味が自然の中では本来、毒だったり、腐敗したものだったりする。だからそれを本能的に拒否するのだそうだ、僕のこの感覚もそれに近い物があるんじゃないかと思う。あくまでも僕、個人の推測だけれど。

だから、僕が赤ちゃんだった頃、僕の偏食は今より更に壮絶だった、2歳近くなっても離乳食を一切受け付けずにミルクばかり飲み、白粥も人参をすりつぶしたのもカボチャもとにかく離乳食として思いつくような食べものをどう口にねじ込んでも全部べろべろと吐いてしまう。結果、体は同じころに生まれた子どもよりも一回り小さく、お母さんからすると「か細くて白くて本当にひ弱そう」に見えたという、それでそんな状態の僕をお母さんは『もしかしたら摂食障害とかそういう病気の一種かも』と思って心配になり病院に連れて行ったことがあったらしい、でも小児科のお医者さんは、母の言い分を聞き、僕の体を一通り調べてから

「少量でも食事が経口で取れている以上それを摂食障害とは言いません、強いて言うなら息子さんは味覚が過敏なんです。この手の子に医者は打つ手がありません、どうしてもと言うなら、鼻から細いチューブを胃に通してそこから栄養を流し込むという方法もありますが、水分は摂れているみたいだし、体重も身長も、ぎりぎり成長曲線の中にありますから、こういうのは年齢と共に改善しますよ、お母さんがご自宅で頑張ってくださいハイ次の人」

あっさりと見放されたらしくて、その診断にお母さんは

「カイセイは味覚が過敏なのね、ふうん。まあでも、それって病気じゃないし、悪い事ではないかもしれないわよね」

特に落胆も怒りもせず、とりあえずは納得したらしい。お母さんは昔から切り替えが早い。

それでその味覚の過敏な僕が食べられるものを考えて、作って、失敗したらやり直して、また作って、そういう細かい試行錯誤を何年も何年も繰り返している間に、元々食べる事が好きで、それに付随して料理することも好きだったお母さんはどんどん料理の腕が上がり、その料理をインターネットで世界に配信しはじめて、それをたまたま見つけた編集者の人に誘われて雑誌に僕のような偏食の子のためのレシピを書き、料理や文章を書く事を仕事にするようになって、お金を稼ぎ、貯蓄をして、弁護士を雇い、僕の生物学上の父と離婚した、僕が6歳の時だ。

生物学上の父とお母さんの間に婚姻関係があった最後の日、僕とお母さんの家、僕たちはこの日の数ヶ月前からもう小さな賃貸のマンションに2人で暮していたのだけれど、その部屋の玄関から父が出て行って扉が閉まったその瞬間、それまで神妙そうな表情で俯いていたお母さんは、突然踵を返してキッチンに走って行き、調味料入れの中のハーブソルトを右手に掴んで戻って来て、その場でハーブソルトのキャップをパチンと開けると、玄関の三和土の上に盛大にその筒の中のタイムとかセージとかローズマリーとかそういうハーブの混ぜ込まれた香りのする塩を、喜んでいる風でもなく、でも怒っている風でもない、静かな無表情のまま三和土の隅々にまで大きく振りかぶってまんべんなく振りまいた。僕とお母さん2人で暮すために借りた小さな部屋の小さな玄関には緑や黒のつぶつぶの混ざった塩がざらざらと降り積もり、僕にはそれは排気ガスで汚れてしまった春先の根雪のように見えた。

お母さんはその瓶をすべてカラにしてしまうと、それを廊下にポイと投げ捨て、今度は笑顔になって、僕を抱きしめてこう言った。

「カイセイ、これからは、お母さんとうんと楽しく暮らそうね」

僕は、お母さんが何をしているのか、そして何を言っているのかよく分からなかった、だってお母さんと僕はこれまで2人で楽しく暮らしていたじゃないか。

棒みたいに立ち尽くした僕の体を、膝をついた状態で抱きしめるお母さんの、その時肩まであった少しくせのある髪がふわふわと僕の頬に当たる感触がくすぐったくて、それに気を取られていた僕はそういうことは言わずに「とにかくお母さんが嬉しいのならよかった」とだけお母さんに伝えた。

僕は、お母さんが嬉しいならそれでいいんだ。

僕は生物学上の父の事について細かく覚えていることはあまりないし、考える事も稀だけれど、それでもどうしても思い出せと言われたら、生物学上の父の姿かたちではなく、あの日の春先の根雪みたいなハーブソルトの色と香りと、僕の頬をフワフワと擦った猫の毛みたいなお母さんの柔らかな髪の毛を思い出す。

