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女の子を生きる

今、女の子を生きることは大変だなあと思う。

去年、受験生の親を初めて経験した。といってもそれはごく一般的な高校受験だ。公立中学校から第一志望を公立高校に定め、滑り止めの私立高校をふたつ受けるというもの。受験生の息子はなんとか無事に第一志望に合格し、電車に乗って元気に高校に通っている。

私は元々学習塾勤めで、それだから関西の私立高校については多少知っているつもりでいた。けれど勤めから離れて早十数年、いざ最新の受験情報を目の当たりにしてその勢力地図の変わりように驚いた。いくつかの私立高校が、大規模私立大学の付属高校になって名前が変わり、多くの女子校、もしくは男子校が共学化、京都のトップ男子校だった私立校が女子に門戸を開いていた。

世界の半分は生物学上の男でもう半分は生物学上の女なのだから、当然高校受験用の学習塾のどのクラスもその半分は女子であり、そこで女の子だから数学ができないとか、女の子だから英語が得意であるということは言われない、仮になんとなく男女に得意不得意の傾向があるとしても大きな能力的な差はない、皆同じ場所から同じ場所に向けて一斉スタート、とてもいいことだ。

それと並行して最近の女の子は皆とても綺麗だ。今年の3月の息子の卒業式、まだ公立高校の合否の出ていない3月の上旬、なんだか宙ぶらりんな気持ちで列席したそこで、男の子はうちの息子も含めて「あんた寝ぐせとかもう少しなんとかならんかったん」と言いたくなるような子が珍しくなかったのだけれど、女の子については

「最近の子は綺麗やねえ…」

と嘆息をつくような子が何人もいた。私が中学生の頃、女子中学生というのはもっとやぼったくて、ニキビも目立って、よほどヤンチャをしている子でなければお化粧なんかもってのほかという感じだったのに、あの時私の横を通り過ぎていったのはヘアアイロンで真っ直ぐに整えられた髪、透明のマニュキアの塗られた爪、ニキビどころか毛穴も見えない肌理の細かい肌をした女の子達で、息子に聞けば

「卒業式やったからか知らんが、ほとんどの女子が化粧をしていてビビった」

とのこと。そこにあるだけでただ瑞々しく美しい15歳の女の子たちは更に薄いお化粧をしていたらしい。

私は昭和53年生まれで、平成に学生時代を送り、小さな会社に就職し、30歳手前で結婚して、平成の終わりに子どもを産み終わっている。その間、男女は平等であると、そうでなければいけないんだという空気はずっと膨らみ続け、そして世間に定着していった。実際、年を経るごと子どもの送り迎えをしたり、保護者懇談にやって来るお父さんは珍しい存在ではなくなり、働くお母さんは当たり前の存在になった。私は今、一応専業主婦であるけれど、すでに自分のような人間は希少種になりつつある。

時代のベクトルが先に先に向かうごとに、女の子は自由になる。

どこで何を学ぶこともできる、どんな仕事もできる、自分の思う人生を選択しそれを目指すことが可能。

『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』

このように憲法にも記載されている。過去の女の子達が得られなかった夢と希望を理想の幸福のかたちを投影されて、今の、現代の女の子は形作られた。

のだけれど、どうかな、幸せ?

女の子も、当たり前に大学に行き、もしくは資格取得のための学校に行き、男子学生と肩を並べて就職活動をして、就職をしてキャリアを積んで実力をつけ、隙なく綺麗で輝いて世間を逞しく泳ぎ抜きましょう。女の子達は過去の女の子達の夢を背負い世界に飛び出していく。でも今、世界ってそんなに女の子に対して平等で開けているのだろうか。

ドラマや映画は当然、現実ではないのだけれど、現実を模倣したものであると仮定したとして、最近ネットフリックスで『地面師たち』というドラマを見た、というか現在進行形で見続けている。ドラマの評判とか評価とか、ピエール瀧さんの関西弁が胡散臭すぎるとか綾野剛さんは幸薄い役をやらせたら右に出るモンがいてへんなとかそれは置いておいて、そこに出てきた大手不動産デベロッパーの開発部フロアが、みんな大好き山本耕史さんを筆頭に男性だらけ、故に画面はグレーに紺に黒のスーツで真っ黒だったのだ。

この断片だけで、しかもフィクションのワンカットだけでは判断したらただのアホやろとは思うのだけれど、それでもフィクションはノンフィクションのエッセンスから作られるものだ。世界がかつての女の子達が夢見たほどは開けていないよというのもまた現実なんだろうなと、私は思ったのだった。

その世界にあって「男の子達に臆することなく勉強をして仕事をして、ついでにいつも隙なく綺麗で、キラキラ輝いていてね」なんて

「できるか―ッ!」

そう叫んで西の空に沈む夕日を追いかけて水平線の向こうに駆けてゆきたくなる状況が、令和を生きる女の子にはあるのではと、最近感じられてならない。

そして、この状況下では多分「できる女の子」というのが一番きつい。

頭も勘も良くて何なら根性もあるその子は周囲の期待に応え、進学をして、就職をして、それなりの業績を上げ、パートナーを見つけ、それでやっと「自分の人生を少し楽しもう」と思った頃は30歳かそれくらい、すると今度は周囲に明言はされなくともなんとはなしにある空気がその子の肌をちくちくと刺すようになる。

「子どもは?」

皆が唸るような難関大を突破し、誰もが一度は耳にしたことのあるような職場に勤めて、結局は男性が優位であることが染みついて抜けない世界であがきながらなんとか自分の立ち位置を作った後、更に求められるものが、これまでの努力とは全く違う方向にある『子ども』って。

『ちいさきものはみなうつくし』

そんなことは千年も前から言われていることで、自分だって分かっている、子どもは「大変そうだな」とは思うけれど憎いなんて別に思わない、友達の子どもや自分のきょうだいの子である姪や甥は可愛い、でも。

そういう物語を胸の中にそっとしまって、「でも今は自分で手いっぱいで」と曖昧に微笑むのが現代なのかなあと思う。

私は3人子どもを産んで現在進行形で育てている。3人のうちのひとりが難病なのですべてが順調で全部が万端というのには程遠いけれど、子ども達は皆可愛い。でも今の暮らしの中で自分が煌めくなんてとてもとても、毎日化粧どころか白髪を染めている暇もないし服なんか裸でなければそれで結構、旅行なんて病気の子どものことがあってもう何年もしていない、それでも子ども達に貰ったものはとても両手では数え切れない、最高に超ハッピーと言うのとはすこし違うけれど、私のささやかな、そして小さな幸福。

でも私にとってのこのささやかな幸福が、ある人々には暴力だったりもするのだ、逆もまた然り、世界はいつも幸福とその対として存在する暴力の均衡の中にある、それをいつも覚えておかないといけないなと思う。

ところで、つい最近「子どもは3000万円のサブスク」と言った方がいた。

それは確かにキャッチーすぎる程キャッチーで取りようによってはグロテスクな表現なのかもしれないけれど、もしかするとあれはご自身の中にずっと渦巻いている答えのない問いをふっと吐露しただけなのであって、別に冷笑的な、自身の対岸にある人々を揶揄しようと発した言葉ではないのじゃないかなと、私は思うのだけれど、どうだろうか。

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きなこ
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