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失せ物。

うちの一番上の息子は、見た目も性格も趣味嗜好も、どこを取っても私に少しも似ていない。

数学が得意で、グロタンディーク素数を含む素数を愛し、トリビア・クイズが大好きで、高校生の男の子の割に食が細く(中学生の妹より食べない)、かなりの偏食であり、いいヤツなのだけれど、他人の心の機微にやや疎い。

今年の冬、受験シーズンの真っただ中の2月、この人がまずは1校目の受験校である私立高校を受験した時、国語の試験で源氏物語の第九帖「葵」が出典の問題が出た。そこで息子は六条の御息所がどうして葵上をあれほど呪うのか、何が彼女を生霊にさせてしまったのかが皆目わからなかったらしい。お陰で初手の国語で出鼻をくじかれた息子は、滑り止めとして確実に受かる選択をしているはずの高校を「落ちるわ…」と言いつつ帰宅、そして受かった。

でもその試験から合格発表までの数日が彼にとって相当ストレスフルだったらしい、以来、私の本棚の源氏物語を見ると毎度憎々し気な顔をして、「チッ」と言うようになった。「人の子は母の胎を借りて世界に生まれたもので、母と子は全くの別人格」という生命の理を体現しているような人だなと思う、とは言え、そんなにオカンの好きな紫式部先生を嫌わんでもええやんけ。

そして今、私に全然似てないこの人は春から通い始めた府立高校に、関西随一の人外魔境(※私見)、梅田を経由し電車を乗り継いで通っている。片道1時間半の通学時間も、人身事故による電車の遅延もなんのその。昔は3秒目を離すと川に落ち、道の横断は赤信号お構いなしの、三途の川に迷いなく飛び込む系幼児だった人も、年を経るごとにちゃんと成長するものだとちょっと感心する。

しかし、未来永劫の幸福がこの世に無いように、世界に完璧な人間というものはない。この人類、とにかくよくものを無くすのだ、またそれを「無くした」と気が付くのが本当に遅い。

9月最初の月曜日、体育の授業は水泳だった。

体育の授業が水泳の期間、私は「明日、体育ある?」と帰宅した子ども達に毎日必ず聞く。小学1年生の末っ子はもう夏休み前に水泳の授業が終わったからいいけれど、中学生の真ん中の娘と高校生の一番上は9月になった今も下手をすると連日水泳の授業がある、そうなると持ち帰った水着は直ぐに洗って朝までに乾かしておかなくてはいけない。この確認をうっかり怠って洗濯を翌日に持ち越すとある悲劇が起きる。

爽やかに晴れた夏の朝「俺、今日2限目体育なんやけど、水着は?」とか言われるのだ。そうなると洗う前かもしくは洗ったばかりでしっとり濡れた水着を極限まで絞って差し出すしかない。そして「えー…」と物凄い嫌そうな顔をされる。いやそんなこと言ったってさ。

だからこの日も、息子が帰宅して即「明日体育は?水着は?」と聞いた。

「ああー…、水着忘れて来た」
「え、じゃあ明日どうするん」
「いや、明日体育ないし」
「なら明日は必ず持って帰ってきてな」

うっかり学校に置いて来てしまったらしいそれを「明日は必ず持って帰って」と私は念を押した、常温で保管された使用済みの水着は夏場ロッカーの中で発酵して大変危険だ。そしてここまではウチによくある日常のひとコマだった。

しかし翌日、水着は私の手元に届かなかった。それどころか

「なんか、昨日電車の中に置き忘れたっぽい」
「き、昨日?」

なにこのタイムラグ。

普通は電車に乗って降りた瞬間、手に持っていたトートバッグが忽然と消えていたら「あれ、俺バッグ置いて来た…?」とか思わへん?そして駅員さんに「どうしたら…」とか聞けへん?とは思うものの、1773年のボストン茶会事件の折、海に投げ入れられた茶箱の数を正確に覚えていても、自身の所有物には全く頓着しないのがこの人であるというのを、私はよく分かっている、まずは落ち着け。

「どこで無くしたと思う?何線?」
「○○線」
「最悪買い直さなあかんとしたら、水着って学校でいつも販売してるんかな?」
「わからん」

水着の紛失が発覚したのは火曜日の19時半、水着が入用になる次の体育の授業はこの翌々日の木曜、1日猶予がある。息子は「この線で無くしたと思う」と某私鉄を指名はしたものの、前述の通りこの人は興味のない事柄を一切記憶しない。それで私はとにかく乗っている私鉄地下鉄乗り入れしている路線すべての「お忘れ物センター」に、ナイロンのトートバッグに入った男子用水着が届けられていないかを問い合わせた。

ところで忘れ物センターの対応は各社それぞれ。某私鉄は、雲雀丘花屋敷の奥様がアルバイトにでも来てはるのですかという上品な対応ぶりで、対して某大阪メトロは「お腹の具合とか悪いん?」と思しき程のテンションの低さ。でも大阪メトロの覇気のないオペレーターさんは