☞2

僕の生物学上の父は、お母さんと出会った頃は多少強引な性格ではあるけれど、優しい人だったと言う。お母さんと結婚する前の生物学上の父は、お母さんが仕事に行くと時や外出の際はいつでも車を出して母を送迎し、いつ戻るのかどこにいくのかを必ず確認し、防犯的な観点から外で不用意に自分以外の男と話してはいけないと言い、健康のためにあまり露出のある服は着ない方が良いと勧め、一日の終わりには今日は何をしていたのかと質問する電話をかけてきた。

出会いから1年足らずで2人は結婚し、それからすぐにお母さんは妊娠して僕が生まれた、お母さんは仕事を、小さな食品会社の事務をしていたらしいけれど、それを続けていたかったから僕を産んだときに育児休暇を1年の予定で取った、会社の人たちも、絶対に戻ってきてきてねと言ってくれたからと、でも生物学上の父はそんな育児休暇中の母に仕事を辞めるようにと言ってきた。

「君がカイセイを家でしっかり育てて欲しい、カイセイは手がかかる子みたいだし、何より俺の長男だ、それにこんな小さいうちから保育園に預けるなんて可哀相だよ」

僕のために用意した食事の嚥下を拒否して、そのほとんどをゴミにしてしまう僕に手を焼くお母さんに毎日こう言い続けたそうだ。離乳食を嫌がってお皿を投げる僕の横で、床にべったりとこぼれたカボチャのスープを這いつくばって片付けるお母さんを俯瞰しながら、口に放り込まれる前に僕が手づかみでテーブル中にまいたシラスをひとつひとつ拾うお母さんの背後で、それで母は、父の言うように仕事を辞め僕の育児に専念するようになった。

お母さんが専業主婦になってからしばらくして、生物学上の父は今度は突然生活費をお母さんに渡さないようになった。お母さんははじめ生物学上の父に『お金をください』と言いにくかったらしい、それで自分が仕事をしていた頃の貯金を切り崩して食事や日用品を買っていたらしいけれど、それも底をついてしまうと、仕方なく父に生活費をくださいと頼むようになった、すると生物学上の父は

「お前の生活費の為に俺がどんなに外で大変な思いをしているか、それにぶら下がって生きて、働きも税金も払わずにいるお前はいかに無能な社会の寄生虫で害悪であるか」

延々と母に説教した挙句、土下座をして生活費を渡すように懇願しろと言ってきた。

母が自力でお金を稼ぐようになるまで毎月続いていたというその儀式のようなものの様子を僕は何となく覚えている。いつも生物学上の父が嬉しそうに説教を始めると、生物学上の父からこの儀式の最中は正座を命じられている母はだんだん背中が曲がり、縮んで小さくなっていく、その姿を当時多分3歳だった僕は何が起きているのか、どうしてそんな事になっているのか細かい事はよくわかっていなかったけれど、お母さんは生物学上の父に酷くいじめられているのだと、そう理解していた。

それである日その儀式が始まった時、僕は思いついて、手近にあったゴルフクラブで生物学上の父をぶん殴った。

その様子を見ていたお母さんが言うには、僕は自分の背丈より大きなゴルフクラブを逆さにしてシャフトの部分を両手でしっかりと掴み、背後から生物学上の父の右側頭部を躊躇することなくフルスイングで殴ったらしい。

生物学上の父は、突然、自分の右側頭部に発生した強い痛みが一体何であるのか暫く認識できずに少しの間その場にうずくまっていたけれど、自分の背後にゴルフクラブを掴んで立っている3歳児を目視で確認し、事実を把握してから驚愕し、結果、頭部が裂傷していることにパニックを起こして、自分で救急車を呼んだ「息子に殺される」と言って。

5針程縫ったらしいその傷は結構長い間生物学上の父の右側頭部に残り、そのことで、生物学上の父はお母さんに「お前の育て方が悪い、あのガキは頭がおかしい」と言って、今度はお母さんのことを殴ったり蹴ったりするようになった。でもそれ以来、生物学上の父は僕にはあまり近づかなくなった。

