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小説:タイヨウの家

母は、ノックをしないで部屋に入って来る。

「なんですかァ、時生さんは大学を辞めはったんですかァ?」

そしてドアを開けた瞬間、手に持った十年来の相棒である掃除機のスイッチをブォンと入れ、ついでに「大学辞めたんか?」と聞いた。

「…そんなことない、三講目からやし」
「フーン、おかあさん未だにようわからんのやけど、学校って朝から行くもんちゃうの?隣の美里ちゃんは毎日朝から行かはるやん」
「美里ちゃんは、高校生やからや」
「ええ?だってあの子毎日私服で出掛けはるで」
「美里ちゃんの高校は制服がないとこやねんて、俺、この前も言うたやん」
「そやった?」

母は、酷く忘れっぽい。隣家の高校生である美里ちゃんは、母の脳内で日によって大学生になったり、中学生になったり、酷い時は小学生になったりする。

「いいから起き、そんで早う朝ごはん食べて、片付かへんから」
「うぃ…」

もそもそとベッドから這い出し、部屋を出てヨロヨロと階段を降りる。僕の体重で木製の階段がキシキシと音を立てる。ここ、少し痛んできているのかもしれないな。

僕が暮らしている地域一帯は、一九六〇年代に関西周辺地域から大阪の中心部に大挙して流れ込んだ労働者の居住地として開発された大規模ニュータウンだった。かつてそこにあった一一六〇haの広大な丘陵地は切り崩されて、当時の最新設備を設えた団地が白い菓子箱のように並んだ。居住者は当初の計画で十五万人。一九七〇年の大阪万博の頃には若い夫婦と子どもで溢れたそこも、二〇〇〇年に入った頃には居住者の高齢化に伴って人口は減少の一途を辿り、その後大手ゼネコンが再開発、売り出した三十区画の住宅地が、今僕が寝起きしているこの家になる。

角地に建つ三十坪二階建て、築二十二年の木造住宅は、かつての白い外壁が黄味がかったアイボリーになり、小さな庭で母が丹精していたモッコウバラは去年とうとう二階の屋根に到達した。落ち葉で雨どいがしょっちゅう詰まる。

「パン?ご飯?」
「うー…ごは、いややっぱパン」
「ほんなら自分で焼き」
「えー、じゃあなんで聞くん」

去年母が商店街のくじ引きで当てたバルミューダのトースターが家にやって来てから、母は朝食に白飯とパンを両方用意するようになった。それはいいのだけれど、朝食のおかずが和食オンリーだった頃と変わらず、納豆だったり、レンコンのキンピラだったりするので、パンを焼いて席に着いた後「で?これどないするん」という事態が頻発する。今朝も母自慢のトースターからパンを取り出して席に着くと、食卓にはししとうをちりめんじゃこと炊いたのと、大根おろしが乗っていた。

母は、献立の方向性が、ややおかしい。

というか、母は僕の反応を面白がっているのだ。こちらに背を向けている母の肩が少し小刻みに揺れている。

「やられた…これでパン食って、食い合わせ悪すぎじゃ」
「いや、意外とこのシシトウをパンに乗せるのはアリやで」
「うわ、真治さんいた。え、まじで?どうしてんのそれ、バターとか塗った?」
「うん、トーストにバター塗って、ほんでそこにシシトウ乗っけて、ちょこっとだけ七味振ってみ?」

珍しく8時半を過ぎた時間にまだ家にいた真治さんは、いつもの眼鏡の生真面目そうな顔で、ししとうを甘辛く炊いたヤツをパンに乗せて、それをコーヒーと一緒に生真面目そうに咀嚼していた、それで僕もそれを真似してみたけれど見事に味が分離した。まず。

「いやこれシシトウと、パンと、バターと、ちりめんじゃこの味が全部喧嘩してむしろマズない?大体シシトウってほぼ味ピーマンだし」
「うんまあ、そうやねんけど」
「騙した?」
「うんまあ、そうやねんけど」

真治さんは普段大体「なにひとつおもんない」という顔をしている癖に(本人曰く「そういう顔なんや」とのこと)、この手のしょうもない悪戯を仕掛けてきては僕を騙す、妙なところが母に似ている。

「時生、アンタ今日は学校から真っ直ぐ帰って来るん?ご飯は?」
「いや今日はバイト、夕飯はあったら食べる」
「なんぼ時給がええからって、倉庫でバイトってなァ、アンタ昔から体が弱いねんから、お母さんそういうのやめてほしいねんけど、塾のセンセイとかやったらええのに」
「体かったのは昔、今の俺は風邪もひかへん、それに倉庫バイトって言うても、別に重たいモン持つわけちゃうんやで、ピッキング作業やし、あと子どもにベンキョー教えるとか絶対むかん」
「ピッキングて、なんやのそれ、泥棒?」」
「ちゃう、とにかくなんも心配いらんし。あ、そろそろ遅れるから行ってくる」
「ハイハイ、ほんでも気ィ付けてな、アンタ昔からぼんやりしてんねんから。昔、万博記念公園の夢の池に落っこちたんは時生さん、アンタですよ」
「え、そんなことあった?」
「ありました。忘れたんかいなあの大事件を。あっ、今日アンタの好きなキャベツメンチやしな」
「お、やった」

完全に味の分離したシシトウとちりめんじゃこを乗っけたトーストを口に詰め込み、それを牛乳で胃の中に流し込んで僕は席を立った。僕と一緒に真治さんもゆっくり席を立ち、玄関に向かう。僕が「外した方がいいって、ださすぎやし、アタマに当たるし」と何度母に言っても絶対に外されることのない玉のれんが、長身の真治さんの額をコンと打った。

「陽太、別にバイトとか、せんでもええのに」

家から駅までの道のりは大人の足で歩いて十分。この町ができた頃、けやき通りに沿って植樹され、今ではすっかり巨木となったイチョウ、ケヤキ、クスノキ、トウカエデ、ニセアカシア、ポプラ。それらが道のあちこちに濃い木の陰を作ってはいるものの、それでは太刀打ちできない程、今年の残暑はちょっと厳しすぎる。僕は黒いキャップを目深にかぶり、強い陽射しが濃い影を作るアスファルトをじっと見つめながら歩いた。隣を歩く真治さんが僕に言った。別にバイトとか、せんでもええのに。

「でもその、えっと、こう…住むとこと食うモン貰って、大学も行かせてもらってるし、小遣いくらいは自分でしようかなって、お母…奈緒子さんも『携帯代は自分で稼ぎなさい』って言ってるし」
「別にオカンの言うこと聞かんでええで、どうせ言うた傍から忘れてくやろ。大学、環境都市工学部って、二回生になったら実験とか実習とか多くて結構忙しいんちゃうん?」
「まあ経済とか文とかよりかは忙しいけど、単位は落としてないし、バイトくらいみんなしてるから大丈夫。それより時生君が万博記念公園の池に落ちたって、あれ本当の話?」
「そうや。時生が小二の時や、あいつが風邪こじらせて、二ヶ月入院して退院して、退院三日後やったかな。家族で万博記念公園に遊びに行ったんや。そこで時生が乗りたいて言うから公園にある池でスワンボートに乗ったんやけど、そしたら時生のヤツ、はしゃぎすぎてボートから体半分のり出して、それで池にドボンや。それでまた風邪ひいて病院に逆戻り。ホンマに迷惑なヤツやったわ」
「でも、それなんか可愛いね」
「そうか?まあ確かに俺より可愛気はある奴やったけど、めっさアホやったで。生まれてから何回も入院して手術して退院して、単位制の高校を四年かけで出て、それから更に一年浪人したんや、あの頃もうだいぶ体にガタが来てて、それでもやっと受かった大学の入学式の直前に心不全起こしてあっさり死んでしもたんや、ホンマ、真正のアホやったな」

真治さんが僕に時生君のことを話す時、真治さんは必ず「あいつはアホやった」とか「迷惑なヤツやった」と言う。

園田真治さんの弟の園田時生君は五年前、二十歳で死んだ。

時生君は産まれた時、左右に分かれてそれぞれ機能しているはずの心臓の、左側の機能が殆ど無かったらしい。それと心臓に流れ込むいくつかの血管の閉塞と狭窄。何万人にひとりあるか無いかと言われる奇妙な形状をした心臓に支えられていた小さな命は、四半世紀前のこの国の医療技術では、出生からほんの数年生きられるかどうか、泣くことすら命取りになる、ひどく脆弱なものだった。

当時まだ存命中だった時生君のお父さんと、今も元気なお母さんは、その弱くて小さな時生君をなんとか大人になるまで育ててやりたいと、日本中の子ども病院と大学病院そして医療センター、とにかく時生君の病気の専門医がいる病院をあちこち訪ねて歩き、そこで「この子は何とならないのでしょうか」と聞いたそうだ。時生君の八歳違いの兄である真治さんが当時を振り返って曰く

「オトンもオカンも、ちょっとイカれてたな、二人とも時生のことで手もアタマも一杯で、家中滅茶苦茶やった。時生になんかあればすぐに両親二人で病院やし、ええ医者がいるって聞いたら時生を連れて即現地入り、俺八歳やのにひと晩くらいフツーに放置されてたしな、今なら通報案件や」

時生君と真治さんの両親は、全国の病院を訪ね歩く傍ら何冊も医学書や海外の論文を読み漁り、最終的に時生君が三歳の時、当時国内に入ってきたばかりの新しい術式を施術できる医師が国内にいることを知り、その医師が在籍する大学病院にほど近い土地を買って家を建て、時生君の治療環境を整えた。

家族全員をそんな嵐の中に巻き込んで、土地を買い家を建て転居をし、そうして掴み取った手術とその後の治療は、両親の希望通り、時生君の成人までの未来へと繋いでくれた。

「でも時生の受けたオペってな、今、その界隈ではまあまあメジャーなんやけど、無茶苦茶な荒業なんやわ。簡単に言うと心臓周りの血管をつなぎ直して、動脈血だけを心臓に通して、静脈血を直接肺に送り込む形に作り変えるねん、まあ、素人が聞いたら無茶振りやて思うやろ。玄人が聞いても割とそう思うねん。どうしてそれで肺循環が成り立って人が生きられんのか説明すんのが難しい。それに、これやと身体の小さい子どもの内はええけど成人なると心臓の機能自体が弱ってくるか、肝臓とか腎臓とかあとは腸なんかが故障してくんや、時生の場合は心臓の機能自体がダメになった」

