ついてこんといて
うちにいる6歳の人は、夏休み前から、近所のそろばん教室に通い始めた。
自宅のある集合住宅の敷地内にある小さな集会所で、私より一回りほどお姉様である上品なマダムが週に2回、夕方から晩にかけて開いているそこは、6歳の人と6歳違いの姉も、9歳違いの兄も通った場所だった。
私は、自分自身が「5歳の時、自転車から落ちて頭を打ったからだ」と結論づける程計算が不得手なもので、小学校の時分から算数の成績が大変悲惨だった。子どもらにはその二の足を踏ませたくない、それで近所にそろばん教室があると聞きつけた9年前、まずは年長児だった一番上の息子を、次いでその2年後に年中児になった真ん中の娘を、「とにかく行きなさい」と、碌に説明もせずほいとそこに放り込んだ。
それから数年後に生まれた3番目の子も、同じようにできたらと思っていたのだけれど、3番目の子は先天性の疾患があって、乳幼児期は「病院に居る方が家に居るより長い」という案配の生活を送り、這う這うの体で3歳になるまで3度の手術をこなし、やっとのことで幼稚園には入園させたものの、そこでも他のみんなと一緒に、とはいかなかった。
疾患由来の体力不足で走るのも躍るのも周回遅れ、みんなとのお散歩はベビーカーか車椅子に乗って。
その上普段から自分の背丈の半分はある医療用酸素を積んだ酸素ボンベをガラゴロと引きずって歩いているもので、習い事をさせようにも、例えばピアノの個人レッスンはなんとかなっても、水泳とか体操なんかの運動系は絶対無理だし、教室に出向いてそこでみんなで一緒に一斉に、というタイプの習い事もちょっと厳しい。「お稽古事」は見ないことにして放棄して、幼稚園時代を過ごした。
入園前に一度だけ、あまりに出かけるところが無さ過ぎて、同じ年頃のお友達ができなくて、「これでは健全な精神の育成が…」と思いつめた私が、リトミック教室の体験に連れて行ったことがあるけれど、みんながしていることについていけるどころか、ものの数十分でクタクタのへとへと、Spo2はダダ下がるし、まあまあ悲惨な結果となった。むしろどうしてそれができると思ったんや自分。お陰様で
(体力皆無、幼稚園に半日通うだけで精一杯な子に、これ以上何をやらすねん)
そういう気持ちがずっとあったし、この6歳の人は、文字の読み書きを覚えるのが上の2人と比べると、ちょっと、いやかなり遅かった。
そのことを「それでも、普通の幼稚園に通えているだけで大ラッキー」と思いながら、しかし時に「体力面以外はほぼ普通なのだから、いずれ問答無用で健常の子の中でほぼ普通の子としてやっていかなあかんのよな」と、その遅れを不安に思いつつ、虎穴に放り込むような気持ちで入学させた地域の小学校。
そこで6歳の人は、国語では『書く文字すべてが予想を超えたダイナミズム』と私が評す文字を書き、平たく言うと文字がいちいちでかすぎて、それで苦戦を強いられた。多分手の巧緻性の問題、不器用さ故だと思うのだけれど、名前の記入欄に苗字しか入らない。加えて短文を書こうとすると横書きを右から左に書き、縦書きはマス目に逆らって斜めになり、6歳の人の兄からは「アラビア語ならOKや」と妙な慰められ方をしていた。
しかし算数については、10の補数をさらりと記憶し、ほぼ初見で挑んだ足し算と引き算をそこそこちゃんとこなす。回答欄に記入する数字は相変わらず大きすぎてはみ出してはいるけれどそこはそれ。どうやら数字が好きらしい。できないことは赤んぼくらいできないが、できることは人並みにできる、そんな6歳の人。それなら、できる事を伸ばしてあげたらいいのでは。
できないことを「なんでできへんの」と追求するとへそを曲げるのがヒトの子との常というものだし、かつてその行動理論が通常概念の斜め上すぎて普通級をクビになりかけた兄にも「でけんことはちょっと置いといて、まずは好きなことだけしたら」という方針を貫いてきた私は(結果よかったかどうかはまだ不明)、そろばんのマダム先生にメールを送った。
真ん中の娘が小学校を卒業して、そろばん教室も同時に卒業となった3月、私はマダム先生に「本当は3番目の娘もお世話になりたかったのですけど、ご存知の通り病気で、どうしても他の兄姉と同じようにはいきませんので…」と言って、菓子折り持参でこれまでの御礼と挨拶に行ったのだけれど、それからわずか3ヶ月で、私は掌を返した。
「やっぱり3番目の子も入れてください」
