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短編小説:かつて僕らの世界のすべて

それは、ミナミの雑居ビルの中にあるカウンターだけの、別に洒落てもいなければ綺麗でも新しくもない小さなカラオケスナックだった。店の名前は『五月』さつきではなくてごがつ。店主である僕の母の名前がメイなので、つまり自分の名前を付けたのだ。

六月の蒸し暑い金曜の晩、その日は週末だというのに夕方降った大雨のせいか客足の酷く悪い日で、母はカウンターの中で常連のキープボトルのウィスキーを炭酸で割って勝手に飲みながらグラスを磨いていた。店には母と、母と同郷の友人でたまにアルバイトに来るミカちゃんがいるだけ、そんな静かな週末、店内の音楽が八〇年代の歌謡曲からふっとボサノバに変わった時、急に母がカウンターの内側で膝から崩れ落ちるようにして倒れた。それを見て、ミカちゃんが

「メイ?ワッツハプン?ノミスギ?フフフ」

いつも通りの半分英語と半分日本語で「ドシタノ?」としゃがみこんで母の顔を覗き込んだ時、母の眼はぼんやりとうつろで、意識はもう殆ど無かったそうだ。

電話口で嗚咽をあげながら僕の名前である桜輔、即ち「オウちゃん」と「ホスピタル」と「ハリーアップ、早く、急いで」を壊れたスピーカーのように繰り返すミカちゃんから、母に一体何が起きて、自分はどこに行くべきなのかを聞き出し、急いでタクシーで現地に駆け付けた時、母の瞳孔はペンライトの光に反応することなく散大、心臓もその動きを止め、ただの肉体がそこに仰臥していた。

高血圧症による脳出血、享年57歳。

確かに母はここ数年「血圧が高いねん」と言っていた、だから酒を控えろと何度も言ったのに。

救急病院で医師から死亡の診断を受けてすぐ、図らずも親友の死に立ち会うことになったミカちゃんを慰めながら僕は、兄の伸一郎に電話をかけた。

「シンちゃん?僕やけどな」
「オウちゃんか?なんやな珍しい」
「あんなぁ驚かんと聞いてや、お母ちゃん、死んだんや」
「あ?おもんない冗談やな、あのお母ちゃんがそう簡単に死ぬかいな」
「いや、ほんまなんやて」
「俺いま忙しいんねん、仕事中や、切るで」
「ちょっ…ホンマなんやって、切らんでや」

薄暗い病院の廊下で「ホンマやて」「ウソ言いな」というやり取りを約五分続け、結局最後は、親友の突然の死を目の前にして嗚咽をあげていたミカちゃんが、俺のスマホをとり上げて怒鳴った。

「シンイチロはバカなの?シンダッテイッテルだろ!早くコイ!」
「なに誰?あ、ミカちゃん?えっ?これホンマに言うてんの?」
「ホントだよッ!今スグ来い!エート何?オウちゃん、ここなんて病院?」
「日赤や、日本赤十字病院」
「ソウ、二ッセキホスピタル!いいね?スグクル、OK?」
「…お、おう」

怒らせると鬼より怖いミカちゃんの怒号で、やっと母の死が弟のつまらない冗談ではないと理解したシンちゃんは電話を切って五分後、病院にやってきた。

普段、平日の夜中にアイスクリームなんかを運ぶ仕事をして、週末は友達のバーや居酒屋を手伝っているシンちゃんは、この日も近くのバーでバイト中だった。シンちゃんは走って来たんやと言って、あとからあとから噴き出してくる汗を手の甲でぬぐった。

「ほんで、アレ?お母ちゃんは?」
「ん、こっちや」

シンちゃんは僕に案内されて母のいる白い部屋に入り、そこにいた目の前の物言わぬ亡骸を暫くじっと見てから言った。

「これって、ウッソやーんて起き上がるヤツではないやんな?」
「そうであってほしいけどな」

シンちゃんは僕が静かに頷くのを見て、母譲りの癖毛を毟るようにして頭を掻いた。昔から俺より頭ひとつ分大きく、肩幅なんか倍はあるシンちゃんは背中も広い、対して弟の僕は昔から猫背で眼鏡、やせ型の小男だ、子どもの頃から今日までその体格差は埋まらなかった。昔この病院の近くの、心斎橋の裏路地の雑居ビルで暮らしていた頃、人通りの多い街中を歩く時はいつもシンちゃんのこの広い背中が目印だった。