結局、時生君は心不全を起こし、二十歳で世界から消えてしまった。

それから五年後、ダミーの園田時生は築二十年超、三十坪二階建ての二階北側の六畳の和室に住み、自宅の最寄り駅から電車で三駅目の私立大学に通っている。丁度、時生君達一家がこの土地に越して来た頃に改築されたらしいその駅は、四角い阪急線の駅舎と、昔の特撮映画の秘密基地のようなモノレールの駅舎、ふたつが交差するようにして造られている。駅の名前は『山田』。

「なんで南千里と、北千里に挟まれた駅が『山田』なんだろなァ…」

駅まで直線的に続く道を、時々真治さんと言葉を交わして歩き、そうして駅舎が目に入ってきた時、僕はそんなことをぽつりと呟いた、独り言だ。すると隣の真治さんはフフッと笑った。

「え、あ、今のは僕の独り言」
「あ、ごめんな、ちゃうねん。それ、時生も昔全くおんなじこと俺に聞いたことあったんや。『兄ちゃん、なんで北千里と南千里の間が突然山田なんや、中千里ちゃうん』ってな。だから俺が教えたったんや、昔ここ一帯は昔山田っていう土地で、なんやったかな、三島郡山田村か、それの名残で南千里と北千里の間が山田なんやって。まあ元々ここに住んでた人からしたら、自分達の住んでた土地の名前が跡形もなく消えるって、きっと寂しいことやってんやろな」
「へー…」
「あと中千里って駅名にしてしもたら、千里中央の立場はどないなるねんて」
「ああ…」

時生君と八歳違いだった真治さんは、僕とは十三歳年の差がある、兄にしてはやや年の離れた三十四歳の人は、いつも僕に優しい。

「ほしたら。俺今日は確実に家には帰れへんから、戸締りとか頼むわな、陽太」
「今日って日勤当直?」
「日勤当直、下手したらも一回日勤や。あでも、もしオカンのことでなんかあったら、すぐ電話して」
「わかった」

僕の本当の名前は藤巻陽太という。園田時生君とは全く別人で、時生君とも真治さんとも、僕がお母さんと呼んだあの人とも、赤の他人だ。

万博記念公園の『太陽の塔』を初めて見た時、僕はフードデリバリーのバイト中で、中古の原付バイクに乗っていた。街路樹がどれもやけに大きく育ち青々と茂る外周道路の右手側、通りよりもさらに大きな木々に囲まれた、深い森の中に突如、巨大な建造物が泰然と、いや不気味に立ち尽くしているのを見た僕は、その巨体の虚無の表情に気を取られ、車道と歩道を隔てているブロックにタイヤを擂って派手に転倒、近くの大学病院に運ばれる羽目になった。

一瞬で世間を席巻したコロナウイルスで、世界が混乱の渦中にあったこの頃、件の塔が感染状況に合わせて時に緑の光に、時に赤の光に照らされていた晩秋のこと。連日、医療機関はどこも戦場で状況はとても逼迫していると報道され、巷の健康な若者が軽い怪我や体調不良で病院に行くことが憚られる、そんな空気が重いガスのように世間に充満していた時のこと。

その状況下で、若くて何の既往歴もない僕が、原付バイクで転倒した程度の怪我で事故現場から一番近い大学病院をすぐに受診できたのは、薄暗い道路脇に転がって呻いている僕に「大丈夫か?」と声をかけてくれた親切な人が真治さんで、真治さんがその病院の勤務医だったからだ。

真治さんの車で病院に運ばれた僕は、救急と書かれた自動扉の前で体温を計測され、「そこ痛いか、ちょっと腕曲げてみ、背中捲って見てもええか、名前は、今日って何月何日かわかる?」などといくつか質問を受けて、それに特に間違いなく、明瞭に応えると

「ウン、意識レベル0、骨折の可能性もないし、縫合の必要もなし、熱発もなし、肘に擦過傷」

白衣を着た若い男の人にそう言われて、その後僕は真治さんに案内される形で建物の中に入った。連れて行かれたのは診察室ではなく、薄暗いホールの隅。そこで僕は真治さんに肘の擦過傷を消毒してもらい、清潔なガーゼで創部を包んでもらって、それから転んだ時にヘルメットのバックルで切ったらしい顎の傷に、ポケットから取り出した絆創膏を貼ってもらった。それが何故かアンパンマの絆創膏だったことについて、僕は特に触れなかった。その間、真治さんは何度も僕の顔を覗き込んでは、軽くため息をつき、時折不思議そうに首を傾げたりしていた。

「あの…お医者さんですか?ここの?」
「ん?どやろな、そう見える?」
「はあ、まあ…」

真治さんはこの時、日勤明けで帰宅途中にオンコール、呼び出しがかかって病院に戻っている途中だった。

「あの、持ち場っていうか、病棟?には行かなくて大丈夫なんですか?」
「いや、来てみたら全然大したことなかったって、ようあるヤツやったから」
「あ、そうなんですか。それであの、怪我の治療とかしてもらってからこんなこと言うのもアレなんですけど、僕あんまお金が無いって言うか、保険証とかそういうのもあの、今手元には無くって」
「ああ、別にええよ、これ別にちゃんと受診してる訳とちゃうし。だってさっき君の腕とか足見て、折れてへんのちゃうかーて言うてたヤツな、あいつ医者と違うで。RTて、レントゲン技師や、俺の友達」
「え、そうなんですか?」
「うん。骨折してそうならレントゲンやなと思って、たまたまそいつがそこにおったから声かけたんやけど、別に折れてへんみたいやし、きみ意識もはっきりしてるし。せやからこれは俺がバイクでこけたきみを勝手にここに連れて来て、ほんで勝手に傷口に絆創膏張ったってだけのことや。所謂余計な親切っていうか」
「すみません…」
「ええって、きみ学生さん?」
「あ…えっと、浪人中って言うか、いやフリーターって言うか…ちょっと大学はもう無理かなって言うか…」

僕はちょっと言葉に詰まった。この時、僕は高校卒業後、進学も就職もせずに名古屋の実家を出てきていた。それで自分のことを誰も知らない土地で自活しながら何とか大学に進学先できないかと、アルバイトをしながら浪人生活をしてみたものの、高校を出ただけで何の資格も、せいぜい原付免許しか持っていない18歳の自分は、慣れない土地で生活にただ追われるだけ、とても受験勉強にまで手が回らなかった。

僕の時間は食うための労働にその殆どが投じられ、日々はさらさらと砂のように流れて季節は秋の終わり。すっかりプロレタリアートが板につき、確実に勉強不足で高三の冬より確実に学力が落ちているだろう自分を鑑みても、僕が僕自身をただ生かすことだけが今の自分の限界であることを考えても「進学は諦めようかな」と思い始めていた。

「無理って、金銭的な問題ってこと?親御さんは?いてないん?」
「親はいるにはいるんですけど、ちょっと頼れないって言うか、僕が学費も何とかしないといけなくて、まあ…だから金銭的な問題なんですかね」
「そっか、なんやしらんオッサンが急に立ち入ったこと聞いてごめんな」
「あ、いいえ」

真治さんは僕と会話をした後、ほとんどの照明が消え、壁に間接照明として配置されているライトがまばらに灯るホールの天井をじっと見つめて、それから僕に向き直り、思いつめたような顔で「頼みたいことがあるんや」と言った。もし僕がそれを承服してくれたら、そしてそれを実現できたら、それは僕にとっても自分にとっても、誰にとっても悪いことにはならないと。

(この人、一体なにを言ってんだ)

この時の僕はかなり不審そうな顔で、真治さんの顔をのぞき込んでいたはずだ。

「俺、別に怪しいモンとは違うから」
「それは分かりますけど。だってお医者さんなんですよね、ここの」
「それは、わからへんけどな。さっき言うた病棟からの呼び出しも、放射線技師の友達も全部ウソで、実はこの病院に勝手に出入りしてるニセ医者かもしれへんし、人身売買とか臓器売買のブローカーかもしらんで」

思えば真治さんは、初対面のこの段階でこの手の「なんそれ」という突っ込み待ちの冗談を僕に言っていた。本人が言うにはそれは「場を和ますため」だそうだけれど、時にそれは全く逆効果だったりする。この時は特に。

「そんなことある訳ないじゃないですか、園田真治さんって言うんですよね、小児科、医師、えっと小児循環器科…」

僕は、真治さんが首から下げている病院の職員IDカードを指さし、そこに印字されている小さな文字を読み上げた。真治さんは「うわ俺、ツメが甘いなァ」と言ってIDカードをひっくり返してにやりと笑い、それを見た僕も少しだけ笑った。真治さんはともかくこれはきみにとっては悪い話ではないし、自分はそんな怪しいものではないので、できたら前向きに検討してほしいと言った。

(いや、普通に怪しいけど)

実際、高校を卒業した春に大阪に来てからフードデリバリーのバイト中に配達先で知らない男の人に「どう?」と人差し指一本立てられたとか、その手のことに巻き込まれそうになったことが無かった訳でもなく、実際にヤバイ目にあったこともあった。にもかかわらず僕は自分のスマホをデニムのポケットから素直に取り出して、真治さんが自分のスマホ画面に表示したLINEのQRコードを読み取っていた。

「えっと、じゃあ来週の夕方6時くらいに、えっと…山田駅ですか」
「うんそう、着いたら連絡して」

真治さんが指定した待ち合わせ場所は僕にとって全く初見の私鉄駅で、そこに真治さんが車で迎えに来てくれると言うことだった。僕は冷静に考えると確実に怪しくて、高確率で犯罪に巻き込まれそうなこの展開を拒まなかった。