とは言っても上の子らの恩師であるマダム先生は、かつての教え子の妹である6歳の人が、常に医療機器を持ち歩かないといけない先天性疾患児だと、それこそ赤ん坊のころからご存知な訳なので「そうはおっしゃられましても体調のこととかございますでしょう…?」とお断りがあるのを、この時の私は半ば覚悟していた。
「まあ、ではとにかく一度体験に」
そう言われてお教室に出向いた時も、「8」の数字が横にぱたんと倒れて「∞」になり、9のシッポが横にびよんと伸びてオタマジャクシになり、その上酸素ボンベを狭い教室に持ち込んであちこちにゴンとぶつけたりする病児を一体受け入れてくれるのか、8割方は「あかんかな」と思っていたのだけれど先生は、至極あっさりと
「じゃあ、来週からお教室にいらしてくださいね」
慈母の微笑みで6歳の人の入室を許諾してくださったのだった。
どうやら6歳の人が産まれた頃、姉の送り迎えに付き合わされていた赤ん坊の6歳の人の姿をマダム先生がしばしば見ていたことが、むしろ功を奏したらしい。「お病気なのは知っていますけれど、こうしてお顔を見るお元気そうですし、ちゃんと座って授業も受けられますし」。
こうして6歳の人はマダム先生の門下生となった。
「うちの3人兄弟が全員、おんなじ近所のそろばん教室に通うことになりました」
これはただそれだけの出来事ではあるのだけれど、6歳の人が兄と姉の成育歴を同じようになぞることはかなり難しい、ほぼ不可能なミッションだろうと予測していた私個人の喜びは、思った以上に大きかった。うっかり短歌を詠むほどに。
教室に通っていいよと君が言ったから、7月5日はそろばん記念日。
とは言え、酸素ボンベを引きずりながらそろばんの入ったリュックを背負う娘のことは、例お教室と自宅が徒歩3分の距離であろうと、途中から野放しだった上の2人のようにはいかない、ずっと私が付き添い守らねばと思っていた。それがつい昨日
「ママさあ、もうついてこんといて」
と言われてしまったのだ。なんで?なんでついてきたらあかんの?私がはうざい彼女のように6歳の人に訊ねた「あたしたちいつも一緒だったじゃない」。
「だって○○君とか、○○ちゃんはひとりでお教室に来て、ひとりで帰るんやもん、うちだけママのお迎えとか、幼稚園の子みたい」
ついこのあいだまで幼稚園児やったくせに、何を言うねん。
どうやら、この界隈に住んでいるお友達がたくさん通うマダム先生のそろばん教室には、6歳の人と同じ小学校でかつ同じ集合住宅に暮らす子が結構在籍していて、その子達は、お教室が自宅の敷地内にあるという気安さから、ひとりで歩いてお教室にやって来て、そして終わるとお友達と連れ立って帰るのだと言う。それ、お母さん知ってた、お兄ちゃんもお姉ちゃんも、そろばんの後お友達と遊んで、なかなか帰って来いひんかったし。
だからと言って、他の子は持たない大荷物(酸素ボンベ)を携えて歩く6歳をほんの数十メートルでもひとり歩きさせるのはどうなのか。
せやけど6歳は、ほらボンベとかあるやん?無理やん?と私が言うのを、一体誰に似たのか頑固な6歳の人は「大丈夫」と言って聞かず、一人でそろばん教室にぽこぽこ歩いて出かけて行った。
心配性の私はその数メートル後をそーっとついて行ったのだけれど。でも集会所まで歩く間、6歳の人はくるりと振り返った視線の先に母親の姿を見つけると、野良犬を追い払うみたいに「シッシッ」と手の甲で私を追い払う仕草をする。
オマエは親をなんだと思ってる。
結局、夕方から大雨の降ったこの日、傘を持って迎えに行った私をまたシッシと振り切り、雨の中を駆け足で帰る6歳の人を追いかけるという形で、私達は家に帰ってきた。この6歳の人の「自分はなんでもみんなと同じようにできる」という確固たる自信はどこから来るんだろう。そしてそれを「やっぱりなんか違うみたい」と気づく時、6歳の人はそのことをどう思うんだろう。
この先ずっと考えていかないといけない課題を前に、6歳の人は「うち、来週もひとりで行くし」と張り切っている。この子の未来には『どう頑張っても他の人と同じようにはできないこと』がいくつも待っている、今はきっとそれへの猶予期間だ、親の方は、わかっているんだけど。
ただ、それがわかるようになるまでは傍若無人で無鉄砲な、無敵の6歳でいてほしい。
できれば、できるだけ長く。
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