(あれ、もう三十年近く前のことになるんか)

地上のネオンにかき消されて月も星も見えない夜空、雑駁で猥雑でそれなのに時折ふと寂しくなる繁華街、突然死んでしまった母、ふたつ違いの僕とシンちゃん。

―さて、死んでしもたからには葬式をせなあかんねんけれど。

しかし、バツイチで中卒で微妙に定職のないシンちゃんと、学歴こそあるものの三十歳を過ぎても大学にしがみつき、結果いまいち世間知に欠ける僕の二人だけでは、金もないしツテもないし、兄弟頭を寄せ合った所で自分達が今から一体何をするべきなのか、皆目分からなかった。

「葬式の出し方も知らんてオウちゃんは一体大学で何を学んできたんや」
「産業社会学や」
「なーにが産業で社会や、いっこも世の中を知らんやんけ」
「シンちゃんかて一時は妻帯者やったくせに、葬式のことなんかひとつも知らんやろが」
「アホ、俺がやったことがあんのんは、結婚式や」

母の亡骸を前に、軽く兄弟喧嘩を始めた僕らを、ミカちゃんは怒鳴った。

「なんてタヨリナイ男達だよッ!」

まさにその通りやと頭を垂れる僕らを見てミカちゃんはため息をつき、母が日曜に通っていたカトリック教会に電話をしてくれた。それから母が加入していた商店会と、母の友人で構成されたLINEグループのいくつかにも連絡を入れた。

すると翌日、朝から教会関係者、母の同郷の友人や同業者、更には店の常連までもが葬儀場である教会に一斉に集合し、そのまともな人間の正しい集合知は葬儀屋の手配から役所手続き、式後の軽食やら挨拶状に至るまですべてをたちどころに解決してくれたのだった。

(なあオウちゃん、もしかして俺らって相当なダメ人間か?)
(いや、ただ単に世間知らずな大人やてだけや)
(せやから、それをダメ人間て言うのんちゃうんか)
(シンちゃん、それを言うたらオシマイや)

僕らは母の為に集まってくれた教会の神父、爺さん、婆さん、それから母と同じ歳くらいのおっちゃんおばちゃんに「大きなったなァ」と肩を叩かれ頭を撫でられながら、小声で互いの痛い所をつつき合った。昨晩の涙と悲嘆に暮れる姿から一変、突如編成された母の葬儀委員会のリーダーを務めるミカちゃんは、猫の方がまだ役に立つといった案配の僕らを「邪魔!」と一蹴、居場所を失った僕らはとぼとぼ教会の外に出た。

猫以下の僕らは、特にやることもないので教会の敷地の外に停まった花屋のバンから百合とラナンキュラスとバラとかすみ草、真白い花が次々に礼拝堂に運び込まれ、母の遺影の周りを白く飾ってゆく様子をただぼんやりと眺めていた。

『母が死んだ』

あまりに突然やってきたそれは、今の僕らの手にはとても負えない、大きすぎる。だからなのか僕らはずっとどうでもいい事を話していた、教会の葬式って精進落としとかあるんかな、さあなあ、でもここで寿司ていう感じでもないやろしなァ。

「お母ちゃん、ハランバンジョーの人生やったよなァ…」
「せやろか、艱難辛苦の人生の間違いちゃうか?」
「なんやオマエ、俺が判らんと思って、すぐ小難しい四字熟語使いよる」
「別にそんなんちゃうよ、苦労が多い人生やったってことや」
「店も持ったし子どもは二人産んで友達もようさんおるし、晩年はやりたい放題の人生やったやないか」
「でも五十七歳やで、晩年にしては随分早いやろ」
「そうか?」
「そうや、人生百年時代なんやで」
「まあ…それは、そうか、せやな」

シンちゃんは、少し前にやめたと言っていた筈の煙草をポケットから取り出して口に咥え、蛍光ピンクのライターで火をつけると、今日に限って矢鱈と晴れた六月の青空に煙を空に吐き出した。