あの時、僕は寂しかったのだと思う。

真治さんの指示通り山田駅に降りた僕を、真治さんは予告通り紺色のミニバンで僕を迎えにきて、しんと僕は静かな住宅地の中の小さな白い家に運ばれた。あ、ここですか、うんここや。

「まーまー古い家やろ、えーと築二十三年かな」

確かにそこは新築の香りの全くしない木造住宅だった。けれど門扉や外壁には何度か塗り替えられた跡があり、よく手入れもされていたし、小さな庭は雑草が丁寧に抜かれ綺麗に掃き清められていて、庭木もそこに植えられた花も生き生きとしていた。その年の夏、植木屋で日給一万円の草刈りバイトに精を出していた僕は、そこに植えられている草木のいくつかに見覚えがあって、そのひとつひとつをそっと撫でながら家の敷地の中に入った。玄関アプロ―チのシュウメイギク、玄関横のシマトネリコ、南側の壁を覆うモッコウバラ、北の端のハナミズキ、穏やかに優しい草木が生き生きと茂る、幸福そうな家。

大阪に住み始めて八ヶ月、すこしも身につかない関西弁で「なんか…ええとこって感じですね、高級住宅街って言うか」と僕が言うと、真治さんは「別に、そんなええもんちゃうで、もう随分年取った街の、経年劣化著しい中古住宅や、今売りに出しても新築当時の半値にもならんかもな」そう言って笑った。そして今からこの中に入るのだけれども、その前にいくつか知っておいてほしいことがあるのだと僕に言った。
「中に小太りのおばちゃんがおるねんけど、その人が出て来たら、何を言うても適当に、できたら関西弁でハナシを合わせて欲しいねん、きみのことは『時生』って名前呼ぶと思うねんけどな、うん、多分。そう呼ばれたら普通に返事したってほしいねん」
「ここ、この園田って表札、ここって真治さんの家なんですよね、だったらその六十手前の小太りのおばちゃんていうのは…」
「俺の母親、オカン」
「じゃあ、時生って」
「三年前に死んだ俺の弟。でもオカンは死んだと思ってない。実際に時生本人はちゃんと…ちゃんとていうか、この前きみが怪我した時に連れて行ったあの病院な、あそこで看取って、その後ちゃんと家族で葬式もしてるのやで、そやけどオカンはその事実を全部、自分の脳みそから綺麗に消去してしもた。オカンはまだ時生が病院に入院してるか、日によっては進学するはずやった大学に通ってるって思い込んでる」

記憶障害の一種だと、真治さんは言った。

二十年間、奈都子さんがその命を賭して守り生かしてきた時生君が、持って生まれた病を理由にあっけなくこの世を去ってしまった時、奈都子さんは自分の足で市役所に行って死亡届を記入し、死亡届をコピーし、次いで火葬許可証を貰い、葬儀屋と打ち合わせをして、時生君が入学するはずだった大学に本人死亡の連絡をして、その後の葬式では喪主の妻として弔問客の前に立ち、弔問に来た時生君の主治医や友人達に折り目正しく挨拶をしている。

でも、そうやって弔問客や親戚を全て見送り、香典やら遺骨やら葬儀の荷物一式を抱えて自宅に帰ってきた奈都子さんは、疲れ切ってリビングのソファに沈んだ長男と夫を尻目に、そのままいそいそと喪服の上にエプロンをして台所に立ち、野菜かごから玉ねぎを掴んだところで「時生、お母さん今日忙しかったしクタクタやねん、もうカレーでええ?」と、誰もいない二階に向って叫んだ。

「知ってる?そういう時の人間の目って、ものすご澄んでるんやで」

玄関ポーチに立つ真治さんが僕に背を向けたまま静かにそう言った時、僕は思わず体を半歩後ろに引いた。しかしその僕の腕を真治さんは後ろ手で瞬時に掴み、もう片方の手で玄関扉を躊躇なく開けた。

―がちゃん

玄関から真っ直ぐに伸びる廊下の奥には昔、おばあちゃんの家にあったものと同じ木製の玉のれんがぶら下がり、その隙間からは僅かに光が漏れていた。靴箱の上にはハワイっぽいの木彫りの女の子の人形と、肩を組んだふたりの男の子の写真。無邪気に笑う少年のひとりは十代後半と思しき真治さんで、小学三、四年生位に見えるもうひとりの子は、なんだか誰かに似ているような気がした。

「時生、帰って来たん?」

隙間から眩い光のこぼれる玉のれんの奥から出てきた人影が、僕のことを『時生』と呼び、それからお腹は空いていないかと聞いた。僕が戸惑いながら「す、すいてる」と答えると、人影は「そうかァ」と弾んだ声を出して、僕に洗面所で手を洗って来るように言った。背後からの光で、その表情はあまりよく見えなかった。

「今日なァ、あんたの好きな鮭のお寿司やねんで」

人影はそう言うと、くるりと踵を返して光の奥に戻った。一呼吸おいてから、僕は僕に背を向けている真治さんのフリースジャケットの袖をつんつんと引っ張った。

「あの、これ、この状況で僕はどうしたら…」
「うん、せやから、きみにこの家で時生の代わりをほしいんや。さっきも言うたけど俺のオカンな、死んだはずの息子がまだ生きてて、この家で暮らしているもんやて思い込んでるねん。何度も説明したんやで、でも理解も納得もしてくれへん。何回いらん言うても毎日時生の分の飯作って全部腐らすし、時生が大学病院に入院してるって思いこんでる日は病院に行って、関係者以外立ち入り禁止の小児病棟に勝手に入ろうとして追い返されてるんや、それがもう二年続いてる。半年前にオトンが死んでからは俺一人が監視役で、ヘルパーさんを頼んだんやけどオカンがいらんて返してしまうし、もうちょっと限界やねん」
「いやでも、時生をやって欲しいって言われても、僕はその時生君をひとつも知らない訳だし、何をどうしたらいいのか」
「別に特別なことはして要らんねん、ただここで普通に学生やりながら時生のフリして暮らしてくれたらえんや。だって今オカン、きみのこと見て迷いなく『時生』って言うたやろ。俺も最初きみの顔見て驚いたんや。きみ、弟の時生とほんまにそっくりなんや。なで肩のとことか、猫背気味の姿勢とか、ああそのちょっと癖毛のとことかも、とにかく細かいとこまでホンマによう似てる、骨格が似てるからやろなァ、声まで似てるわ」

真治さんは死んだ弟の身代わりとしてここで暮らすことを、仕事として僕に依頼したいと言った。

「別に時生のフリなんかせんでええねん、オカンとの会話なんてたまにオカンの言うことに『せやな』とか『しらんけど』て言う程度でええ、どのみち大学生の息子なんて、いうほど母親と話なんかせえへんやろ」

報酬は衣食住の提供と、僕が進学する大学の学費全額。

普通じゃない、常識的に考えてあり得ない、誰が聞いても怪しい。

でも僕はこの依頼を受けることを決めた。それは、真治さんにこういう、やや入り組んだ事情があるように、僕にもちょっとした事情があったからだ。僕が「やります」と言うと、真治さんはその場で、僕の引っ越しの日程を決めた。

「こっちに越してくるの、都合つくようならもう来週でええかな、急な引っ越しやからちょっと大変かもしらんけど、費用は全部こっちでもつから、かかった分、領収書とか出してくれたら俺が現金で払うわ」
「あ、はい」
「それと、現住所が変わるとか、そこが個人宅やとか、それくらいはきみの実家に伝えとく方がいいんと違うか」

その週のうちに、僕は上新庄に借りていた穴倉みたいなアパートを引き払い、ダンボール三つ分の荷物と共に、シマトネリコの揺れる白い家の住人になった。この時、真治さんはこの珍妙な状況を包み隠さずきみの実家に伝えるのは流石に憚られるのやけれど、住所変更の件だけは教えた方がいいんじゃないかと僕に強く勧めた。それは礼節とか常識とか義理とかそういう話ではなく、僕が今も親の扶養に入っているのなら、僕の医療保険証の住所変更をしなくてはいけないだろうという、極めて医者らしい理由だった。

「僕、実家から保険証、持ってきてなくて」
「え、向こうに置いて来たん?じゃあ保険証ないまま暮らしてたってこと?」
「はい」
「そんなら余計連絡するぞ、急な怪我とか病気で入院することになったらどないするんや」
「いやでも、僕、親とはずっと話してないっていうか、ちょっとややこしいタイプの親で」
「ややこしい親なら俺はその点、専門家や。もし親には所在を伏せて欲しいてことなら、俺の職場の住所伝えとくから、ほら番号、教えて」

真治さんは、僕の実家に連絡を取った。そこで一体なにをどう婉曲に、かつ歪曲して伝えたのかは分からないけれど、翌週には実家から僕の保険証と両口屋是清の干菓子が真治さんの職場宛てに届けられた。

真治さんによると僕の母親から、八ヶ月間ほぼ音信不通だった息子への格別の言葉はなかったそうだ。それに真治さんは少し戸惑っていたようだけれど、僕は別にそれでよかった。完全に忘却されているか、初めからいないことにされている方が、まだ救いというものがあった。

以来、僕はこの家で、園田時生を演じながら暮らしている。

母は、気軽に人を殺す。

「あれっ?なあ時生、この人死んでへんかった?」
「え、誰が?この芸人さん?いや死んでへんやろ、だってこれ生番組やし」
「だってこの人この前、肺炎やなんかで死なはったてニュースで見たんやけどなァ、お母さん」
「それは違う落語家の人、屋号…アレ?亭号ていうのかな、それが同じなだけやから」
「そうかァ」

朝、リビングのソファでコーヒーを飲みながら、晩に夕飯を並べたダイニングテーブルを前に、昔、僕(時生君)が好きだったらしいあみぐるみを編みながら、母はいつもこの調子でテレビに映るまだ存命中の現役の芸能人や、近所のじいさんなんかを「あれ、あの人死んでへんかった?」と気軽に彼岸に送り、それと同時に死んだものを此岸に引き戻す。例えば三年前に死んだ隣の家のゴールデンレトリバーのラッキー、母はよく散歩中に挨拶をしていたその子が死んだことをしょっちゅう忘れて、いつも安否を気にしている。

