黒洞々たる夜を駆ける下人とあの日の苺と。
「では、俺が引剥ぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、餓死する体なのだ」
下人は、素早く、老婆の着物を剥ぎとった。それから足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口まではわずかに五歩を数えるばかりである。下人は、はぎ取った檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
暫く、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起こしたのは、それから間もなくのことである。老婆はつぶやくよな、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そしてしてそこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
下人の行方は、誰もしらない。
『羅生門』芥川龍之介 1915年 帝国文学
日本文学史に燦然とその名を遺す、芥川龍之介。
その人がこの『羅生門』を東京大学、当時の東京帝国大学系の同人誌『帝国文学』に発表した時、若干23歳だったという。
早熟の天才、天賦の鬼才。
そして令和の今、41歳3児の母である私は彼に伝えたい事がある。
教育に悪いぞ龍之介。
文学としては珠玉。己と人間の極限と醜悪とをここまでありのまま描く事に躊躇はないのか龍之介、そしてその酷薄たる物語を美しく彩る文体よ、大体何だこの『黒洞々たる夜』って美しいかよ漆黒かよ、野生のひとり文芸部主婦とは3万光年以上あるすべての才の開きよ、とは言え俺は知っているんだ、龍之介が関東大震災の日、ビビりが過ぎて妻子を置いて我さきに自宅から逃げ去り妻から相当叱られた事を、そうだろう、龍之介。
この高校1年の国語総合の教科書に掲載されている事で馴染み深いこの作品は、『今昔物語集』第29巻の「羅生門の上の層に登りて死人を見たる盗人の語」を原話に「極限状態にあって人間はその【生】への執着から犯す【悪】を許容できるか、またすべきか」それを現代の我々に問う近代小説である。
ハイ、ここテストに出ます。
もっとわかりやすく有り体にそして下世話に現代に即して言い換えると
「人間は生死を分ける極限状態にあっては醜く奪い合いをするもんなんだよ、さっきまで老婆の不審な行動を問うた下人の義への勇気も、即座に生きるための悪事を行う悪の勇気に転じるんだよ、人間そんなもんだろ?未知の疫病が世を跋扈したらみんなマスク買占めんだろ?消毒液独り占めすんだろ?トイレットペーパーひと家族様おひとつに何度も並ぶんだろ?そんで転売すんだろ?」
という事を言っている。
「生きるなら正しい事ばかり言ってらんないよな」と常田大希も言っているよなKingGnu。
にんげんてよくない。
愚か。
それを己の内から掘り出してわざわざ文字にして物語にして人前にさらす龍之介の根性よ。
そしてそんな下人を私たちひとりひとりが心の内に飼っているという絶望よ。
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突然だが、Y君とそのママの話をしたい。
私の話の転換はいつも突然で留保も無ければそれに対する躊躇も無い。
馴れてくれみんな達。
Ý君とそのママの人生はいつもえらい事になっている。
大体Y君の出生のその日からドラマが過ぎる
「アタシ、普通に出産できると思ったら、出産直前もう産む!って時に先生から『お母さん!コレはウチでは無理です!市内の大学病院に搬送します!』って言われて~」
私個人が人生史上経験した3人分、3回のお産は、ウチ先天性心疾患児のここでは娘②と呼ぶ末っ子のお産も含めて全部短期決戦、平均所要時間4時間程度の普通分娩で特に事故もドラマも何も無かったのでこのY君のママの
『お産ぎりぎり待ったなしのその時、突然ここでは手に負えないですと担当医から宣言されたY君のママの分娩が緊急で土壇場で急を要しすぎて
【ドクターヘリ】
で県内の大学病院まで搬送された』
という話には度肝ぬかれたものだった。私はドクターヘリに患者として乗った事がある人に出会ったのはこれ迄の人生史上このY君のママだけで、じゃあスタッフとして搭乗していた人はあった事あるんかと言われると私も高度医療の砦に住まう心疾患児の母、これが意外とある。
それはいいとして、このY君のママのドクターヘリ搭乗の感想が
「折角のドクターヘリなのに右を見ても左を見ても、山Pが居なくてすごくすごく残念だった」
という事で、強い。
それは残念だったね、コードブルー。山下智久君は居なくても浅利陽介君は居なかったですか、私と最近11歳になった息子は浅利陽介君が好きなのだ、相棒でへそ曲がりかつシニカルな警察官の青木役をやっている彼、サイバー犯罪対策課。