一九八〇年代後半のバブル景気時代から二〇〇〇年の始め頃まで、日本には繁華街のラウンジやパブで働くために、ダンサーや歌手、所謂興行ビザを使ってフィリピンから相当な数の女の子が来日した、出稼ぎだ。僕の母も同じように日本の景気が最高潮だった頃に興行ビザを使って来日、渡航ブローカーの仲介でミナミのフィリピンパブで働いていた。

「日本に来るヒコーキ代とかのおカネはぜーんぶ借金。それをヘンサイしながら働くねん、仕事はキツいし、ノルマもあるし、お店がショーパブやからダンスのリハが毎日ね、パスポートは取り上げられてて、店の女の子たちと毎日泣いてたんよ。フフッ、ツラかったなぁ」

母がやっと自分の店を持ったのは四十代半ばになった頃のことだ、当時僕は奨学金と塾講師のアルバイトで大学に通い、バイトが終わった深夜によく「なんか食わして」と店の厨房に顔を出した。厨房の丸椅子に座って焼きそを食べる僕を相手に、母はよく昔話をした、大体は渡航ブローカーへの恨み言だ。

「あのクソ男達ね、死んだらゼッタイ地獄に落ちて火に焼かれるよ。アタシはゼッタイ天国ね、息子二人産んでリッパに育てた、シンちゃんはチョー男前、オウちゃんはチョー賢い、税金だって納めてる、アタシスゴイ、アタシエライ、アメイジング、ソウダロ?」
「でも、お母ちゃん、オーバーステイしてたしやな」
「ウルサイナ、それはショーガナイよ、アンタのパパがサイショに結婚も、アンタ達の認知もしてくれなかったから悪い」
「最終的に入籍して、僕らの認知もさせたけどな」
「そう、お母さんエライでしょ?」
「ウーン、ちょっと怖いな」
「ナンダト!」

母は二十二歳の時に第一子であるシンちゃんを産み、その二年後に僕を産んでいる。僕達の父親は店の常連客だった不動産屋だ。当時の父には母とは別の日本人の妻と高校生の子どもがいた。

―嫁とはもう終わってんのんや
―商売の関係で一緒におるだけやねんて
―離婚したらすぐメイと入籍したるしな

酔うとこの三つを必ず母に言っていたらしい父は、いつまでも妻と離婚する気配はなく、母が「パパ(母は父をこう呼んだ)、いつ離婚してアタシと結婚するん」と聞いても「まあ色々とややこしいことがあるねや」と母をのらりくらりとかわし、結局母がシンちゃんを産み、更に2年後僕を産んだ後も妻と離婚するどころか、僕達兄弟を認知することすらしなかった、よくあることだ。

その父を信じて妊娠し、仕事を休業して出産し子育てをしている間に母は在留資格を失った。

在留資格を失効した母から生まれた僕らは無国籍の無戸籍児になった。僕らが産まれた当時、せめて父が僕達を出生前に認知してくれていたら僕達は戸籍を得て、母も僕達の養育者として定住権が得られたはずだった。しかし父は妻との離婚も母との結婚も僕らの認知もすべてを拒み、挙句僕が三歳になる頃に母の前に現れなくなった。

母が、もの知らずの外国人の女の子が、必死で異国の言葉を覚え知恵を獲得し子どもを産み成熟していく、そうでなければ生きていけない。そんな母が父は億劫になったのだろう、僕らのような母子はその当時界隈には大勢いた。

結局僕とシンちゃんは、戸籍も住民票もなく、結果児童手当も保険証も義務教育も、あらゆる権利と行政サービスを得ることができないまま、世界のどこにも存在しない透明な子として、心斎橋のはずれにある雑居ビルの一室で就学期まで育つことになる。

今思えば、多分あの部屋は廃業した風俗店だった物件だ。天井に吊るされたカーテンで三つに仕切ることのできる八畳程の空間に、小さな流し台とガラス張りの狭いシャワースペース、それから黄色い電球が壁一面に取り付けられた鏡をぐるりと囲んでいた。夏は西日のどきつい雑居ビルの一角。僕らがうんと小さい頃は、母の友人や母の友人から紹介された女の子が一緒に寝起きして僕らの面倒を見てくれた。タイ人のフォンさん、ペルーから来たマリア、日本語が話せなくて無口だった中国人のリンちゃん。みんな在留資格を失効後も帰国せずに、ミナミのキャバクラや風俗で不法就労している女の子達だった。