「最近ラッキー見てへんけど、どうしたんかなァ、あの子、腰が悪いて言うてたからなァ」
「お母さん、ラッキーはもう随分前に死んだんやろ」
「いや、せやわ、お母さんまーた忘れてた」

奈都子さんが矢鱈と生存と死を混同、というか誤認してしまうのは、奈都子さんが亡くなった時生君をまだ生きていると思い込んでいることと関係があるのか。

それを僕はこの家に住み始めて半年くらいした頃、真治さんに聞いたことがある。真治さんは丁度その日当直明けで、何故か僕の部屋に来て僕のベッドに寝っ転がっていて、そうして目を瞑ったまま僕の質問にこう答えた。

「オカンが芸能人とかすぐに殺すアレ?アレはそれ…割と昔からや。里見浩太朗とか、水戸黄門やってた頃からかなりの回数死んどるし、向かいの白根さん家のばあちゃんおるやろ、八十歳までマスターズ陸上に出てた超元気なばあちゃんで、今でもう百歳位になるねんけど、ここ十年程で三十回は死んだことにされとる。一回、本人の目の前で『あ、生きてはった』とか言うたことあるし、なんちゅうかなァ、もともとの性格がちょっと大らかていうか…いや、ザツなんや」
「お年寄りは、いずれ遠からず死んじゃうってアタマがあるのかな。でも犬とかは、なかなか死んだことにならないよね、ほらお隣のラッキーって子とかさ、ちょっと前にお隣の高畠さんの家にいたんだよね、ゴールデンレトリバーの」
「ラッキー?ああアイツは特別やわ、時生と仲が良かった子やから。せや、大学どんな感じ?第二外語選択は結局どないしたん」
「真治さんの言ってたドイツ語にした。わかんなかったら、真治さんが教えてくれるんだよね」
「おう、必修の第二外語を二回も落としたこの俺が直々に教えたる」
「なんだよそれ、ダメじゃん」

僕は園田家に住み始めて三ヶ月後、この家の近くの私立大学に合格した。はじめは公立大を第一志望にすることを考えていたけれど、真治さんが私立三教科受験に絞るように僕に強く勧めたのだ。アルバイト生活に明け暮れていた八ヶ月分を今更取り戻す事はできないし、高校三年の頃は使いこなせていた数式も明確に記憶していた単語や構文も忘れてしまっているものが多いだろう、下手に浪人を重ねると今度はその先がしんどい、確かに私立の、僕が希望する理学部か理工学部に入るとなると、やや学費は割高になるが、そこはなんとかしてやるからと。

「そんでも、私立の医学部受けるとか言わんといてな、それは流石に無理やから」
「医学部は…いやちょっと流石に無理って言うか…え、じゃあ真治さんは?だって医学部だったんだよね、医者なんだから」
「俺はようさん奨学金借りた上で満を持しての地方国立大や」
「へえ国立なんだ、すごいね。どこ?」
「金沢大。奨学金とバイトとわずかな仕送りでアパート借りて、学部では数少ない一般家庭の貧乏人として帰省の旅費も惜しんで暮らした六年間や。お陰様で今も相当貧乏やぞ。ええか陽太、かつてウチで一番金持ちやったんはオトンでもオカンでも俺でもない、時生や。まあその時生の遺産から陽太の大学の学費が出るって算段なんやけどな」

時生君とその両親が待ち望んだ手術を受けた後も、時生君の慢性的な低酸素状態と心不全状態は劇的に改善されることはなく、体調的にも体力的にも普通に就労することが難しいだろうと言われていた時生君には、幼児期から疾病に関わる福祉の手当が出ていた、それから手術入院時に支払われるまとまった額の保険金。それらは全て手つかずのまま貯蓄されていたし、時生君は自分名義で小さな駐車場まで持っていた。それは奈都子さんの父親、つまり時生君の祖父が大阪市内に持っていた小さな土地を時生君が相続したもので、時生君の死後奈都子さんの名義になったけれど、その収入と貯蓄が今ニセの園田時生、つまり僕に食事を与え、服を着せ、大学に通わせてくれたのだった。

僕が時生君として園田家で暮らし始めると、奈都子さんは時生君の面会に病院に行くことを止め(目の前に時生君がいるのだから当然だ)、毎日大学に行く息子を見て、時生はすっかり体調が安定したと言ってとても喜んだ。そして奈都子さんが時生君のために毎日せっせと食卓に並べる食事は、この家に来たばかりの時、それこそ路地裏の捨て猫みたいにガリガリだった僕の体を、細身の家猫程度に太らせた。

僕の入学した大学は、かつて時生君が入学を予定していた大学だ。

そこはこの界隈では一番大きな、比較的自由でのんびりとした雰囲気の私学で、同じ学部のゼミにいる連中はそこまでがつがつと勉強に精を出すという感じでもなく、何となくサークルに入り、それなりにバイトをして、テスト前に突然連帯感が強くなる。文系学部と比較して多忙な印象のある理系の中では比較的ゆるく、居心地は誰かが誰かを「オマエ、馬鹿じゃねえの」と言いたくてうずうずしていた高校の頃よりかはずっとよかった。

奈緒子さんは毎日「大学楽しいか?」と僕に聞き、僕は「まーまー」と答える。僕の「まーまー」を聞いた奈都子さんはいつもとても満足そうに笑い、そうして毎度言うのだ。

「まあ、あんたは生きててくれたらお母さん、もうなんでもかめへんねんけど」。

母は、ちょっと極論がすぎる。

母が芸能人や近所の人を勝手に死んだことにしてしまうこと以外にも、園田家で暮らし始めて、僕がちょっと面白いなというか、やや不思議に感じることは多かった。例えば夕食にたこ焼きが出ることとか。そこは土地柄なのだから一応想定内だったけれど、そのたこ焼きにタコが入っていないのだ。

「これタコが、入ってへん…」
「だってあんたタコ嫌いやんか」
「え、ああ、そか」

かなり年季の入ったたこ焼き専用の電気調理器をテーブルに置き(その名もタコパンチ)、そこに天かす、ネギ、それからタコの代わりなのか小さく切ったソーセージとチーズ、もしくは牛すじを煮て細かく刻んだものを、ゆるく水で溶いた生地の中にぽいぽいと放り込んでゆく。奈都子さんの手際はとても鮮やかで、僕は感心して奈都子さんの手元に見入った。

「ウマいなァ、お母さん、たこ焼き屋ができるんと違うか」
「まあな。お母さん、アンタの幼稚園のバザーで毎年たこ焼き係やったし、子ども会のお祭りも、いつもたこ焼き屋さんしてたやろ、アンタいつもお父さんと一緒に、嬉しそうに見に来たやんか」
「フーン、そうやったかな」
「そうや、あんたお母さんとたこ焼きやさんやろかなって言うてたやんか、それでお金稼いで、お母さんになんでも買うげるって、タコがあかんくせになァ」
「じゃあ、これからそうしようかな」
「それはあかんわ、あんたどえらい不器用やねんから。それに飲食店は立ち仕事やろ、時生の体にようないわ、やめとき」
「そんなん…別に座って焼けばいいやん、それに俺の体はもう大丈夫やし、ホンマにいつまでも心配せんで」

母の作る美しい球形のたこ焼きは、焼き上がったそばから僕の皿に放り込まれ、そうして僕の胃の中に落ちてゆく。焼きたてのタコなしのたこ焼きは美味しいけれど、タコの入っていないたこ焼きは、僕からするとやっぱりちょっと変な感じがするものだった。

(タコの入っていないたこ焼きってなんだろ、虚像?偶像?そもそもタコが入ってないのにたこ焼きって呼称していいのかな)

僕がその日の食卓で、微かに感じた園田家のたこ焼きへの違和感を、「タコが嫌いっていうのは聞いてなかったからちょっと焦った」という感想と共に日付が変わってから帰宅した真治さん伝えると、真治さんはげらげら笑った。真治さんは極限まで疲れているとちょっと笑い上戸になる。

「陽太のそういう理屈くさいとこは、時生と全然ちゃうなァ」

真治さんは僕に、いっそ理工ではなくて、物理か、いやそれより文学部で哲学をやるのでも良かったのではないかと言った。それはたこ焼きであり、同時にそうではないと言える。生地の中にすべてが覆われている間は、そこにタコが含まれるのかそうでないのか分からない、そこに二つの事象が同時に存在していることになる。

「シュレディンガーのタコや」
「それ猫。そもそもこれ、ぜんぜん量子力学の話じゃないし。そうじゃなくてさ、この家って食べ物とか導線とか設備とか、あと禁忌事項とか、そういうルールみたいなものが全部時生君を中心にして存在してるだろ、でも時生君自身はもういなくて、その…なんかちょっと、そういうのが不思議だなァって思ったってことだよ。そこにまだ存在の痕跡がいくつもあるのに、中心にいたはずの本人はもういないんだっていうのが」
「食い物については、アレなんやわ、時生って昔、とにかく食が細くてなかなか体重が増えてくれへんくて、それでウチの食事がどんどん時生の好みに偏っていったって経緯があるねん。食べるのにも体力っているけど、あいつほんまに体力なかったし。せやからたこ焼きにタコが入らん、カレーの肉は絶対鶏肉、好物のヤクルトは切らさず常備。あと…ワーファリン飲んでるから納豆厳禁。ワーファリンて、人工血管とか人工弁の入っている人の服用する抗凝固薬やねんけど、それ飲んでると納豆食べたらあかんねん。あ、あと別の薬のせいでグレープルーツもあかんかった。それから医療用酸素を使ってた時期はとにかく火気厳禁やったな。お陰でウチはオール電化、停電したら即アウト。酸素って支燃性物質やろ、ちょっとの火も危ないねん」
「結構色々大変なんだね」
「せやな、オカンとオトンはきっと大変やったやろな」

その医療用酸素を扱う医者の癖に真治さんは煙草を吸う。そしてかつて火気厳禁、室内絶対禁煙だったこの家で煙草を吸う時、たとえそれが電子タバコでも、真治さんは必ず二階のベランダに出る。階下ではそれをポケットから取り出すことも絶対にしない。

