とにかく私はあの子が好きなので
私が彼女のことをあまりにも好きなもので、今普段の生活がすべてご破算になり瓦解してしまう、そんな憂鬱な子どもの入院を主治医に言い渡されたとして大体は「えー…」と沈痛な面持ちというのかそういう表情、空気になるのだけれどふと、それを思い出すと次の瞬間ほんのすこし、こころの中に小さなあかりが灯るというのか、ささやかに明るい気持になる。
「あ、ムラタさんに会えるな」
ムラタさんというのはうちの4歳のかかりつけの大学病院の小児病棟の看護師さんだ。
彼女とはもう4歳半になった娘がまだ生後2ヶ月で、NICU・新生児集中治療室から小児病棟にベッドごとお引越しをしたその日に初めて出会ってかれこれ4年のお付き合いになる。
当時の彼女は新卒3年目の多分25歳になるところ、それだとじゅうぶん大人でもう『女の子』というような年頃ではないのだけれど彼女の見た目があまりにも華奢で小柄で、そのぱっちりとした大きな瞳がピアノの上のフランス人形と言った風情の『女の子』にしか見えない人だった、それは今年8年目になった今も全然、変わらない。
世の中には時折「この人いつ老ける気なんだろうか」と小首をかしげたくなるような人間がいる、芸能人だと安達祐実さんとか。ムラタさんはなんだかとてもそんな感じ。
4歳がうちからそう遠くない場所にある大学病院で産まれて早4年半、最早第二の実家と称される程、月に必ず1回通院して年に何度も入院しているそこは、高度救命救急センターであり周産期医療の地域基幹病院であり、何より大学の附属病院なもので本当に様々の症例の子どもが集まる。小児がん、先天性の脳疾患、心疾患、肝臓、腎臓、遺伝子疾患、染色体異常症、突然の感染症や腸重石や怪我、とにかくその振り幅がすごい。
それだけに臨床にある看護師さんも多角的すぎる知識と見識と経験が求められるものだと私は思っている。だってひとたび病棟に入るとそこにある全員が全員
「…この人達はこんなに他人に優しくて、代わりに家に帰って無言で壁を殴っていたりしないだろうか、あとスゴイ量のポテトチップスをムシャムシャ食べているとか」
そんな心配が発生してしまう程だれもが親切で優しい、けれどよくよく見るとその笑顔の奥の目つきがきわめて鋭い。精鋭というかレンジャー部隊というか、かの業界にあってはSATみたいな人々だ、その中にムラタさんはいた。しかし当時のムラタさんは入職3年目の、様々の修練をだいたい終えて何とか単独でひと通りのことをこなすことができるようになったばかりの若手であって
「えっ…どうしよう」
それが確か彼女がうちの4歳、じゃないか、当時の生後2ヶ月の娘に対峙した時の言葉であって、それはつい数日前、現4歳の娘の入院中にムラタさん本人に聞いたところによると
「心疾患児は泣かせると良くないはずなのに、初手から爆泣きしてる乳児を夜勤で一晩預かるのかと思うと一体どうしたらいいのか、本気で暗澹とした気持ちになった」
『暗澹』とまでは言ってなかったけれど、とにかくそういうことらしかった。それはすごくわかる、私もそうだったのよムラタさん。
心疾患の赤ちゃんというものは『泣かせてはいけない』というエクストリーム無茶振りをされることがままある。特にうちの子が生後2ヶ月の頃はまだ初回の手術前、そのままではまったく循環の成り立たない身体を本来なら胎児期のみに存在して機能している動脈管というごく小さな血管を薬でだましだまし存続させてそれでなんとか今日一日の命を繋ぐような状態だったもので、常に状態を安定させておくことが必要だった、泣くとそれだけでエネルギーを使う。
ゆえに主治医から「しんどくなるから泣かさんといてな」と大変フツウに指示を受けていた「なあ、コンビニ行くなら俺の缶コーヒーも買ってきて」くらいの気軽さの「赤ちゃん、泣かさんといてな」。
そんなんできる訳ないやんけ。
そう私の思った通りそれは全く不可能なことで、生後2ヶ月は巨大なサークルベッドに置けば泣くし、古巣のNICUから借りてきた電動のスイングラックの中に入れても泣くし、看護師さんたちが寄ってたかって授乳クッションとタオルで身体のおさまりの良い寝度を拵えても、もう何をしても泣くし、鎮静のための座薬も徒労と化す、あらゆる創意工夫が無駄になるし現代医学も太刀打ちできない巨大災害みたいな赤ん坊だった。
夜を徹して抱いている意外に策はない。
そう思った時の私の絶望と、ムラタさんの痛哭は多分全く同じ色と肌触りのものだったのに違いない。