当時、夕方から明け方まで友人が経営するパブに勤めていた母は、日が沈む前に僕とシンちゃんを置いて働きに出て、昼は大体寝ていた。あの頃僕らが外出を許可されていた場所はビルの向かいのコンビニと近所の小さな公園だけだった。店の仕込みや掃除を任されていて夕方まだ明るいうちに出勤する母は、毎日部屋から出る前に必ず俺とシンちゃんの頬にキスをしてから、人とモメるな、そして絶対ケンカをするなと、呪文のように幾度も僕らに言った。

「外でケンカしないこと、誰かとモメゴトもダメ、コーバンの前もできるだけ通らない、OK?」

当時、成長曲線を遥か彼方にすくすく育っていたシンちゃんは、易怒性が高く、故にひどく喧嘩っ早い子どもで、唯一僕らが同年代の子どもと触れ合う機会のある日曜の教会学校では

「なあ、オマエの肘が当たってんけど?」
「ハァ?当たってへんわ」

なんて、ほんの些細なことでよく隣に座った子とよくケンカをしていた。母はそういう時別段シンちゃんを止めなかったが、自分のいない時間に自分のいない場所で自分の知らない誰かと喧嘩をしたり揉めたり、あとは遠くに勝手に行って迷子になり交番を頼るようなことは絶対にするなと、僕らに強く言っていた。警察には絶対関わってはいけないと。

「ママ、オーバーステイ中やねん、もしバレたらママはニューカンに連れていかれるよ、きっと家族バラバラ、だからモメゴトはダメ、ネッ」

母がいなくなることは、当時の僕らにとって世界の終わりと同義だった。だからこの訓戒だけは、僕もシンちゃんもいつも神妙な顔で聞いた。ノット・モメゴト、交番とお巡りさんには近づくな。

でも、あれは僕が五歳でシンちゃんが七歳の夏のことだ、あの年はとにかく暑くて、毎日昼の熱気は冷めることなく日が暮れ、昼も夜も自宅に一台しかない年代物のクーラーが全く部屋を冷やしてくれなかった。僕らはその暑さに耐えかねて、本来行くことを禁止されている家から少し遠いスーパーによく出かけていた。それであの日も、そのスーパーのフードコートで売っている百円のソフトクリームを食べに行こうとシンちゃんが僕に言ったのだ。

僕とシンちゃんのお目当てはチョコとバニラのミックスで、それをシンちゃん、僕、そして次にシンちゃんと、順番で舐めながら「オウちゃん、垂れてるで」なんてシンちゃんがいつもより優しく世話を焼いてくれるのがとても嬉しかったのを、僕は今でもよく覚えている。

クーラーの効きの悪い雑居ビル住まい、戸籍がないから住民票も保険証も持つことなく病院にも学校にも保育園にも行けない僕とシンちゃん、今思えば結構悲惨だが、当時の僕らはそういうものだと思っていた。思えばあの頃は毎日が夏休みだった。

僕らがソフトクリームを買うための小銭は、僕とシンちゃんの二人で近所の自販機の釣銭を探り、母から貰った弁当代のおつりを誤魔化し、そうやって手に入れたものだった。僕らは手に入れた小銭で、ソフトクリームを買う以外にも、フードコートの隅にあるガチャガチャを回したり、ゲームコーナーでクレーンゲームをしたりしてよく遊んでいた。しかし子どもの浅薄さで、手に入れた小さな玩具やぬいぐるみはちゃっかり家に持ち帰っていたのだから、母も僕らが禁止されているスーパーに行っていたことは薄々分かっていただろうとは思う。

でも母はそれを咎めなかった。保育園に通えず公園にも行かず夏のプールも知らずただ家でテレビばかり見て育っていた僕と、同じく小学校に通えないでいたシンちゃんが、ほんの少し外の世界を楽しむくらいは神様だって許してくださるだろうと思っていたのかもしれない。