「まあ今、俺が何しててもオカンは気にせえへんねんやろけど、一応我が家の禁忌事項やったことやし、俺は視界に入ってへんやろけど、煙草の匂いにはものすご敏感やから、オカン」

そう言いながら、暗いベランダで煙草の煙を吐き出す真治さんの表情は、真治さんの手元のスマホの灯りだけでは、僕にはよく分からなかった。

母は、自分にとって都合の悪いことを、極力見ない。

園田家に住み着いてから、僕には驚くことがいくつもあった。でもそれは夕飯がたこ焼きでそれがタコ抜きだとか、火を使う調理器具や暖房器具が一切使用禁止だとか、目玉焼きにはウスターソース一択だとか、各家庭によくある文化的嗜好的なものか、時生君の疾患上の事情によるものが殆どだったけれど、なんと言っても一番不可解に感じたことは、奈都子さんが長男の真治さんを真治さんだと認識していないことだった。

最初に僕がこの家に来た時からそうだった。

僕に焼き鮭のほぐし身とキュウリと炒り卵、それからゴマとみょうがのちらし寿司を振舞い、時生であるところの僕の体調をしきりに気遣いながら、奈都子さんは僕の隣の真治さんに一度も話しかけなかった。そこに真治さんの分の皿はあるし箸も置かれていた。それなのに真治さんに一言も話しかけないどころか、視線さえ向けない。それは真治さんと奈都子さんが一時的な感情の行き違いで意思疎通をあえて避けているとか、親子の間に埋めがたい確執があるのだとか、そういう感じではなくて、全く見えていないというそぶりだった。奈都子さんは一度も真治さんに話しかけることはなかったし、名前も呼ばなかった。

「あれって、奈都子さんの病気の症状のひとつなの?真治さんが全然見えていないってこと?」
「んー…なんて言うかなァ、あんな陽太、まず眼球って、顔面に露出した脳の一部ではあるのやけど、それが対象物をどう見分けて処理するかは脳の仕事なんや、その辺は脳神経科の専門領域で俺は全くの門外漢なんやけど、外部からの光が涙液層・角膜・房水・瞳孔・水晶体・硝子体を通って、網膜に達した後に脳内でどう処理されてるのか、細かいとこは分かってないことが多いねんな。オカンのことは脳神経科と精神科と眼科にも診せたんやけど、視力は良好、なんで息子の俺を認識せえへんのかは、ようわからへんてことやった」
「ずっと前からこんな感じ?」
「時生が死んで三ヶ月後位やったか、オカンな、葬式の翌日から時生の服を箪笥から引っ張り出して、洗濯して干して畳んで箪笥に仕舞ってまた洗濯してっていうのを繰り返してたんや、あとは時生の飯をせっせと朝晩作ってた。俺もオトンも、気持ちは分かるけど時生は死んだんやでってオカンに何度も言うたんやけど、一向に言うことを聞いてくれへん。そういうのがずっと続いて、ある日俺が当直明けに家に帰ったら、時生の朝飯がテーブルに置きっぱなしになってたんや、夏の初めのことやったからもう腐って食べられへん。それで俺、もういい加減ホンマに嫌んなって大声出してしもたんや。時生の朝飯なんかいらん、時生は死んだんや、もう帰って来えへんって。それからやな、オカンの視界から俺が消えてしもたんは」
「でも…時生君が亡くなって、それからお父さんが病気で亡くなって、その後はずっと奈都子さんと真治さんの二人で暮してるんでしょ、それなのにさ…」
「精神的に参ってる時とか追い詰められてる時の人間には見たくないものは見えへんなるし、聞きたくないことは聞こえへんなるもんなんやて。逆に言うと、見たいと強く願うもんは見ることができて、聞きたいと思い続けてることは聞こえるてことなんかもしらんな。二〇一一年に起きた東日本大震災の時、震災で亡くなった人が幽霊になって、遺族やとか恋人の前に現れたって話がいくつもあったんやけどな、あれもきっと今、オカンの脳みその中で起きてるのと似たような現象なんちゃうかなって、俺は思うけどな」
「淋しくない?」
「どやろか。まあ…認知症が早く来たと思うしかないなとは思ってるけど。それに、子どもが重症の先天疾患児やとか障害児で、その兄とか弟とか姉とか妹とか、とにかく兄弟がぷりぷりの健常児ってケースやと、子どもの頃からなにかにつけて健常児の方が後回しになるもんやねん、病気の子ってやっぱり普通の子の倍は手がかかるし、俺が今小児科医で臨床におるから余計わそう思うんやけど、あの子らってホンマに気軽に死にかけるんや、親は大変やで」
「そうかもしれないけど、真治さんだって、奈都子さんが産んだ子なんだし、仕事だって医者で…だから勉強だって相当できたんでしょ、自慢の息子なんじゃないの?それが丸ごと記憶から削除されるなんてことあるのかな、大学合格の時なんて相当喜んだでしょ?」
「さあ…大学に合格した時は、まあまあ喜んでくれた気もするけど。それよりか手のかかる子はもっと可愛いってことなんかもしらんな、アホの子程可愛いっていうか、実際時生めっさアホやったし」
「そんなこと言うと、時生君が可哀想だよ」
「え、だって昔、あいつが小一の時やったかなァ、万博記念公園の太陽の塔って足が出てきて歩くのやで、アレは実は大阪府が有事のために所有しとる戦闘ロボなんやって言うたら時生、中一までそのことフツーに信じてたで」
「それは…ちょっとアホかもね」
「せやろ」
「じゃあ、もし今も時生君が生きていて、少し前のホラ、あの『コロナ急増中注意』の周知用に真赤にライトアップされてた太陽の塔を見たら、どう思ったかな」
「フツーに怯えたんちゃうか、あんなん俺かて怖かったし、病棟でもめちゃ子どもらに不評やったで。センセ―ぼくあれ夢に見るから消してきてーって、よう言われたし」

丁度バイトで普段より遅く帰宅した僕は、結局一昨日の朝の予言通り日勤当直からの休みなしの日勤をこなし、這う這うの体で帰宅した真治さんと一緒に、缶入りのハイボールを飲んでいた。

この時なんとなく「もういいかな」と思って、僕は真治さんに初めて自分の父親が医者で、その人と母親は僕が小学校一年生の頃に離婚して、父親は離婚後半年もたたないうちに同業の人と再婚、翌月には早々に異母弟が産まれていること、そして僕の親権を取った母親は「なにがなんでも医学部に入るように」と小学生の頃から僕に言い続けていたということを話した。それまで真治さんは、僕の実家のこととか、生い立ちとか、来し方とかそういうものを詳しく聞くことを一度もしなかった。だから、話せたのかもしれない。

「なんか、俺が言うのもアレやけど、なんでそんなに医学部に拘る親っておるんやろな。親が開業医で、なんでもええから医者になってもらわなあかんて言われてるヤツが大学時代に何人かおったけど、でも陽太のそれって別に陽太が親父さんの病院のは取り息子やからってことではないのやろ」
「父は勤務医だから跡取りってわけじゃない。でも…なんだろ、母は息子の僕をそういう風に育てることで、勝ちたかったんじゃないのかな」
「え、何に?別れた旦那に?元旦那の新しい嫁に?」
「それは、よくわかんないけどさ」

僕は小三から日能研に放り込まれ、必死で勉強して母の希望した私立中に合格し、そのまま今度は馬鹿みたいに課題の多い予備校に通い、母の言う通りの大学の医学部受験をし、それに全敗した。

―来年アンタが受からなきゃ、あたしはアンタを殺して自分も死ぬから。
―一体アンタにいくら掛けたと思ってんのよ。
―なんでこんなに馬鹿なのッ!

母のこれまでの教育投資と僕の努力の結果として、不合格通知だけが残された高三の三月末、キッチンの肉切り包丁を振り回し、訳の分からない言説を並べ立てて泣きわめく母親から逃げて、僕は実家を飛び出した。激昂して暴れている時の母と話し合いは一切できない。というよりこれまで僕は母とマトモに話し合ったことが一度も無い。母の言うことを聞かければ母は「あんたのためなのに」と言って泣き、それから長い説教が始まる。僕の生活は、母の要求を僕が必死に努力して実現することで成り立っていた。でもそれは高三の春に破綻、僕は保険証も持たずにひとりで実家から大阪に来た。僕の来阪のいきさつを聞いた真治さんは

「俺も人んちのこととやかく言えるような立場やないけど、陽太のとこのオカンもなかなかどうして狂ってんなァ」

そう言って力なく笑い、それから僕の頭をちょっと乱暴に撫でた。

真治さんの言う通り、生きている方の息子を自身の視界と記憶から消し去って、死んだ方の息子の虚像というか、残像と一緒に生きている奈都子さんはちょっと狂っていたし、僕がこの家で死んだ息子を演じ続ける生活がまともなことだとも思わなかったけれど、「あんたは生きててくれたらお母さん、もうなんでもかめへんねんけど」と、時生君である僕に向って微笑んでくれる奈都子さんのことを、僕はとても好きだった。

奈都子さんの「生きててくれたらいい」という人類最低ラインの存在条件は、僕がこれまでの人生で何よりも望んでいたものだったから。

母は、プレゼントをあげるとちょっと引くくらい喜ぶ。

年々長く厳しくなる夏が重い腰を上げ、玄関アプローチのシュウメイギクがやっと薄紫色の小さな花を咲かせた頃、母の誕生日が巡って来る。一応、奈都子さんの死んだ息子のフリをすることが仕事である僕は、この家に住み始めた頃、多分かなり最初の頃に「お母さんの誕生日ってさ、毎年なんかしてた?」という質問を真治さんしている。