そんな生活の中でお母さんは徐々に自尊心というものの枝も、葉も、根も枯らせていってしまった、思えばあの頃、お母さんはいつも顔色が悪くて声も小さくて元気がなかった。

それでも、毎日台所に立って僕が食べられそうなものを煮たり、揚げたり、蒸したり、すりつぶしたり、小さく刻んだりして工夫して作り、僕が一口でもそれを美味しいと言って食べてくれる瞬間を生きがいにしていた母さんは、台所と食卓と僕の間に起きる日々の事を密かに言葉と画像で記録することを始めた。『密かに』というのは、生物学上の父がそういう事を極端に嫌がったからだ、お母さんが生活の中に微かな楽しみを見つける事を。

「カイセイの毎日食べるものね、ホラ、カイセイは凄い偏食だしお父さんは生活費をあんまりくれないし、もう工夫に工夫を重ねて作ってたそのゴハンがね、毎日頑張っている間になんだか愛しくなってきてしまって、つい写真を撮ってそれでこっそり夜中に自分のブログを開設して毎日レシピをこつこつ打っては公開していたの」

お母さんの生きるための小さな糧になっていたそれはある時、料理の雑誌を作っているひとりの編集者の人の目にとまって、お母さんに宛ててこんなメールが送られてきた。

「はじめまして、この度、『偏食の子どもが食べてくれるレシピ』の特集記事の中で、貴方のレシピを紹介させていただけないかと思いご連絡を差し上げました。離乳食からこども食に推移する時の食の悩みやお子さんの偏食を創意工夫で突破しようと奮闘する貴方のレシピと文章の、私もファンです」

その人が、お母さんがその後、ずっと一緒に仕事をすることになる編集者のサカイさんだった。サカイさんは、お母さんの料理とレシピ、それとそこに少し添えていた日常のちょっとした日記のような文章を、膨大な量のインターネットサイトの中からひとつ、見つけ出して、それを「素晴らしいです」と手放しで褒めてくれたそうだ。

「貴方の作るものは本当にきれいでおいしそうで素敵、栄養もしっかり考えられているし、え?料理関係の仕事の方じゃあないんですか?これを独学で?本当ですか?スゴイと思いますよ」

「これ、毎日のお子さんの食事に悩んでいる方が喜びますよ、特にこの、煮込むとか漬け込むとかいう行程が無くて時間がかからないレシピなんかは特に、手抜き?誰がそんな事言うんですか?だって今、家族世帯の7割は共働きをしているんですよ?みんなこういう、ちょっと着替えて洗濯ものを取り込んでいる間に簡単に作れるおいしい料理のレシピが欲しいんですよ」

お母さんの作る料理のレシピはそのころ、思いついたらふすまに躊躇なくトマト缶の中身ぶちまけたり、家の前に停まっているウチの物ではない白い車をホワイトボードに見立ててマジックで細かく数字を書きこんだりする僕を始終見張っていないといけないという時間的制約があった為に、調理の行程が複雑で時間のかかるようなものがまず存在していなかった。

そしてそれが、編集者のサカイさんにウケた。

枯れかけていた木の根が水を吸うように編集者のサカイさんの手放しの賞賛の言葉を急激にそして大量に吸い込んだお母さんは、それまで生物学上の父から精神的に搾取され続けていた自信とか自尊心とか矜持とかいう類のものを突然取り戻し、そして

「もう私は手をついて生活費を貰わなくても自分でお金を稼いで暮らしていけるんだ、そうだ離婚だ、カイセイをつれて離婚しよう」

天啓のように脳内に『離婚』の二文字が閃いたという。

お母さんは切り替えが早い。

お母さんは、サカイさんの後押しを受けて、僕の為に書き溜めてきた料理レシピをどんどん発表し、請われれば雑誌やテレビにも少しずつ出るようになった。そしてお母さんの見た目がまた反響を呼んだ。お母さんは、一般的に言うと、とても美しい人だったらしい。らしいというのは僕にとってはお母さんはお母さんで、きれいとかそうじゃないとか考えた事もなかったからだ、今までもこれからも。

生物学上の父に長年「お前は無能だ」と言われて続けていたお母さんは、自分は本当は色々な事が出来るちゃんとした人間なんだと思えた事がとても嬉しかったんだそうだ、雑誌の掲載やテレビへの出演に伴ってお母さんの料理のレシピと写真を掲載したブログのアクセス数は跳ね上がった、そしてそれは一冊の書籍になり売れ、次いで食品会社のアドバイザーになり、スポンサーがついた、お母さんはものの数年で、生物学上の父の言うところの『社会の寄生虫』『害悪』『穀潰し』から生物学上の父とそう変わらないか、それ以上の収入のある納税者になった。