しかしこの日、フードコードでゲラゲラ笑いながらソフトクリームを交互に舐めていた僕たちは、突然知らないおっさんに丸めた新聞で頭を思い切りどつかれた。

「ウルッサイなァ!どこのガキや!その顔はアレか?ガイジンの子かァ?」

今も当時もシンちゃんはアメリカ系フィリピン人である母の面影を色濃く受け継いでいる、その遺伝子は今でこそ道行く人がはっとして振り返る『男前のシンちゃん』を構築する要素でしかないが、あの頃はそれがひと目で外国人の子だと分かる外見を作り上げていて、身なりの貧乏くささもあり、僕らは近所の子どもやその辺の大人から邪見な扱いを受けることが少なくなかった。しかし僕らがこの場でどんな存在であれ、理不尽な暴力と暴言を受ければ腹は立つ。

「どこのガキでもかまへんやんけ、オッサンこそ誰やねん、暇か、ゲラウェイ!Pakyu!」

当時確か七歳、就学していれば小一の子どもとは思えない流暢な関西弁と英語とタガログ語のちゃんぽんでおっさんに言い返したシンちゃんは、手に持っていたソフトクリームのコーンをおっさんの顔めがけて投げつけた。その後は大乱闘だ、おっさんがシンちゃんの頭をゲンコツでぶん殴り、シンちゃんはおっさんの腕に噛みつき、僕はその騒ぎに怯えて小便を漏らした。

そのうちに若い警備員がフードコートに飛んできて、僕とシンちゃんは警備員に野良猫みたいに襟足を掴まれ、そのままバックヤードに連行された。

(あれ、あの後、僕らはどうしたんやっけ?)

「なあシンちゃん、昔、僕らがまだ小学校に上がる前にな、スーパーで知らんオッサンと大喧嘩になったことあったやろ、覚えてる?」
「なんや急に、スーパー…?あの…家の近所にあったスーパー玉出のこと言うてる?」
「ちゃう、ウチからちょっと歩いたとこにあった…アレ何やったっけ、ほら、たこ焼き屋とかラーメン屋が入ったフードコートのあったとこ、結構広い、多分今はもうないと思うねんけど」
「ああ…あったなァ」

母の葬儀を待つ間、シンちゃんと他愛もない世間話と昔話を途切れ途切れに話していた僕は、三十年前のあの事件の日の記憶が途中で消えていることに気が付き、隣で鼻と口から煙を吐き出しているシンちゃんにあの日のことを訊ねた、ソフトクリーム事件の日を覚えているか、あの激昂したおっさんと、それに果敢に応戦したシンちゃんは一体どんな決着を迎えたのか。

「え、なに、オウちゃんあん時のこと、覚えてへんの?」
「どつかれたことと、漏らした事は覚えてるんやけど…」
「フーン、あん時なァ、あの騒ぎを見てた誰かが、お母ちゃんに連絡したんや、確か店の常連の誰かやな。メイちゃんとこの子がえらい事になってるでって、それ聞いてお母ちゃんが店からスッ飛んできてやな、ほんで俺らがいてた店のバックヤードであのおっさんと、店のおばちゃんと、警備員の兄ちゃんに土下座したんや、仕事用のジャラジャラのようさん着いたドレスでコンクリートの床に正座して。オウちゃん覚えてへんの?」
「覚えてへん」

母はあの日、たまたま現場に居合わせた常連客の知らせで、僕とシンちゃんが本来立ち入りを禁止されているスーパーのバックヤードに引っ張られていったと知り、店の衣装であるミニドレスにピンヒールという出で立ちのまま現場に駆け付けていた。そして加害者であるオッサンに「オマエナンダヨ!うちの子何シタ?」と噛みつくでもなく、騒ぎを起こした僕らをぶん殴って叱るでもなく、その場で土下座して「スミマセン」「勘弁してください」と詫びたのだそうだ。

「あの気ィきついお母ちゃんがか?なんで?」
「そこのスーパーのおばちゃんがな、スーパーに遊びにきてた俺らをよう見かけてて、一体どうして学校に行ってへんのんかて、お母さんなんか困ってはるんちゃうかて、お母ちゃんに聞いたからや」