そんなコード・ブルー。救急搬送それも空路搬送での誕生を皮切りに、これは超個人的な事になるので詳細は避けるが、というかY君は娘②とはそもそも疾患の個所もそのケアも背負っている障害の状態も程度も全く違うので私も詳しい事はわからないのが真実なのだ超専門外。兎に角、心臓とは全く別の治療フィールドの中で、手術に次ぐ手術、入院からの入院、偶にリハビリ入院の10数年、入院手術の延べ回数は20回超、その事を記録した彼の母子手帳はページを増設してとんでもない厚さになっている。
そう、Y君とそのママは疾患児・障害児業界では、私のずっと先輩なのだ。
この業界に足を踏み入れて未だ2年、娘の入院回数10回未満の私など全然彼女の足元にも及ばない。
このY君の状態はいつもとても揺らぎやすくて、偶にラインがY君ママから入ったと思ったら
「今から自家搬送」
「どうも入院になりそうです」
「このまま手術だって~」
という、ちょっと今から息子と実家帰省して2、3泊することになったわ位の馴れた感じで連絡が来るのだが、その入院手術を引き受けている病院というのがY君の自宅から高速を飛ばしてゆうに2時間はかかる他府県なのだから恐ろしい。
Y君はその病態と症状と経過が特殊過ぎて自宅のある県内ではない他府県のそのかかりつけ病院に居る専門医しか診る事ができないのだ、普段から同じ病院にかかっている私と娘②はその先生を知っている、高名な医師らしく堂々とした威厳ある長身で白髪交じりのナイスガイ、いつもテノールの凄い美声で
「今回のこのシャント(ここでは人工血管など体内に入れる人工の管の事)はすごいんですよ!感染予防の為の抗生物質が練り込んであるの!」
という何それ、練り込んであるとかうどんかよ、逆に怖いわ、ということを嬉々として話す、医師とは、特に優秀が行き過ぎて突き抜けているタイプの専門医というものは一般の私たちから見ると偶にというか大体マッドだ、そんな先生。このY君のママはいざという時このドクターの元に我が子を即搬送しかも自力でという離れ業をたった一人で敢行しているのだから同じ疾患児のママというカテゴリーの中にあっても、私とはその力量も度量も根性も私とは桁外れなのだ。本気で尊敬に値する。
ついでに、このY君のママは私より少しお姉さんで、したがって親御さんもそれなりに健康が心配なお年頃、このY君の度重なる入院手術の間にその親御さんの入院も重なったりしていて、Y君はそれなりにお兄ちゃんなのだけれど、身の回りの事には介助が必要、何よりママが大好き、傍に居ないと夜も明けないというタイプの子なので24時間付き添いが必須。尚このY君は一度手術入院になるといつも軽く2~3カ月入院する、そして普段自宅から通っている学校は院内学級に転校になる。
ママ、身体がいくつあっても足りない。
最近も、というかここ数日前からも自家搬送で入院手術という一大イベントを一人で絶賛実施中、ついでに頼みの旦那様は最近少々怪我をしたらしい、それも結構な重傷、それを
「もう~メッチャたいへん~!」
それを『私の人生最早ネタ』的に連絡してきて本当にもう何故なのですか神よ、そしてどうして暗くならないのかY君ママよ、とにかくすごい、この半生だけで朝ドラが撮れる、脚本は古沢良太氏でお願いします。
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そんなY君とY君のママとの出会いは、娘②が生まれて約3カ月お世話になったNICUを卒業し、そのまま同じフロアの廊下をベッドごと移動して小児病棟に転棟した数日後、様子見のPICUから大部屋に引っ越しをしたその時で、
その日その時私は最高に暗かった。
人生初の長期付き添い入院、色々情緒発達に問題だらけの当時小3の息子と、未だママと寝るのと言って夜中まとわりついてくる当時年長の娘①を自宅に置いて。
傍らにあるのは、手術の予定が遅延に遅延、ぎりぎりでいつも生きていたくはないけど、そうぜざるを得ない24時間持続点滴、常態的に低酸素、それが辛いと覚醒中は常に泣きわめき、経管栄養の管を鼻から垂らした顔色の悪い当時生後3カ月の娘②
入院生活を明るく楽しく過ごせる要素が1ミリも無い。
正直しんどい、もう帰りたい。
それでもう誰とも顔を合わせずカーテンを閉め切ってやりすごそうと思っていたのだが、この娘②が泣くわわめくわ終いには吐くわでとても居室に籠城などできない、誰か助けて。それにこの大音声は周りの患児と付き添いママに迷惑千万だろうと、おどおどびくびくしながら、向いのベッドの患児の付き添いママにこの騒音を詫びねばならないだろうと声をかけようとしたら
「あの…」
「あー!うちの子煩くしてごめんなさいね?大丈夫?」
この時のこの人がY君のママで、Y君はこの時、数日前に受けた手術の術後の状態があまり芳しくなく、食事は絶食に次ぐ絶食、それが辛いと夜にしくしく泣いたり、怒ったりしていたので確かにその声は私の耳にも入ってきていたが、ウチの娘②の爆音に近い大音声に比べたらそれは本当に些末なことで、大体娘②なんて、いつも冷静で多少のことでは眉ひとつ動かさない事で有名なマイ主治医にして往年のイケメン小児循環器医Y先生が
「…よう泣く子やな」