そしてもう自分1人でも何とか僕を抱えて暮らしていけると思ったお母さんは、最初に、そのころはもう出版社から独立して、お母さんと他の何人かのスタッフで料理の本や雑誌記事の編集やそれにまつわることの企画の為の事務所を作り、料理の試作と撮影用のキッチンのある小さなオフィスを借りて、そこの代表になっていたサカイさんに相談をした。

「あのね、実は私、カイセイを連れて離婚したいの、それでそういう時の手続きについて、詳しい人を知ってたら、教えて欲しいんだけど」

その相談をした時、初めてお母さんはこれまでの夫との生活を、すなわち僕の生物学上の父とのこれまでの生活を詳細にサカイさんに教えたそうだ。お母さんのことを「料理好きの幸せなママ」だとばかり思っていたサカイさんは、はじめ、お母さんが家で派手に夫婦喧嘩でもしたのかと思って、コーヒーを飲みながらお母さんの焼いたカボチャとクルミのクッキーを食べて話を聞いていたけど、その内容を聞くうちにみるみる顔色が変わり、ガチンと音を立ててカップをオフィスのステンレスのキッチンの上に置いて、こう叫んだ

「そんな大変な事、どうしてもっと早く言わなかったのッ!」

サカイさんは、お母さんとは年が丁度ひとまわり離れていて、その時、結婚はしていなかった。でも手元にはその頃大学生と高校生だった女の子が2人いて、その子どもたちの生物学上の父とずっと前に離婚していた。

サカイさんの離婚の理由と経緯は僕のお母さんととてもよく似ていた。サカイさんの夫だった人はサカイさんに生活費を1円も渡さず、サカイさんが仕事をしている事を嫌がってそんなくだらない事早く辞めてしまえと恫喝する、そういう類の人間だったそうだ。それでもサカイさんはずっと仕事を辞めずに続けていたのでお母さんのようにお金の為に土下座することは無かったらしいけど、帰りが遅いと殴られて、ゴハンがおいしくないと蹴られた。お母さんもサカイさんもそうだったけど、暴言や暴力を日常に絶え間なく浴びていると、普通の人間は、大変とか辛いとか自分の中の痛覚みたいなものが段々と麻痺していくものらしい。だからサカイさんはそのまま何年もそれを普通の事として暮していた、でもある日、小さいほうの娘がサカイさんの目の前で夫だった人に、食事中、床にパンくずを落としたとかそいう些細な事で躊躇も容赦もなく拳で顔面を殴られているのを見た時、サカイさんの頭の中に怒りとか誇りと勇気とかそんな感情が一気に再起動し、その次の瞬間、ガスコンロの上にあったル・クルーゼのあの重たい鋳物で出来たオレンジ色の鍋を夫だった人の顔面に投げつけ、離婚を宣言したそうだ。

実際離婚したのは鍋を投げた日から1年近くかかったらしいけれど。

そういう過去のあるサカイさんは、お母さんの話をうんうんと頷きながら全部聞いた後、涙を流して母さんのことを抱きしめてこう言った

「ごめんね、もう3年も一緒に仕事をしているのに、アナタが夜に出てこられないのはカイセイ君がちょっと難しい子で、人に任せられないからっていう話を全部信じてたのよ、稿料がもらえるようになっても着古した物ばかり着てるのも、一度、袖をめくった時、二の腕の内側にアザがあって「ぶつけたの」って言ってたあれも、その男のせいなのね、辛かったでしょう」

気づいてあげられなくてごめんね、私、いつからこんな人に痛みに鈍重な人間になったのかしら、本当に年なんか取りたくないわと言いながら、ティッシュで鼻をかみ、涙を拭いて、いつも持っている黒い大きなバッグから携帯を取り出し、その場で知り合いの弁護士に電話をして、離婚の為のすべてを手配した。

「編集者はひとつの企画において、決定、実行、調整連絡、その速度こそが優秀さの指標なのよ』とサカイさんは僕の家で僕を相手に立て膝でビールを飲んでちょっと酔っぱらって言っていた事があるけど、そして僕はその言葉の意味の大体しか分からなかったけれど、とにかくサカイさんは何を始めるという時、その決定と実行までの時間は1秒程度も無い程、何もかもが早い。

まず、サカイさんは、自分の元夫によく似た根拠の無い自尊心と無駄に強い支配欲と果てしない自己愛の持ち主である僕の生物学上の父が、そうやすやすと離婚を了承する訳がないとお母さんに進言した。