それは母があのおっさんに臆したからではなく、スーパーの店員のおばちゃんが僕らを「この子ら、平日の夏休みでもない時期からよう見掛けるけど、学校はどないしてんの?」と心配そうに聞いたからだと、シンちゃんは言った。

「警察もそうやけど、誰かの善意で児童相談所なんかに通告されてみ?俺らが無戸籍やてバレてしまうやろ、もしかしたら保護されて連れていかれるかわからん。お母ちゃんがあの頃児童相談所が何かて知ってたんかは分からんけどな、お母ちゃんは知らんオッサンに土下座してでも、俺らをあの街で、自分の手で育てていたかったんやろ、手離したくなかったんや」

結局、その日店を早退することになった母は、シンちゃんと下半身を小便でぐっしょり濡らした僕の手を引いてとぼとぼ家とも呼べないあの雑居ビルに帰った。夕陽を背にしてぞろぞろと繁華街に人が流れてゆく街を逆走するように家路についていたその時、母はシンちゃんと僕にぽつりとこんなことを聞いたのだそうだ。

「シンちゃんとオウちゃんは、アタシがお母さんで良かったのかな」

「それ、シンちゃんはなんて答えたん」
「どやったかなァ、そこが記憶にないねん、その日に島之内のきったない中華料理屋の出前のエビ炒飯食べたんは覚えてんねんけどなァ」
「ああ、あのごっついエビの入ってる店の」
「せや、そのごっついエビが入ってる店の炒飯にエビが五匹も入ってて嬉しかったのんは、よう覚えてるねんけどなァ」

この事件の半年程あと、母に大きな転機となる出来事が起きる。僕が産まれて三年後に母との連絡を絶っていた父が、突然母の元に転がり込んだのだ。

父は母との連絡を絶ち、一方的に愛人関係を解消してから、まずは自身の不動産会社が倒産、当時の妻と離婚し、ひとり身となったところで体調を崩し、倒れて搬送された病院で進行したガンが見つかっていた。

倒産に一家離散、その上余命いくばくもないという不幸の見本市のような身の上になった父は母に日本人の配偶者の立場を与え、その母の子である僕らにも定住者としての立場を与える代わりに家に置いてくれと、母に泣きついたのだ。更に父には自己破産してもまだ取り立てがある「かなりまともやない」借金もついて来た。病気の父はもう働くことはできない、借金は母が返した。

あの時、母が肩代わりした父の借金の額面を僕は詳しく知らない、シンちゃんも「知らん」と言った。多分それなりの額面だったはずのそれを一体母がどうやって完済したのか、それも分からない。でもあの頃の母がまとまった金を用意するためにできた事は、大人になった今の僕には大体想像がつく。

ともかく僕らは戸籍を獲得し、僕が六歳、シンちゃんが八歳の春には学区の公立小学校に入学することができた。僕は放課後、僕らのような外国ルーツの子どものための日本語教室に通い、シンちゃんは地域の少年野球チームに入団した。それまでうろ覚えだった日本語の読み書を覚えた僕は本がとても好きになり、一方のシンちゃんは義務教育に二年出遅れたせいもあって学校も勉強も忌み嫌っていたが、野球チームでは四番打者で、皆の人気者になった。

母は、そんな真逆の性質を持つ僕とシンちゃんどちらにも「アンタが一番カワイイ」と言っていたらしい。それはシンちゃんが離婚したばかりの頃、シンちゃんが僕に「高い酒奢ったるぞ」というので、シンちゃんがバイトをしていた西心斎橋の小さなバーにタダ酒を飲みに行った時に発覚した。本当に他愛のない、罪のない母の嘘。

「あんなあ俺なァ、昔オマエが日本語教室に行ってる間、お母ちゃんとロイホ行ってようチョコパフェ食わしてもろてたんや、オウちゃんには秘密やでって、お母ちゃんはフォースヒッターでカッコのええシンちゃんが一番カワイイねんでって」

あの時、十八歳から付き合っていた元妻に「あんたのいいとこなんか顔しかあらへんわ」というやや真実ではあるが割と酷い捨て台詞と共に捨てられたシンちゃんは珍しく酔っていて、それに付き合っていた僕も結構酔っていた。