とあきれ返っていたのだから相当なモノだった筈なのに、このママは先に「ごめんね~」と私の謝罪を先手の謝罪で制した。
「ウチの子が煩くてごめんね」というのは、多分方便で、付き添い入院超初心者の私が気にしていると思って先に謝罪という形で「お互い様だから気にしないで」と言ってくれたのだ。
この事から始まってこのひとは万事この調子で、くるくるダイヤル回す方式の旧式な病棟の電子レンジの使い方から、病棟のナースのチーム分け、あの先生が心臓の外科の先生だよという事まで、本当になんでも教えてくれた上
コレ食べる?眠れた?あ、今日教授回診だから教授がシールくれるよ。
その親切の距離が絶妙で押し付けがましくなくて、何より、あの入院したら近隣のベッドのなかまたちから聞かれるコレが最高に困るという
「なんの病気で入院しているの」
この手の質問を一切しない、こちらが話しをするまでは絶対に。
これは長く疾患児や障害児を育てている人がその育児の過程の訓練と鍛錬によって身に着ける事の出来る呼吸のようなものなのか、だがしかし、疾患児母歴2年の私には全然その絶妙さが搭載されてない上、今後身についていくような感じが微塵も醸されてこないのは一体どういうことなのか。
何より、その新米病児母を励ましてくれるそのY君のママこそが、その当時半年近く入院しっぱなし退院が一体いつになるのか皆目不明な状態で、私なら閉塞感とその先の見通しの無さから病院から裸足で遁走したくなるそんな暗中模索の渦中、それでもY君のママは「まだYは自力で動かないし、大人しくしてたら外に買い物にもいけるから」
と下界に降りてスーパーでイチゴを買って来て私に差し入れてくれた、ビタミンを取りなさいと。
この時私はこのひとは菩薩か如来の化身に違いないと思った。仏よ、たぶん住む世界間違ってます。
「乳児ちゃんのママは一番外に出られないから」
優しいを通り過ぎてもう尊い。
Y君のママと私を比べたら、当時の私はまだ入院1カ月未満、しかも自宅は病院から徒歩でも帰宅できる距離、その気になれば夫と交代して自宅に日帰り可能ときては
「あんたなんかまだましよ」
と言われても全然そうですねほんとですねなんかスミマセンというのが実情だったにも関わらず。このひとの親切な態度は娘②が手術、そしてその間にY君が無事退院するその日まで一貫して変わらなかった。
そして今も、我が子がもう人生通算何回目か数えるのも大変、そして夫も怪我で入院という状況で
「娘②ちゃん元気?大丈夫?」
と聞いてきてくれるのだから、体調とその安否を気にされるべきはウチの娘②じゃなくてY君のママだと思うのだが、このひとのこういう所は本当に変わらない。
やはりこの世のものではないのでは、なんかもう怖い。
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Y君のママのあのやさしさと、他人の傍らに絶妙な距離感で寄り添っていられるあの感覚は多分天性もののようにも思えるが、それでも、後天的な要素も少しはあると思うというか私もなりたいんだあんな風に。
「後天的」と思うそのエビデンス、それは長く病児に付き添い、そして術後感染、再手術、病状の悪化、我が子の死線を共に歩んだことのあるパパとママは割とその程度や感覚の差はあれど、皆あのY君のママ的なものを持っているから。
例えば、我が子の手術がリスケになった時、その理由が他の子の緊急手術だったら
NICUのクベース(保育器)が満床で、押し出し式に、我が子が普通の新生児用のコットに移床になったら
PICUのベッドが足りなくなるので、一般病室での付き添い入院を前倒して欲しいと言われたら
割と皆、それぞれの事情を何とか繰り合わせて、我が子は大丈夫でしょうか本当は早く手術してほしいんですけどという気持ちを何とか喉元で飲み込んで「わかりました、その子を優先してください」と答えていてえらい凄い何なんみんなして。
でも、それは、その優先すべき状態になった子とその親御さんが今見ている地獄の景色を、自身もまた見たことがあるから。
緊急手術、予定外の早産、突然の状態悪化からの緊急入院。
苦労は無駄に繰り返すとひとはしおれていくが、地獄を一度通り過ぎとてしまうとひとは明るくなる。
ような気がする。
それは病児育児に限らず。
あのかつて己があった辛く苦しい渦中にあるひとにやさしくしありたいと思うようになる。
と思う。
人間とは自分とは鍛錬と練達とあとはほんの少しの愛みたいなもので羅生門のあの下人を飼いならす事ができるのだ。と思う思いたい。
極限状態が人間の醜悪と酷薄を如実にあぶりだすというのなら、皆がその極限状態を飼いならしてしまえばいい。
他人の不幸を喜ぶような傍観者の利己主義を飲み込むためには、まずそこにある地獄を飲み込んでしまおう。
例えば今この状況を。
理性と英知とハサミは使いよう。
これは主に、いい年して色々足りない自分に言っている。
そして私が今この世に疫病と共に跋扈する下人の化身に言いたいことはただ一つ。
消毒液と衛生用品買い占めた挙句転売しその流通を市場からせき止めたヤツ
おまえは七たび生まれ変わっても地獄に落ちる。