「乗り入れをしている線にもお問い合わせしたほうがいいかもしれません…」

と親切に教えてくださったので、本当に体調の悪い方だったのかもしれない。そして教えてもらった乗り入れ路線のお忘れ物センターの窓口はLINEだった。お友達登録をした後、遺失物の内容をLINEで問い合わせるとほどなくして返信が来る。あなたとこんな形でお友達にはなりたくなかったな。あともうひとつの私鉄については全く電話が通じなかった。出て、電話に。

現場百回、調べつくした各線遺失物検索の結果はいずれも「該当しているものはありません」。親切な人がきっと届けてくれているはずという私の希望は、ここで打ち砕かれた。

(男子高校生の水着を喜んで持ち帰る人の手元にうちの子の水着があったら嫌だな…) 

そんな不穏なことを考える間もなく(ちょっと考えたけど)、即時に「それなら新規購入」という方向に思考を切り替えなくてはならないのが本案件。学校の水着を販売している会社はどこやったかなと、入学時に配布された『入学のしおり』を引っ張り出した、するとそれは我が家から物凄く遠い場所にあった。乗り換え3回、駅から徒歩15分。そしてしおりによると本来学校指定の水着を在校生が購入する場合、その旨を販売元の会社に伝え、最短で翌日のお昼休みに販売元の担当者が学校に水着、もしくは体操服を販売に来てくれるものらしい、だがしかし

「体育の授業って、木曜の何時間目?」
「2時間目」

間に合わへんやんけ。

水曜のこの時点で直接会社に行けばすぐに水着は手に入った。けれどそこは息子本人が放課後直接出向いても会社の営業時間に間に合わず、私が出向くと末っ子のお迎えの時間に間に合わないという距離にある。ああもう無理、アンタ中学校の時の水着持ってって先生には「学校の水着は無くしました」って言いなさい。白旗をあげようとしたその時、ダメ元で問い合わせた販売元の方がこう仰った。

「ほしたら、時間に間に合うように学校にお届けします、1時間目と2時間目の間の休み時間ですね!」

水着本体とラッシュガードと水泳キャップひと揃えをたったひとり分売った所で、それを営業さんをひとり使って社用車で学校に届けさせたらフツーに赤字だろうところ、先方は「そういうの、厳しい学校ですしねえ」と、販売時間外に届けてくださったのだった。こうして息子は無事、1時間目と2時間目の休み時間10分の間に新しい水着を手に入れ、体育の先生にシバかれることなく、無事にことなきを得た。めでたし。

ありがたいやら申し訳ないやら。

翌日、私はこの会社の方に菓子折りを送った。息子を育てるにあたってはもう何度繰り出したかわからないこの『お詫びの菓子折の術』。勿論手紙も添えて綺麗に包んで熨斗紙もつけた。表書は「御礼」。

手紙には、拙宅の息子が大変に御面倒をおかけしまして申し訳なかったですということと、それから本来であれば親が会社の方に出向くべきなのですけれど、自宅には今回ご面倒をおかけした本人とは別にちょっとした障害のある子がいて、その子の傍を長時間離れることができないのです、故に本当に助かりましたということを書いた。

そうして週末に月曜指定で発送したそれは、月曜の午前中に先方に届いたらしい。先方からは

「いやァ奥さん、こんなご心配いりませんのに、またどうぞ御贔屓に、よろしくお願いしますぅー」

大変折り目正しい大阪弁で御礼の電話をいただいた。関西の人は「ありがとうございます」とか「お願いします」を特に電話で言う時「ますぅ⤴」と上がり調子になる、私はこれが割と好きだ。そして今後も御贔屓にはさせていただきたいのですけれど、こんなことは二度と無いように気をつけますので、ええほんまに。

こうして水着が消えて数日、一連の問題解決業務はすべて終了。健康で体が丈夫なことは大変に有難いけれど、この手のトラブルが大変に多い、というか終生無くなりはしないだろう息子には「問題を起こすな」よりかは「人様への義理を欠くな」と教えよう、こういう時に手を貸してくださる方の厚意に必ず感謝を伝えること、それを教えなくてはと思った月曜の晩、息子は見慣れたトートバッグを持って家に帰って来た。それ、無くしたて言うてたやつでは。

「なんかなー、隣のクラスにあったんやて」

あったんやて、何やねん。

どうも「電車に置き忘れた」というのは勘違いで、息子はバッグを自分のクラスと隣のクラスの境目あたりに放置していたらしい、それを隣のクラスの誰かが「お、うちのクラスの奴が廊下にバッグを置き忘れとる」と自分のクラスに放り込み、それが置かれた机と机の隙間で「あれは隣の席のヤツの持ちモンやな」と、そこにいる互いが勘違いして数日が経過

「なあ、これオマエの?」
「ちゃうで」
「え、じゃあ誰のなん?」

そういう会話が発生してやっと「これ、隣のクラスのヤツのやん」ということが発覚、行方知れずの水着入りトートバッグは無事、息子の元に届けられたのだそうだ。その会話、火曜日にしてほしかったなあと思いつつその言葉は喉の奥にぐっと押し込んで、私は息子に言った。

「それ、届けてくれた子にちゃんとありがとうって言うた?」

いいですか、君の人生、人様への義理だけは欠いたらあかんのよ。


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きなこ
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