家庭という幕屋に覆われている間は、自分の親や家族が一体まともなのか、自分の育ちが常識の枠内にあるものなのか、当の本人には意外と分からない。僕は自分の育った家で特に安心や幸福を感じた覚えもないのだけれど、そうかと言って自分をそこまで不幸だとも思ってはいなかった。僕はそれまで食べることにこと欠いたことも、寝る場所がなかったこともないし、清潔な衣類を着て、教育なんてそれこそ過剰な程与えられていた。母はよく地域の公立中学校と僕の通っていた私立中を比べてこう言っていた「陽太は幸せよ、こうして中学受験ができて私立のいい学校に通えてるんだから、市立中に行ったってまともな授業なんか受けられないのよ、設備だって古くて汚いし」。

だから、模試の成績の振るわなかった小六の夏、水風呂に鎮められそうになった時も、中一の前期中間の結果が学年平均に届かず、用意していた母の日のプレゼントをゴミ箱に放り込まれた時も、高二の時に塾をサボった罰として丸刈りを強要された時も、まあ確かにそれなりに辛かったけれど、僕は、家庭とか親っていうのはそういうものなんだと思っていた。僕の周りの大人達は口をそろえて『人生は厳しいもんだ』と言ったし、母もいつも言っていた「ぜんぶ、陽太のためなのよ」と。

それで高校三年生まで僕は、母の言うことを遵守し、怒らせないことを人生の最優先事項にして生きていた。だから、この園田の家でも奈都子さんを怒らせないように苛つかせないように立ち振る舞わないといけないのだとごく自然に思っていたのだった。人間、脳に沁みついた思考の癖みたいなものはなかなか抜けない。だから聞いた「お母さんの誕生日ってなにかした方がいいのかな」。

「なにかって何?」
「だからプレゼントとか…」
「んー、別にオカンの誕生日はオカンが自分で自分の好物作って、オトンがケーキ買って来て。息子の俺らはただ旨いモンが食えるボーナスデーやって、そういう日やったけどなァ」
「ボーナスデー…?」
「そう、その日は夜更かしもできる俺と時生のラッキーデー。て言うても、小・中学生くらいの頃の話やけどな」
「へ、へえ…」

僕はぽかんとしてしまった。実際に奈都子さんは自分の誕生日にはいつも自分で好物の鯖寿司を作り、ローストビーフを焼いて、彩りのきれいなサラダやケーキを阪急百貨店で買ってきて、「これ美味しそうやろ?なんぼしたと思う?」と必ず値段を僕に言わせ、それから僕と一緒ににこにこと食卓を囲んでいた。「あーあ年なんか取りたくないわ」なんて言いながら僕と自分の皿、交互に寿司を乗せてゆく奈都子さんはご機嫌で、というか奈都子さんという人は不機嫌な状態のほとんどない人で、それもまた僕をとても驚かせた。

その奈都子さんの常態的な上機嫌さについて、僕が真治さんに「すごいよね」と言うと、真治さんは「そうかァ?能天気なだけやで。それよりオカン毎日ホンマに煩いやろ、話半分に聞いといたらええから」と言ってむしろちょっと困った顔をした。別に困ることじゃないのに、誰かに何かをしてもらわなくてもいつもご機嫌で朗らかにいられる人が母親だなんて、僕からすると本当に凄いことなのに。

でも、今年の誕生日は少し特別だった。奈都子さんが還暦を迎えたのだ。誕生日の朝、真治さんは僕に「これ、時生からってテイで、陽太からオカンに渡してやって」と、阪急百貨店の包装紙に包まれた縦三十㎝、横二十㎝ほどの薄い箱を僕に渡した。

「これなに?」
「還暦祝い」
「えっ、奈都子さんって、もう六十歳なの?」
「まあ陽太の母親なら、ちょっと年が行き過ぎてるってことになるんかもしれへんけど、長男の息子の俺がもう三十四やし」
「そっか、そうだよね。還暦ってアレだっけ、赤いちゃんちゃんこ着てあの大黒様みたいな帽子被るヤツ?」
「それも考えたんやけど、それオカンでやると完全にコントになるやろ。せやからこれはカシミヤのショール、一応還暦ってことで赤いやつ」

僕が実の息子の名代として奈都子さんにそれを渡した時、奈都子さんは予期せぬ息子からの、贈り物をそれは喜んだ、ちょっと大げさなくらい、というよりちょっと引くくらい。

「ショール!」
「うん、あの…たんじょうびおめでとう」
「ショール!」
「まあ、そんな高いモンじゃないんやけど」
「ショール!」
「お母さん寒がりやから、良かったら使って」
「ショール!」

母は、綺麗な箱の中の落ち着いた赤色のショールを、まるで家宝でも取り出すかのような慎重さでそーっと取り出すと、それをくるりと体に巻き付け、うれしそうに何度も「ショール!」と叫び、挙句立ち上がってバレリーナのようにクルクル回った。

その日以降、ことあるごとに母はそれを取り出しては首に巻き付け、もしくは肩に羽織って、散歩に行き、台所に立ち、鼻歌を歌ったりしていた。誕生日当日に僕がLINEで「奈都子さん、なんかこっちが申し訳なくなるくらい喜んでた、ていうかバレリーナみたいに踊ってた」と真治さんに伝えると即「大げさか!」と、返信があった。

だから誕生日の翌月、突然奈都子さんがキッチンで大きな音を立てて倒れた時も、ソファの上にあったショールを僕は迷わず奈都子さんの手荷物の中に入れた。目が覚めた時、手元にあれが無いときっとイヤだろうと思ったから。

昼の陽射しがまだ夏の名残を残しているのに、晩の冷え込みには冬の気配が漂ってきた十月の末の夜十時のこと。前の日から風邪気味で頭痛がすると言っていた奈都子さんは、少し遅い夕食の後、なんの前触れもなく、そして勢いよく仰向けの姿勢でキッチンの床に倒れた。奈都子さんが呼びかけに応答しないことを確認した僕が救急車を呼び、その到着を待つ間に真治さんに連絡をして「保険証とお薬手帳、それからスマホと財布、ああなんか羽織るモンもあったらええな、待ってる間絶対寒いで」という指示を受けて、言われた諸々を抱え、僕が奈都子さんを乗せた救急車に同乗した。

その時に真治さんが僕との会話の最後に僕に伝えた「羽織るモン」は、本来救急車に同乗した僕が、病院で奈都子さんが検査だとか治療を受け、更には真治さんがそこに駆けつけるのを待つ間に、火の気のない廊下か、暗い待合室で待つことになるので、寒くないように、なにか持っていけという意味合いの言葉だったのだけれど、僕の頭には奈都子さんのショールが真っ先に浮かんでそれを掴み、僕は部屋着の初等幾何におけるオイラーの定理が書かれた半袖Tシャツのまま救急車に乗った。

「息子さんですね」
「ハイ」

僕はこの時救急隊員に「息子さんですか」と聞かれてつい「ハイ」と返答している。違いますとかここで答えたら話がややこしくなりそうだったし、あの時はかなり気が動転していた。そうして奈都子さんと、実のところ奈都子さんとは全くの他人である僕を乗せ、救急車は落葉樹が赤く色づき始めている公園通りを赤色灯で照らして走り抜け、市内の病院に滑り込んだ。

病院に収容された奈都子さんは、まず救急救命室に引き取られて処置を受け、そこからひとまずHCUに移された。その間HCUで一度だけぼんやりと意識を取り戻したものの、それはほんの数分だけ。しかもその時に奈都子さんの傍にいたのは、実子である真治さんではなく、『自宅に下宿させている親戚の子』という虚偽の身分で特別にHCUへの立ち入りを許可されていた僕だった。

奈都子さんは倒れてから三日間目、東雲の美しい朝に静かに息を引き取った。六十歳になったばかりだった。

もともと奈都子さんも、そのご主人、真治さんと時生君のお父さんも、一人っ子どうしで、互いの両親は二十年程前にそれぞれ彼岸に渡っている上に、時生君のために大阪に来てからは地元に帰省することも稀で、親戚づきあいもすっかり希薄になってしまっていたらしい。真治さんも「一体親戚の誰がどこにいるんか少しも分からん」と言うし、時生君が亡くなって奈都子さんの脳のチューニングがちょっとおかしくなってからは、沢山いた友人達との付き合いも希薄になっていたらしく、なによりも突然のことで混乱していた真治は、奈都子さんの葬儀を密葬とし、そうなると僕は本来完全なる部外者ではあったのだけれど、真治さんが「最後までオカンの息子でいてやってくれ」と言うので、家族として参列することになった。

でもきっと僕は、真治さんになにも言われなくても、肉体から解放された奈都子さんが、真実に気が付いていたとしても、きっと奈都子さんの野辺送りに立ち会ったと思う。遺族が一人だけの葬儀はきっと寂しい。どちらかと言うと見送る方が。

―家族葬のため弔問献花香典の類は辞退させていただきます。

関係各所には訃報の知らせを手紙で送り、奈都子さんの葬儀は僕と真治さんの二人だけで執り行われた。病院から奈都子さんの遺体を園田の家に運び、そこでごく簡単な葬儀を行い、そのまま斎場に運ばれる形で奈都子さんは荼毘に付された。僕は斎場の待合室で、隣の椅子に座ったおばあちゃんの世間話をしながら奈都子さんが体を焼かれ、骨になるのを静かに待った。

「ホンマは今日ね、ひ孫の運動会やったんよ、それやのに…なァ」
「十月って運動会シーズンですしね。じゃあひ孫さんも今日は運動会はお休みなんですか」
「それはアレよ、あの子まで参列せなあかんようなモンでもないんよ」
「あ、そうなんですね、じゃあ亡くなられたのって、遠い御親戚とかですか?」
「ちゃうねん、うちの旦那よ、旦那」
「えっ、旦那さん…?それはあの、なんていうか御愁傷様です、えっと…お、お寂しいですね」
「御愁傷様やなんてそんな大層なモンとちゃいますねん。まあ浮気はするわ、借金はするわ、うち柏原で小さい工務店してたんやけどそれも潰して、終いにはボケて、挙句楽しみにしてたひ孫ちゃんの運動会の日に葬式やて、ホンマに最期まで、心の底から迷惑な人やったわ」

たぶん本当にひ孫の運動会に行きたかったのだろうおばあちゃんは、僕にそのひ孫の写真で作ったアクリルキーホルダーを見せてくれた。最近の写真スタジオにはそういうサービスがあるらしい。ちょっと生意気そうな表情の可愛い女の子だった。僕がおばあちゃんに「すごく可愛いですね」と言うと、顔をぎゅっとしかめるようにして笑った。

「せやろ、うちは今、このひ孫ちゃんが一番の推しやねん」

その言葉に僕は思わず笑った。おばあちゃんは僕が「フフッ」と小さく笑ったのを見逃さず、今度は僕に聞いた、あんたさんは?誰が亡くならはったん?