「そういう男はね、いざ離婚ってなった時に、これまで見向きもしなかった子どもをこちらに寄越せって言ってくるわよ。いい?あなたはカイセイ君を絶対手放してはダメ。そして相手のおかしな要求も一切のんではダメ。どんなに今、貴方の目が覚めていて、自分に自信があって、絶対離婚するんだって固く思っていても、貴方は長い間支配されていて、あの男の言う事を鵜呑みにして反論しないという事を刷り込まれてしまってるの、貴方が弱いとか悪いとかそういう問題じゃなくて、とにかく物理的に距離を置いて、あとはすべて弁護士を通してやり取りをしましょう」

それで、お母さんは、サカイさんとサカイさんが紹介してくれた弁護士さんの勧めに従って、過去、生活費を一切渡さなかった時期の事、そして、生活費を渡してもらうために土下座の強要と暴言と暴力を受けていた日々を僕の食事のレシピと共にメモされているお母さんの手帳と僕、そして、当座必要な荷物を抱えて、ある日の午前中に生物学上の父の名義になっている家から僕と一緒に家出をした。

僕たちが新しく住む場所はサカイさんとお母さんの事務所に程近い、ファミリー向けの賃貸マンションをサカイさんに保証人になってもらって借りられた。僕はその時、幼稚園の年長児のクラスに通っていて、それがサカイさんから言わせると

「学区に縛られている小学校に入ってしまうと動きにくくなるから、逃げるなら今よ」

あのお母さんがサカイさんにすべてを告白したその時が、千載一遇の時期だったのだそうだ。

その後の細かい事は僕にはよく分からない。そのころ、僕は6歳になる直前だから季節は秋だったと思う。生物学上の父とは3歳のあの日、僕が右側頭部をゴルフクラブで殴打してからほとんど会話をしたことが無かったし、そもそも僕は、あのひとが僕自身にとっての『お父さん』という生き物であるという事を認識していなかったし、興味も無かった。

ただ、このお母さんの離婚を巡る出来事でひとつだけよく覚えている事がある。それは、生物学上の父が、本当にサカイさんの言った通り、僕の親権をこちらに寄越せと要求してきて、そして僕の話を聞きたいから一度お母さん抜きで、僕に合わせろと言ってきた時のことだ。

生物学上の父が僕の戸籍上の父でもある以上、その要求を退け続ける事が最終的にことを離婚に運ぶにあたって決してプラスに働かないと弁護士さんから言われたお母さんは、僕の生物学上の父の要求を受け入れる事にした。ただし弁護士さんと僕、そして生物学上の父と、それから誰か生物学上の父側の立場でもない、お母さん側の立場でもない、もう一人中立の立場の人を立会人にして、僕とお母さんの家でもなく生物学上の父の家でもない場所にならカイセイを連れてきますという条件付きで。

面会のその日、約束の場所に向かう僕にお母さんは

「お母さんとお父さんが別々に暮らすことになっても、お父さんがカイセイのお父さんである事は変わらないの」

だから、カイセイが今どう考えているのかちゃんとお父さんに伝えてねと言った、お母さんのことは考えなくていいから、と。だから僕は生物学上の父との面会の為に、初めて見る白くて四角い建物の中の小さな一室に弁護士さんと入室して、そこの中央に置かれた細長い机の前にいくつか並んだパイプ椅子のひとつに腕組みして座っている生物学上の父の姿を見た時、

「もし、僕がお母さんと離れてお前のところに行くことになったら、僕は毎日お前のことを前のようにゴルフクラブで殴ると思う、お前が僕に背中を向けたら必ず、それじゃなければ眠った時を見計らって」

生物学上の父の顔を真っ直ぐに見て、よどみなく僕の正直な気持ちを伝えてみた。

そうしたら、僕の親権はすんなりお母さんのものになった。そして生物学上の父は、取り決めた筈の養育費をのらりくらりと言い訳をして一切お金を支払うことなく、ある時、ぷっつりと連絡が取れなくなって、以来、僕とは全く無関係な人になった。

でもそんなことは僕にはどうでもいいことだ。

僕にはお母さんがいてくれたらそれでいいんだから。

☞3

お母さんが結婚する前の苗字に戻って、僕の苗字も変わり、お母さんの新しい生活には特に何の問題も無かった。

お母さんは張り切って仕事をして、サカイさんはお母さんのための仕事を沢山貰って来た。お母さんが離婚したことについて、お母さんの仕事に特に悪い影響はなかった、大体お母さんはもともと仕事をする時に苗字を名乗っていなかった、本名を少しもじって片仮名にしたものが、お母さんの料理研究家で文筆家としての名前だった。離婚したという事実はお母さんのブログで報告と言う形で発表はされたらしいけれど、それによって1人で仕事をしながら子どもを育てている人達から突然、熱烈な追い風が吹いて来たりして、サカイさんは