(いやまじで勘弁して)
小児病棟にお引越しをして数日、娘はまずは様子見で小児集中治療室・PICUに預けられることになったのだけれど、そこに子どもの身柄がある間は親は夜間の付き添いができない、これまでNICUの「赤子を抱いてうん十年」というNICUの専属看護師をしてもひとつも夜はひとつも1人で眠らず
「娘ちゃん、いいかげんにしてッ!」
と密かにキレられていたらしい娘を入職3年目の若い看護師さんに託すのかと思うと、決して彼女を病棟を大学病院看護部を信用していない訳ではないのだけれど、この扱いにくさ満点の娘を置いて帰ることの心配と申し訳なさからベッドの横の長机に、吐き戻しをした時のためのピンクのロンパース、白い短肌着、あの時はまだ新生児用Sサイズだったテープタイブのオムツ、粉ミルク、そういうものをせっせと綺麗に並べ、小さなメモ用紙にそれぞれがどういうものかというメモを書いて、その日夜勤で娘の担当だったムラタさんに頭を下げた。
「この子、経管栄養で吐き戻しなんかはほどんとしないんですけれど、とにかくよく泣くので本当に申し訳ありませんが、一晩、どうぞよろしくお願いいたします」
入院が日常茶飯事になってしまった今でこそ、子どもをPICUの看護師さんに託す時はそんなに恐縮したり心配したりしなくとも、向こうはそれが仕事なのだから「泣かせるな」と主治医から指示があれば大体何とかしてくれるしそれを疑うこともないのだけれど、その時まだ右も左もわからない駆け出しの疾患児母だった私はとにかく世界の何もかもを、猜疑心で身体の隅々までをすっかり満たした状態であったために信用できなくなっていて、今日一晩、娘と離れている間に小児病棟で娘が息絶えていたらどうしようかと本気で思っていた、ごめんムラタさん。ごめん大学病院看護部。
自分が突然難病児の母になったことだとか、手術が一体いつになるのかとか、これから始まる付き添い入院が一体どのくらい続くのかとか、状況があまりにも掴めなくて杞憂と憂患、そういうものを煮詰めてからからになるまで考えて酷く緊張していた私は、涙目で面会時間終了の20時にPICUを後にして、翌日面会開始11時きっかりにPICUに飛び込むとそこにムラタさんは退勤していてもういなかったのだけれど、昨日色々の物品をおいてあった机の上にムラタさんの小ぶりで可愛らしい文字の手紙が残されていた。
『娘ちゃんは、とってもいい子でした』
そう書かれた小さなメモ用紙は実は今でも自宅の、娘の治療に関する書類の色々を封入してあるファイルの中に大切に保管されている。
実は私はNICUから小児病棟に転棟する時「ぜったいいや」とまでは言わなかったのだけれど、もう少し待ってほしい、できればこの子はNICUから手術室に送ってくれませんかと懇願していた。NICUは完全看護だったけれど小児病棟に身柄を移されると付き添い入院になる、そうなるとうちには当時小学3年生と年長の子どもがいて、その子達を置いて病院に泊まり込むことになる、そんなことできるだろうかいや無茶やろと、そう思っていたし、その上小児病棟に移ればこれまで慣れ親しんだ主治医も新生児科医から小児循環器医に変わるのらしい、同様にそれまで娘を共に大切に守り育ててくれていた看護師さんもすべて変わる、普通に嫌だ。
(突然急変して明日死んでも不思議ではない)
哀しいけれど、生まれたばかりで状態の安定していない疾患児というものは往々にしてそういうところのあるもので、日々をがちごちに緊張して過ごしていた私は娘の治療環境が変わるということを受け入れる余白というものを持ち合わせていなかった。それで転棟がとても嫌で仕方なかったのを、あの日1枚の小さなメモ用紙に救われた。
病児の保護者への伝達なんて、翌日の日勤の看護師に口頭で引き継げばいいところをわざわざ可愛らしいメモ用紙を選んで書いて残してくれていて、そんな些細なことになんだかとても安心したのだった。
ムラタさんはその後、うちの娘について色々の思い出と伝説を残すことになる。
初回の手術の直前、順調に6㎏まで育った娘は、細い動脈管一本ではどうにも肺循環を保てなくなってしまってSpO2が時折60%を切るようになり、それがひとつも安定せずにフラフラしていた夜、丁度夜勤だったムラタさんが、ムラタさんに呼ばれた若い当直のドクターと一緒になって青ざめる私に突然「何とかします!」と言っていきなり
「あ~が~れ~」