「あ、母です」
「ハハ?母って、アンタのお母さんてことかいな」
「はい」
「あんたのお母さんならまだ若いやろに、そうかァ、さみしいことやなァ…」
「…はい」

おばあちゃんは僕が「死んだのは母です」という言葉に表情を曇らせ、持っていた黒いきんちゃく袋の中から黒飴をふたつ取り出して、僕の掌にそっと握らせた。

「気の毒なことやなァ。気ィ落としたらあかんよ、これ、そこにおるアンタのお兄ちゃんと食べ、あの窓のとこにおるのアンタのお兄さんやろ、よう似てるわ」
「えっ、似てますか?」
「何言うてるんよ、誰が見ても似てるて思うわ、目元とかおんなじ形して」

僕はこの時初めて、偶然時生君とよく似た面差しで生まれた自分が、時生君の兄である真治さんとも似た顔立ちをしていることに気が付いた。二年も一緒にいるのに考えたこともなかった。どうして気が付かなかったんだろう。

おばあちゃんが娘さんらしい女性に呼ばれて待合室から出て行き、僕は斎場の坪庭の見える窓の傍に立つ真治さんに「これもらった」と言いながら黒飴を差し出した。

「僕って、真治さんに似てる?」
「そら、兄弟やからな」
「えっ?」
「いや、ちゃうか、オマエ陽太か。まあ陽太が時生によう似てんねんから、そう見えてもおかしことないんちゃうか、そんでなんで黒飴やねん」

真治さんは、そのままぼんやりと坪庭を見つめていたけれど、その瞳は何も映してはいなかった。ほどなくして白く綺麗に焼き上がった奈都子さんの骨は、つるりとした白磁の骨壺に収められ、しばらくの間リビングの南向きの出窓に置かれていたけれど、その月の内にずっと園田の家に保管されていた時生君の遺骨と一緒に、生駒にある園田家の墓に埋葬された。

母はせっかちだ。

この退場の仕方なんてもう、本当に性急が過ぎる。

「なあ陽太、太陽の塔の中って入れるんやで、知ってた?」

真治さんが何の脈絡もなく、突然僕にそう聞いたのは、奈都子さんがいなくなって、一ヶ月半が経過した冬の朝のことだった。僕は真治さんに「あすこは魔窟や」と言われていた納戸から一時間かけてクリスマスリースを掘り出し、それを出窓に飾っていた。手芸が趣味だった奈都子さんが赤と緑と白のハギレを縫い合わせて作ったやつだ、一番上に金色のベルがついていて、揺れるとちりんと可愛い音が鳴る。

「え、あそこって入れるの?」
「ウン、えーっと大人が七二〇円で、あ、でも前日予約がいるんか」
「意外だなァ、だってあそこって、大阪府の最高機密なんでしょ?」
「は?なんやそれ」
「だって太陽の塔って、大阪府所有の変身ロボなんだって真治さんが」
「オマエは時生か、やめえや陽太」

太陽の塔は大阪万博開催当時一九七〇年には内覧可能だったが、著作権などの問題から万博終了後は長く一般公開されないままだった。それから日本万国博覧会機構が独立行政法人となったことを記念し、内覧を一時的再開したのが丁度僕が産まれた二〇〇〇年の初め頃、その後、建物の強度の問題で再度一般公開を中止し、耐震補強工事を経て二〇一八年に予約限定での入館が再開された。

僕がネットで調べたところはこんなところだった。何事にも経緯があって、その背景になる歴史がある。真治さんは紆余曲折を経て内部観覧を一般市民に許諾したそこへ、「そのうちオカンとオマエと行こうや、オトンも一緒に」と、生前の時生君に言っていたらしい。でも時生君は二〇一九年に亡くなり、その後奈都子さんが真治さんの存在を忘れ、お父さんが亡くなり、約束は果たされないまま、真治さんの中で宙に浮いていた。

ところで真治さんは忙しい人で、月にほんの少ししかない休日は調べものや勉強をしていて、どこかに出かけるとか自室で昼寝してるなんてことはほどんと無かった。そもそも僕が一緒に住んでいる間、真治さんにまともな休みの日なんあっただろうか。真治さん曰く「病院は労働基準監督署の力の及ばへん、治外法権なんや」ということだったけれど、奈都子さんが亡くなってからの真治さんは家にいる時間がほんの少し増え、そして家に居る間は大半の時間を一階のリビングで過ごすようになった。

太陽の塔の中に入れるのを知っているかと僕に聞いたこの時も、真治さんリビングのソファに横になってぼんやりしていた。まるで死体のように。

五年という短い期間に自分以外の家族がすべて死に絶えるというのは、真治さんの年齢だとかなり稀なことだと思う。いくら真治さんが『生き馬の目を抜く』とか言われる、相当な激務らしい大学病院の勤務医で、だから心身共にそれなりにタフな方だとはいえ、これはかなりきついんことなんじゃないのかと、僕はずっと心配していた。

「そこ、行ってみたいな」
「そうか?なら、行くか」

翌週の水曜日の真治さんの当直明け、僕が朝一番の講義をひとつサボって、僕らは万博記念公園に出掛けることになった。土日はそれなりに混雑している公園も、平日のそれも冬の午前中は人もまばらで、よちよちと歩く幼児とその母親が散歩をしたり、このあたりの居住者第一世代といった年齢のじいちゃんばあちゃんがのんびりと散歩をしていて、いつ見てもそこに途轍もない異物感を放つ太陽の塔の中にも、僕らは然程待たずに入ることができた。

地下の入場ゲートを抜け、恐ろし気な顔と顔と顔が僕達をじろりと見つめる仄暗いエントランスを通り

「では順路に従って、階段を上がってくださぁい」

とアルバイトの女の子に案内された塔の中は、当然精密機械の詰め込まれた大阪府最高機密なんかではなく、赤い照明に照らされた世界樹が一本と塔の背骨のようにまっすぐ、塔の先端に向けてにゅっと伸びていた。そして幹の上へ上へと登る三葉虫、ウミユリ、太陽虫、アメーバなんかの原生生物、ダンクレオステウス、ブロンドザウルス、プテラノドン、マンモス、ニホンザル、ネアンデルタール人、最後に僕ら。それらが生物の進化に従って層のように連なっていた。

「ええ…なんかすごいね。これデザインした岡本太郎ってさ、芸術家だよね、生物学とかの人じゃないよね」
「ゲージュツがバクハツやて言うた人やろ、この塔が建つ時はほぼ無名の人やったんやてオトンが昔言うてたな。オトン昔、建築関係やったんや」
「こういうの見ると、人間の頭の中って全然わからないなァって思うよね、塔の姿形もそうだけど、中身もさ、なんでこんなこと考えつくんだろ、ちょっと想像つかない」
「せやなァ、太郎のことも分からんけど、人間のことも俺はなんか、ホンマにようわからんなったわ。オカンが、あの人が一体どういう精神状態で、ホンマに俺を誰かわからんままやったんか、一体何を考えてたんか、息子の俺にはついぞわからんかったもん」
「…それさ、面と向かって、聞いたことはないの?奈都子さんが時生君の幻と暮らすようになってから、時生君が死んだことは何度も説明したんだって言ってたけど、自分のことは?本当に自分が真治ってもう一人の息子だってわからないのかって、そういうことは奈都子さんに聞かなかったの?」
「ない」
「どうして?」
「どうしてって、だって考えてみ、息子の俺がオカンに、俺のことがほんまにわからんのんかって聞いて、あんたなんか知らんでってあっさり言われたら、それはそれでちょっと…なァ」

真治さんは言葉に詰まった。でもその先にある言葉にならない感情の姿形は、僕にはよく分かる。

「あの…あのさ、奈都子さんがHCUにいた時、って言ってもほんの数日のことだったけど、そこで一瞬意識が戻っただろ。僕が傍にいたから、僕がナースコールを押した、すぐ看護師さんが飛んできて、看護師さんの『わかりますかァ』って問いかけに微かに応えたけど、すぐに意識が混濁して、そのまま何も答えてくれなくなったって、僕そう言ったよね」
「うん、言うたな」
「あの時さ、実は奈都子さん、ちょっとだけ僕と喋ったんだ。自分は今どこにいるんやて。だから病院だ、倒れたんだって僕が言ったらその後にさ、奈都子さんが言ったんだよ、このこと金沢の、大学生の息子には言わんといてって、心配するからって。だから奈都子さんは真治さんのこと、記憶から消去したんじゃなくて、その…これまでずっと、今から十五年前くらいのところにいたってことなんじゃないのかな、金沢の息子って真治さんのことだろ?」
「まあ、それは、そうなん…かな」
「真治さんは大学の六年間はあの家に居なかった。だから奈都子さんは見たくないものを頭の中から消去してたって訳じゃないんだと思うんだ、ただ上の息子は金沢にいて大阪のあの家にはいないんだって、ちょっと記憶が過去に戻ってて、それでそう思い込んでただけなんじゃないのかな」

真治さんは、僕のことをじっと見た。そしてどうかな、という顔をした。

「いや、どうやろか。俺が大学にいた頃って、丁度時生の体調があいつの人生史上最高に良くて、学校にもあんまり休まんと通えてた一番いい時期なんや。連休によく金沢の俺の下宿に家族皆で遊びに来て、一間限りの俺の下宿に泊って行ってた、狭い部屋に家族四人いて俺はまあまあ迷惑やったけど、時生はめちゃ楽しそうやったな。アレは時生誕生以来、生まれた子を死なせんように死なせんようにって、それこそ薄氷の上を歩くみたいにして生きてたオカンにとっもきっと人生最良の時期や。人間は一番いい時期のことを死ぬ間際に思い出すて言うやろ、なあ陽太、それは多分ただの走馬灯や」