「私が離婚した頃とは風向きが微妙に違うのねえ、時代ねえ、おもしろいわ」

と関心していた。

そして僕はその春に小学校に入学した。離婚の問題が無事に解決した後、お母さんが地域の公立小学校に僕を入学させる手続きをしようとしたとき、サカイさんや離婚のときにお世話をしてくれた弁護士さんは、アナタは芸能人ではないけれど、それなりにメディアに顔を出している人だから、カイセイ君には、今からでも近くの私立に空いている枠が無いか調べてみてはどうかと言ったらしい、でもお母さんは

「私立なんてウチには贅沢じゃないかしら」

と思って、普通の公立小学校に僕を入学させた。僕はそう言う事はよくわからなかったし、どうでも良かった、僕はお母さんが生物学上の父と離婚した日に僕に言ったように「お母さんと楽しく暮す」事さえできたらよかったのだから。

でも、この小学校は僕の生活に問題を運んできた。いや、そうじゃないかもしれないな、もともと僕の中にあったものを太陽の光の下に取り出してよく見てみたら、それがふつうの世界ではおかしなものだとはっきりわかってしまっただけなのかもしれない。

僕はもともと極度の偏食だったから、お母さんは入学の時に、僕の偏食が過度のもので、給食だと食べられる物が無いかもしれない、それでもし可能なら馴れるまではお弁当を持たせられないかと小学校に申し入れをしてみたらしい。でも僕の偏食は食物アレルギーとか摂食障害とかの病名のつくものではないし、正式な診断書のないただの偏食の子を1人だけ特別扱いはできませんと、お母さんの希望は退けられていた、学校は一応、配慮はしますとは言ったらしい。

入学式から数日を経て始まったその『給食』は、僕にとってそこに食べられる物があるとか無いとか、そういう事以前に、ああいう大きなバケツやタライに入ったぐちゃぐちゃした食べ物を小さい洗面器みたいなものに入れて同じ時間に同じ空間で集団で咀嚼して嚥下することの意味がまず僕にはよくわからなかった。そして、それを強要されることの理由も理解できなかった。だから「朝と夜はきちんと家でご飯を食べているので栄養については学校で気にしてもらわなくても大丈夫です、もしどうしても食べろと言うのなら、僕は白いご飯か、何もつけていないパンを少し食べるだけで十分です」と担任の先生に伝えた、そうしたら先生は僕にこう言った。

「どうしても食べられないものはひとつパスして、あとは少しで良いから食べてみましょう、そういうルールなの、クラスのみんなは、そうしているのよ」

クラスのみんながそうしているからと言ってどうして僕が同じようにしないといけないのだろう、じゃあ先生は、クラスのみんなが明日、全員ドッグフードを食べていたら、そしてそれが新しいルールですと言われたら、自分もみんなと一緒にドッグフードを食べるんだろうか。僕がそういう疑問を先生にぶつけると

「そういうのをへ理屈って言いうんです!」

先生は突然、怒りだしてしまった。それで僕は何故だかよくわからないけれど机の上に殆ど手が付けられなかった自分の給食のトレイを片付ける事を先生から許可されず、昼休みが終わって、掃除の時間になり、そして5時間目が始まってもまだそれを片付ける事を許されなかった。でも、そうすると教科書を広げるにしても、筆箱を出すにしても、給食のこの小さい洗面器みたいなものの乗ったトレイは邪魔になる、仕方ないので僕はそれを教室の窓から外に捨てた。小学校入学の時、この担任の先生本人から「授業の時に、机の上には余計なものを置かないようにしましょう」と言われていたからだ。でも、それを見た先生は「何をしているんですか!」と大きな声で僕に聞いてきた、だから僕はこう答えた

「授業が始まったら、机の上に授業に関係の無いものを置いてはいけないと先生が言っていたので、授業に関係の無いものを捨てました」。

先生はそれを聞くと僕の顔をまじまじと見て、少し口をパクパクとしてから、とにかく外に捨てた食器を拾ってきなさいと言った、僕は外の花壇の上に散乱した食器を拾い、職員室の前に置いてある給食の食器を下げておく大きな箱にそれを正しくきれいに並べておいた。