「ハァ?僕もシンちゃんの野球の土曜練習の時にお母ちゃんとロイホ行って、全くおんなじこと言われてたで。オウちゃんは賢いなァ、お母さんはアンタが世界で一番カワイイわって。あとあれはチョコパフェちゃう、チョコファッジサンデーや」
「あ?チョコ?なに?」
「チョコ・ファッジ・サンデー」
「フーンそうか…フフッ、なーんや、そういうことかいな」
「そういうこっちゃ、僕、それに乗せられてよう勉強したんやで。ホンマにお母ちゃんて調子ええよなァ」
「まあ、碌に言葉も分からへん国に単身乗り込んでやな、ウソみたいな額の借金返しながら子ども二人産んで育てて、更に自分の店まで持つような女は俺らみたいな半端モンとは、タマもキモも違うねん」
「お母ちゃんやぞ、タマは無いやろ」

あの日、くつくつ笑いながら、したたかに酔っぱらった僕とシンちゃんは母の携帯に電話をかけた、二度目のコールで母は電話に出た。

「ねえねえ息子たちから電話来たよ、アタシの一番カワイイ息子たち!」

嬉しそうに客に話しかける甲高い母の声が電話の向こうに響いていた。

「なあ一番カワイイ息子たちて日本語がおかしいやろ、ホンマに一番カワイイのはどっちやねんな」

上機嫌の母にそう聞いたシンちゃんの声は、電話の向こうのカラオケスナックの店主には聞こえていないようだった。あの日の電話は母の「またみんなで一緒に焼肉行こう、約束よ!sige!」という言葉で切れた。

わかったOK、sige。

『sige』は了解とか、じゃあねという意味タガログ語だ。じゃあね、またね。でも結局あの日母と約束した僕とシンちゃんと母、三人での焼肉は皆何となく忙しくて、結局実現しなかった。

「オーイ、息子たちィ、ママのお支度できたよ、スゴク綺麗よ、ベリービューティホー」

ぽつぽつと昔話をしていた僕とシンちゃんを、教会の中からミカちゃんが手招きした。どうやら母の棺の準備ができたらしい、母の天国への旅路の衣装や化粧はすべてミカちゃん達、母の同郷の友人達が寄ってたかって用意してくれた。教会の石階段の上に座っていたシンちゃんがよいこらせと立ち上がり、僕も後に続いた。

「なんやこれ、店の衣装やないか」

棺を覗き込んだシンちゃんが笑うので見ると、そこには高島屋の紙袋みたいな柄のスーツ姿の母がいた。顔にはいつもの濃い化粧と仕上げのキラキラしたパウダー、今誰かが「ママ、なんか歌ってや」と頼んだらマイクを握って歌い出しそうだ。長患いせず痩せることも浮腫むこともなく静かに命を止めた遺体は、入念な化粧もあってつるりと美しく、生きているように見えた。

「えらい派手やけど、これお母ちゃんらしいて言えば、そうなんかなァ」
「まあ、経帷子なんか着ても絶対似合わへんやろしなァ」
「経帷子て何やな」
「ほらあの幽霊がよう着てる白い着物や。まあアレは仏教の葬式の装束なんやけど」
「そんなんお母ちゃんには似合わんで、ドリフのコントやんけ」
「これから、天国は賑やかになるやろな」
「俺らはちょっと寂しなるけどな」

僕らは笑った。人はこういう時に意外と笑うものだ。母が死んで、それがあまりに突然で、僕らは自分の何かを守るために、おかしくもないのに笑っている。

「…いいも悪いも、俺とオウちゃんにはお母ちゃんしかおらへんねんて、俺、言うた気がするわ」
「え?」
「さっき思い出してん、あの時なァ、お母ちゃんが『シンちゃんとオウちゃんは、アタシがお母さんで良かったのかな』って聞いた時な、俺そう答えたんや、いいも悪いも俺らにはお母ちゃんしかいてへんやんて。イヤー覚えてるもんやなァ」
「それ、そん時、お母ちゃんどんな顔してた?」
「嬉しそうやったかもしらんな、ヘヘッて笑うてたし」
「そうかァ…」
「寂しなるなァ」
「せやなァ」

快晴の六月、かつて僕らの世界の全てだった母が死んだ。






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