真治さんの言った『ソーマトー』が『走馬灯』、人間が死に際に見る記憶の幻のことだと分かるのに僕はやや時間を要した、真治さんはその『走馬灯』についてちょっと考えていた僕の顔をつねって言った。ホラあれや、死ぬ間際に見るヤツや。

「あ、走馬灯。そうか、いやでもさ…」
「それでいいねん、だって俺がオカンの中でこの五年間ずっとハタチ前後の大学生やったとしたら、そん時の時生は小学生から中学生や、そういう世界線にオカンがこの五年間ずーっと生きてたって仮定してやな、そしたら目の前におる…陽太オマエ今いくつや」
「二十歳」
「じゃあ、その二十歳の時生は一体何者なんやてことになってまうやろ、今度はオマエがオカンの世界から消えてしまうんやで。なあ、この話、ほんまは俺にしたくなかったんやろ、オマエあんなにオカンと楽しそうに暮らしてたやんか、息子のフリどころか息子そのものやったやん。もうやめよ、誰かの幸福ていうのんはいつでも誰かの不幸なんや。時生かて言うてたわ、自分はなんでこんなポンコツの心臓で生まれたんやろ、お兄ちゃんが羨ましいて。アイツからしたら同じ両親から生まれた俺が、なに一つ問題ない健康体で当たり前に遠くの大学に進学して一人暮らして自由を謳歌してんのに、一方の自分は人生の半分が病院の中、娑婆に出た所で運動も進学も就職も全部制限がかかる、それも一生。理不尽極まりないやろ。俺が時生なら同じ親から産まれといて自分とは全く違う、健康体で頭のええ医者の兄貴なんか大嫌いや」
「アタマが良いって自分で言っちゃうんだ…」
「悪いか?でもそういうの、陽太かて思ったこと無いか?自分の人生で持てへんかったもんを持ってるヤツが憎い、あいつはなんか狡いって」
「…それは、ない訳じゃないけど」
「じゃあやめよ、オカンかて別にすき好んで時生を病気の体に産んだんと違う、俺かてすき好んでそういう弟の兄貴になった訳と違う、時生は…時生こそ誰よりも健康な体で生まれたかったやろな。人間の運命みたいなモンは神様にしか決められへん、そんで愛情の比率が弱いものに偏るのは親の…生物の本能みたいなモンで、これはもう仕方ないんや。俺は誰も恨んでへん、だからオマエも恨むな、自分がしんどくなるだけや」
「僕が?誰を?」
「陽太も結構イタイ人生やないか、昔、俺が陽太のオカンに息子さんの保険証送ってやってくださいって電話した時、陽太のオカン俺になんて言うたと思う?『あんなのもう息子じゃありません』やで」
「それは、もういいんだよ」

世界樹をぐるりと回廊のように囲む順路の途中で、僕は力なく笑った。僕より十センチ程背の高い真治さんは僕の隣で、僕ではなくて世界樹を上に上に登ってゆくウミガメみたいな、ダンクレオステウスをじっと見ていた。

「昔なァ、時生が小学三年か四年の時、アイツ急に犬飼いたいて言いだしたんや、ちょっと前まで隣ん家にいたラッキーみたいなデカい犬がほしいって。でもああいう犬って毎日結構な距離散歩しなあかんやろ、時生は心臓がアレやから『あんたは走れへんからアカン』てオカンに言われたんや、そしたら今度はじゃあカメが飼いたいて言うたんや、カメは走れへんからええやろって。そんとき俺、カメはめちゃ長生きするからオマエに向かへん、やめときって時生に言うたんやけど、あれ、今思えばちょっとひどいな」
「ひどいね」
「なあ、『オマエどうせ長生きせえへんやろ』て言うてるようなモンやんな」

時生君はそういうことを言われても、特に怒ったりする人ではなかったらしい。でも本当のことは分からない。彼だって自分の人生にそれなりの理不尽や怒りを感じて生きていたのかもしれないし、それは奈都子さんだっておんなじだ、真治さんだって母親や父親が体の弱い弟を心配するばかりで自分のことをいつも置いて行くことを、仕方ないと言いながら本当のところどう思っていたのか、わからない。

真実はいつも幕屋の中だ。

塔の一番上、と言っても内部から登る事が出来るのは、丁度塔の中腹ににょっきり生えている腕の辺りまでなのだけれど、そこには幾何学模様にも見える網目が赤と青に照らされていて、真治さんは「昔この塔の顔んとこに登って籠城したヤツがおったらしいねんけど、アイツどこからどうやって登ったんやろなァ」と言った。それは特に政治的な意図のない、普通の青年の悪ふざけだったらしい。そんな人いたのか。ばかだな。

人間ってわからないな、わからないことばっかりだ。

なんだか両界曼荼羅を見てきたような気持ちで塔の外に出て、公園の中の桜並木の道を歩きながら、僕は『ようこそ太陽の塔へ』と書かれた小さなパンフレットをなんとなく捲った。蛇腹折りの小さな紙片には、内部の図説や、塔の三つの顔についての解説、塔の内部を貫く世界樹が『生命の樹』という名前であること、それからこんなことが書かれていた。

『太陽の塔は高さ70m、基底部の直径20m、腕の長さ25m。その異様な風貌は、西洋の美的基準からも日本美の伝統からも外れていて、世界を見渡しても似たものがありません。いったい何を表しているのか、作家本人が何も語っていないため、残念ながらよく分かりません』

「なげやりか!」
「まあ、言ってないなら、わからないよね」
「でも流石になげやりすぎちゃうか」

僕らは奈都子さんが死んで以来、久しぶりに声を出して笑った、涙が出るくらい。なんやそれ、めちゃいい加減やな、ちゃんと調べて書いたんか、なんかおもろいなァ、こういうの大阪っぽいよなァ。

すっかり葉の枯れ落ちた桜並木の下で爆笑している僕らの横を、散歩中の柴犬が「なに?いったいどうしたん兄ちゃんたち?」なんて顔でちらちら見ながら通り過ぎて行った。

「…なあ、ウチで犬でも飼うか」
「犬?あの家で?散歩とかどうするの?犬って犬種によっては毎日、それも朝晩みっちり散歩しないとダメなんだよ」
「そこはほれ、俺と陽太と手分けしてやったら何とかならん?」
「僕?だって奈都子さんが死んじゃったんだから、僕は、あの家にはもういても仕方ないっていうか…いらないだろ?」

そう、僕はいい加減、あの家から出て行かないといけないと思っていて、その話もまた、真治さんに僕からしないといけないと思っていた。それで僕は今日ここに来ていたのだ。あの家で面と向かってちょっと話しにくいことだったから。

「そんなこと言うなや、別にいつまででもおったらええやん、だってオマエもおらへんなったら。あの家に俺ひとり暮らしやで、狭い家やけど流石に広すぎるって言うか、そういうのってなんかなァ、こう…」
「こう…?」
「さみしい」
「さ、さみしい?」
「悪いか」
「わ、わるくない」

結局、僕は時生君の代わりを辞めて、今度は真治さんの同居人として園田家にとどまることになった。大学の学費についても「それは、最初に約束したことやから、そもそも私大学費あと二年分、オマエは自力で払えるんか」と真治さんが言うし、実際借金以外に何の手立ても無かった僕は、あと二年分の学費を真治さんに負担してもらい、その代わりに万博記念公園での宣言通り、近くの保護施設から引き取ったこげ茶と黒と白の、なんだか三毛猫みたいな柄の犬の世話の大半を、僕が引き受けることになった。

犬の名前はタイヨウ。真治さん曰く「陽太の弟やからな」。

僕と真治さんとタイヨウ、二人と一匹はそのまま、僕が大学を卒業する年の春まで一緒に暮した。真治さんが水曜日の午後に診察を受け持っていた豊中の病院の、特に何の用もないはずの非常階段の九階から一階の駐車場に転がり落ちて、死んでしまう迄。

最初、それは『不審死』という扱いになった。

でも僕はそれを絶対に事故だと思っている、きっと事故だ、そうですよね、事故なんですよね。僕は事情を聴きにやって来た警察二人に、まるで壊れた機械のように何度も何度もそう聞いた。僕らは色々な感情を乗り越えて、この家で兄弟のようなものとして暮らしていたんだ、犬だっている、真治さんが自分から死を選ぶなんてそんなこと、ある訳がないんだ。

色々なことがはっきりとしないまま、真治さんの死は事件でも自殺でもなく『事故』として処理された。何かしらの理由があって人気のない非常階段に出た三十六歳の男性医師がスチール製の階段を誤って踏み外し転落、頭がい骨骨折とそれに伴う硬膜外血腫により死亡。

小児科医である真治さんの葬儀には、沢山の大人と、その大人に伴われた子ども達がたくさん弔問に来てくれた。血縁も姻戚関係もないふたりが同居を継続するにあたり、僕らの間には様々な取り決めがあらかじめされていて、その取り決めに従って僕は葬式を出し、そのまま園田家で暮らすことになった。ここにはもう園田家の血縁に連なる人間は一人もいないけれど、園田家の飼い犬であるタイヨウがいる。タイヨウが実質、園田家の最後のひとりだ。まあ、犬なんだけど。

「さみしい」

あの日、万博記念公園で真治さんがぽつりと言ったひとことが、僕が園田家を出て行くことへの単純な感想なんかではなくて、子どもの頃から時生君に何かあるたび、あの家に置きざりにされ、その果てに母親の視界から消されてしまった真治さんの本心からの、魂の言葉だったとしたら。

僕はそれを何度も考えた、でもそれが判ったところで僕にはどうしようもできなかったかもしれないし、なにかできたのかもしれない。なにより真治さん本人がその「さみしい」の本当の意味を語っていないのだから、どうしたらよかったのかも、もうなにもわからない。

本当のことはいつも何もわからないんだ、すべては神様の幕屋の中。なにもわからないし、なにもできない。

ただ僕は今、とてもさみしい。


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きなこ
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