それから、1年生の国語の教科書には主人公の飼い犬が死んでしまう話が載っている。外国の小さな男の子と、茶色くて耳の垂れた大きな犬の挿絵が書いてあるお話だ。その単元が音読の宿題に出た時、僕はお母さんの仕事の事務所で、その時手の空いていたサカイさんにそれを聞いてもらっていた、そうしたらサカイさんは僕の音読を聞きながら突然涙ぐんでこう言った

「あたし、動物が死んじゃう話とかダメ、しかもそれを子どもの声で聞くなんて余計ダメ」

サカイさんの家にはチェダーという名前のマルチーズの雄犬がいて、その犬は14年生きて丁度その頃死んだ。僕も一度遊んだことがある。小さくて白くてたくさん芸のできる賢い犬だった。サカイさんはこの教科書のお話を聞いているとそのチェダーという犬の事を思い出して悲しくなるのだという。でも僕にはそれの何が悲しいのか分からない、犬の寿命は人間よりずっと短い、その寿命が自然にやって来て、そして自然に死んだというその事実の何がそんなに悲しいのだろう、僕はぽかんとしてサカイさんが眼鏡をはずして涙を拭いて鼻をかむ様子を眺めていた。

この頃から、僕は、僕自身が普通の人に標準的に搭載されている「正しい感情」というものをちゃんと持っていない子どもなのだということを少しずつ理解し始めていた。というよりは、だんだんと学校とか学校の同級生とか学校の先生とかそういう僕の皮膚に直接触れる世界の人たちが、彼らの言葉や行動で、そのことを僕の耳元まで知らせに来てくれた。

「お前は違う」

と言って。

だから、僕は注意深く、周囲の大人の言う事を聞き、クラスの同級生たちの行動を注視して、何が正解なのか、そして何が不正解なのか、今なにをしたらいいのか、何をしてはいけないのか、それを学習によってそれらを身に着けようと考えた、僕自身は多少、感情表現や言動に不正解を出したまま生活していても特に困らないのだけど、僕は、僕が学校で問題を起こしてしまうと、お母さんが色々と困る結果になるという事をちゃんと理解していたからだ。せっかく離婚して、仕事がうまくいって、生物学上の父と暮らしていた頃と違い、ににこにこと元気そうに暮らしているお母さんを困らせることを僕は全然望んでいなかった。

だから、ある日、休み時間の校庭で、同級生の女子と男子の間でドッヂボールの場所取りの小競り合いが起きて、1人の男子が女子の肩を小突いてその子が転び「痛い!」と言って泣き出して、他の女子がその男子に掴みかかり、それを見ていた外野の女子たちが「誰か止めて!」と言い出したその時に『喧嘩はいけない』という知識を持ち、喧嘩の仲裁は一般的には『正しい行為』だと理解していた僕は、水やり用のホースを花壇の脇の水道から引っ張って来て、その場にいた同級生に一番強い水圧で水を掛けた、1人残らず平等に。

突然何の前置きも留保も無く大量の放水を受けた同級生たちは喧嘩どころではなくなり、茫然としてその場に立ち尽くし、中の数名の子達は泣き出した。それを見た僕は喧嘩が止められてよかったなと思った。でも事態を聞いて職員室から駆け付けた先生は、女子を小突いた男子ではなく、喧嘩を止めた僕のことを顔を真っ赤にして叱った。

「どうしてお友達に水なんかかけるんですか!?みんなが風邪をひいてしまいますよ!」

少し曇り空の、空気の湿った5月の末の日ことだ、外気温の事を考えると、そうかもしれないなとも思ったけれど、僕は「喧嘩はいけません」という先生の言葉を遵守してその仲裁を実行した、だから僕はこう答えた

「喧嘩はいけない事だし、それを止めろと言われたので止めました、野良猫の喧嘩を止める時によく近所のおじいさんが猫に水をかけていたのを見ていたんです、おじいさんは喧嘩を放っておくとどちらかが怪我をしてしまうからと言っていました。誰にも怪我がなくてよかったです」

そう言うと、先生は余計に僕を叱った

「お友達は猫じゃありません!」

それでもうアナタには何を言っても仕方ないのね、と大きなため息をつきながら先生は言い、その日の夕方に、お母さんの携帯電話に直接電話をしてきた。丁度新しい料理のレシピの試作をしていたお母さんは、事務所のキッチンでその電話を受けた。