両手をひらひらさせて念を送り出した。これでどうしてだか意外にちゃんと数値は安定し
「すげえわムラタさん!」
「すごいですね!わたし!」
なんて笑い合った思い出がある。この時の娘は手術のほんの数日前で、循環の不安定さは薬でももうどうにもならない、酸素も手術前は使えない、だからとにかく安静にして手術室に入るその時まで循環を持たせてくれと言われていたもので、手術以外にはもう手の打ちようのない娘に対してムラタさんは一生懸命考えてくれたのだと思う。
あれは確か朝の4時であるとかそのくらいの3月の末、夜のまだ明けきらない時間帯、窓の外はまだ藍色に暗く、床頭台の小さなオレンジ色の灯しかない狭い病室でバイタルモニターを一緒に睨み続けたあの時間は今となってはいい思い出だし、少し特殊なアレだけれど娘の成長記録の1頁。
それでその最初の手術が無事終わり、生まれて初めての退院が決まった時も、それがまた退院の前日で突然
「あ、明日退院な」
と主治医から言われたもので、その時の私と娘と言えば、退院物品はひとつも揃っていないし、その上訪問看護との契約も何もかも、なにひとつ決まっていない中
「えー!じゃあ何をしたらいいんですか!エート、そうか退院物品!?」
そう叫んでから退院物品といって当時経管栄養児だった娘が自宅で使う医療的ケアのための諸々を掘り返して病棟の倉庫からかき集め、あの小柄な体にサンタみたいな大袋を抱え
「アイツ、ぜったいゆるさねえ…」
緊急時はとにかく頼りになるけれど大体の指示決定がざっくりな主治医への呪詛を共に唱えてくれたのもまたムラタさんであって、たしか退院サマリーも半べそかきながら鬼の早さで作ってくれたもムラタさんだったと思う。
『3年目の看護師』というものが現場においてはどういうポジションであるのかは私にはよく分からないのだけれど、とにかく彼女が全身全霊、必死に、私と娘に寄り添っていてくれたことだけは間違いない。ムラタさんにとってもこの4年、ずっと定期で入院し続けて、夜中のPICUで点滴の管を引き抜いて大あばれしたり、かと思うと手術で死にかけたりする娘は彼女の看護人生に強い印象をの越しているひとりなのではないなかと思う。
その後、小児病棟内では何度か異動があり、今ムラタさんが娘の担当につくことは殆ど無くなったのだけれど、入院の度に別に担当でもなんでもない娘のことを見に来てくれる。思えばムラタさんは『やらなくてもいい仕事』をせっせとやるタイプの看護師さんだ。小児病棟にあるNgチューブの固定用テープの絵師とかそういう人も多分そのタイプだと思う。
働き惜しみの無い分、損もするし、きっと余計な仕事も沢山している。
それでつい最近の直近の入院では、うちの娘が4歳半になり同様に病棟看護師8年目を迎えたムラタさんはとうとう看護実習生の指導を担当することになっていて、私の部屋に実習生さんを連れて挨拶に来た。
私達が出会って5年目になる今年、娘は12月には5歳になるし、私は入院にも色々の検査にもすっかり慣れて多少のことでは、例えば検査後に娘が吐いたりふらついたり、それでSpO2が乱高下するくらいではそこまでうろたえることも驚くこともなくなった。
ムラタさんは今中堅どころかもうベテランとしてどんどん責任のある仕事を任され、それなのにやっぱり慢性疾患で入退院を繰り替えしている子が入ってくると様子を見に行きてくれて、付き添いのお母さんに「元気でしたか?」と話を聞き、相変わらず「別にやらなくてもいいんじゃないの」と思しき仕事をまめに拾っては小動物のようにちょこまかと働いている。
一般の職場ではああいう人を「要領が悪い」と言うのかもしれないけれど、誰が知らずとも意外と人は見ていると思いたい。すくなくとも私は見ている。そんな人は有事に一番信用できるし信頼できる。例えば入院中の夜
「今日、夜勤はムラタと私でーす」
同じ8年目のもうひとり、これもまた私の大好きなトダさんが病室に顔を出してくれると
「ヨシ、今日はどんな突発事故が起きても、なんなら急変しても娘の命は大丈夫」
本気でそう思う。ある側面では主治医よりも頼りになると言っていい。ムラタさんの働き方が看護師としてはたして正解かどうか、それは分からないのだけれどこの5年、私があまりにも病棟を駆けまわりながらそれでもいつも笑顔である彼女に助けられてきたので、そして私と娘は彼女がたいへんに好きなのもので、彼女のこの5年の奮闘と献身に敬意を表して手前勝手にここに記しておきます。
ムラタさんいつも本当にありがとう。