「カイセイ君は一体どうなっているんでしょう、学力には全然問題がありません、むしろ何をやっても学年相当かそれ以上のことが出来ています、とても頭のいい子だと思います。それなのにこのおかしな言動は一体何なんでしょうか、ご本人はわかってやっているんですか、だとしたらちょっとひどくありませんか、お母様もお仕事がお忙しいのかもしれませんが、お家でよく話し合ってみてください。でも、これがもしカイセイ君の自然な考えによる言動なのだとしたら、更に問題です、学校のカウンセラーか、市の児童発達支援センターでの相談をおすすめします、クラスにいる時もいつも無表情で…とにかく、ふつうじゃありません。」

その先生の甲高い声を黙って聞いているお母さんを、僕は事務所の隅の椅子に座って、温かいはと麦茶を飲みながら眺めていたけれど、キッチンに立っているお母さんの背中は少し曲がって見えた、それが僕に少し前、僕の生物学上の父に暴言や暴力を受けていた頃のお母さんを思い出させて、温かい麦茶を飲んでいる筈の僕の指先は何故だか冷たくなって、そこに少し、しびれるような感覚が残った。

「…はい、お水をかけてしまった子のお宅には私からお詫びさせてもらいます、申し訳ありません。でも、カイセイは喧嘩を止めようと思ってそんなことをしたんですよね?それでお友達が怪我をすると良くないからって、ええ、勿論やり方は相当間違っているんですけど」

「でも、先生、カイセイは表情の無い子ではありません、少しわかりにくいですが、嬉しい時は少し笑います、哀しい時には微妙に哀しい顔をします、少しわかりにくいだけで、あの子は優しい子です、ただ、あの子が誰かの為を思って行動した時、その方向性がちょっとふつうの子と違うだけなんです」

それってそんなにいけないことでしょうか、お母さんが電話に向かってそう言った時、お母さんの背中はちゃんと真っ直ぐ伸びていた、そして電話を切ってすぐ、僕にこう言った。

「カイセイ、今日、お母さんラーメン作ってあげる」

お母さんは電話の内容を僕に伝えるでもなく、そのことで僕を注意するでもなく、夕ご飯に僕の好きなラーメンを作ると言った、お母さんは料理研究家なので、何でも作る事が出来るけど、ラーメンと名前のつくもので僕が食べられるのは、サッポロ一番の味噌ラーメンだけだ。

「ホラ、カイセイが好きなやつ、インスタントの、それにコーンと、カイセイがこの前『これは食べられる』って言ってくれたお母さんの塩豚乗せて、最後にバターほんのちょっとね、あとモヤシは5本だけのっけていい?」

「ネギを回避してくれるなら、モヤシの5本は妥協する、お母さんはいつもラーメンに『緑がないのが許せない』と言ってネギを乗せようとするけど、僕はネギについては万能ねぎでも白ネギでも下仁田ねぎでも、とにかくどこの何でも、それを料理のどこにどう隠されてもダメなんだ」

と言った、そしたら

「ホラ、カイセイ、今笑ったでしょ、この笑顔はねえ、素人にはわからないのよねえ」

お母さんは僕がほんの少し口角を上げた事を、これがカイセイの笑顔なのにね、みんなも分かるといいのにね、と言って僕の顎を両手の手のひらで包んでフフフと笑った。

こういう時、僕が学校で、正解だと思って言葉にしたり、行動したりしたことが結局、同級生や先生を怒らせたり泣かせたりする結果を招いて、それを先生が電話で報告してくることは小学校に入ってからたびたびあったけど、そういう時、お母さんは僕のことを先生のような甲高い声でその態度を、言動を、考えを、今すぐ矯正しろというようなことを言わなかった。

「カイセイはいつも黙っているから周りの人にはわかりにくいけど、自分でもわかってないのかもしれないけど、本当は優しい子なのよ、お母さんには分かるの」

と言って学校から電話があった日にはいつも僕の好きな食べものを作った、その根拠は何なのか、そしてその自信は何処からきているのか、それは僕には分からない。ただその言葉を聞くと僕は『ふつう』というモノを学習しそれを自分の中の完璧に複製して、それでお母さんを困らせることなく、お母さんが僕に約束した『ふたりで楽しく暮す』それを実践していかなくてはいけないと強く思った。

でもそれをしようとして努力を重ねれば重ねる程、ふつうは僕の手の届かない遠くの場所に行ってしまうという事実が漫然とそこにはあって。それを考える時、僕は心臓を見えない誰かに軽く掴まれているような、痛いような苦しいような、その間位の感覚が体の中に発生する、これが『辛い』という感情なのかもしれないな、と僕は思った。

2に続きます。


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