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中外製薬NMOSD啓発キャンペーン・ストーリーシナリオ(Case1~10)

今回中外製薬様のNMOSD(視神経髄膜炎スペクトラム障害)の啓発キャンペーンのストーリー作成をご依頼いただきました。実際にその疾患(それに類する疾患も含めて)と共に日々を生きる皆さんよりお話しを伺い、この春から秋にかけて十篇の物語を編みました。本日よりアーティストのyamaさんがキャンペーンのために書き下ろした楽曲『パレットは透明』乗せてショートストーリー動画として公開されるということで、キャンペーンページは下記です。
https://nmosd-online.jp/yama/


Case1:エレベーター

自分に告げられた病名を、私はこれまで聞いたことがなかった。

「一般にはⅯS※と呼ばれています」

あなたはそういう病気ですと言われても、なんだか別の誰かの話を聞いているようだった。その時から今まで、日常生活の中で困ることはいくつもあったけれど、そのひとつは夫との外出だ。

「アナタの歩幅が大きすぎるの」
「君がゆっくりすぎなんだ、ほら、電車がホラ電車が来ちゃうだろ」

夫は私よりアタマひとつ大きい上に、笑ってしまうほどせっかちで、電話はワンコールで出るし、駅の階段は子どもみたいな3段飛ばし、お風呂なんてお湯がたまる前に入る。

だから私が病気になって、日に日に強張ってもつれてゆく足が私を外に運んでゆく速度をどんどん落として、そうしたらきっと夫はあのせっかちさで、私をおいてさっさと歩いていってしまうんじゃないかって、心配だった。

身体が鉛のように重くだるくて仕事も続けられなくなった、毎日しんとした家にひとり。

なんだか遠い星に置いて行かれたみたいだ。みんなのいる場所から何万光年も離れた、私だけの星。

そうして私は以前ほど外に出なくなってしまった。でもすこしだけ体が軽く感じられた春の日曜、夫が私を誘った

「たまにはさ、一緒に出掛けようよ」
「いいけど、私はゆっくりとしか歩けないのよ、階段だって登るのが大変で」

いいからいいから、そう言って夫は私を連れて駅までの道を私に合わせてゆっくりと歩いた、でも駅が見えてくると突然、夫は駅に向かって駆けだした。

「ちょっと!走るなんて無理よ、電車なら次のがスグ来るでしょ?」
「いいから、ゆっくりおいで」

夫が駆けて行った先は駅のエレベーター。夫は『上』のボタンを押して私が来るのを待っていた。

「だってさ、エレベーター待つの、嫌じゃない?」

子どもみたいに笑う夫は、私だけをエレベーターに乗せると、自分はいつものように階段を登ると言ってくるりと踵を返した。

「一緒に乗らないの?」
「オレがエレベーターのドアの前で待っててやる」

上に参ります。

エレベーターのドアが静かに閉まり、私はすこし泣きそうになった。
*多発性硬化症(multiple sclerosis)

Case2:一番手帳

「ご病気、お辛いでしょう」

なんて言われても私には、体のどこにも痛みがないということが一体どんな感じなのか、元気ということがよくわからなくていつも曖昧に笑ってしまう。

「どうでしょうね、こればっかりは、ね」

だって本当に小さな頃から、私はこの病気で、それが一体何だかわからないままお医者さんには「大人にはなれないでしょう」と言われていたものだから。

「でも、おばあちゃんになったんだよねえ」
「そうなのよね、結婚もして、子どもができて、こうして孫までいるものね」

医学の進歩というのは目覚ましく、私が子どもの頃、ただ泣いて母に辛いと訴えていた痛みには、大人になる頃にはちゃんと名前がついた。

それは『NMOSD※』という神経の難病で、子ども達が小学生の頃には障害者手帳も交付された。

「いまよりずっと、障害のある人に理解のない時代だったから、あんたのお母さんとおじさんが何て思うかなって、おばあちゃん心配だったの」
「そういうもの?」
「そうよ、学校でいじめられやしないかって思ったもの」

私を好きだと言って結婚したはずの夫ですら、病気ですぐに体調を崩す私を見て

「またかよ」

なんてため息をついていたから、あの頃まだ若い母親だった私はどきどきしながら、自分の身体のこと、掌の中に納まる小さな手帳のことを子ども達に説明したけれど、小学生だった息子と娘は、手帳の『一級』を見て一体何を勘違いしたのか大喜びした

「これ、一番ってこと?すごいね!」
「すごーい!」

何がすごいのよ、お母さんは毎日ほんとに辛いのよ、視野は狭くなるし、足も腰も痛いし。そう思ったけれど、なんだか一緒に笑ってしまった。

「すごいでしょう」

あの市役所からの帰り道のよく晴れた夏の日のことは、丁度自分の真上にあった入道雲のかたちまでよく覚えている、覚えているのよ

おばあちゃんは。もう随分昔の話だけれどね。

それから毎日沢山薬を飲みながらおばあちゃんになって、明日はどうなるかわからないけれど、生きていれば明日は続くの。
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)」

Case3:掌

ある日突然『NMOSD※』と診断されて

そう言われて入院した病院で私は、泣いてばかりいた。

(三十歳をすぎた大人が、入院が辛くて泣くなんて)

私にはその頃まだ三歳の長男と生後三ヶ月、生まれたばかりの次男がいた。

三歳の長男は赤ちゃん返りの真っ最中で三ヶ月の次男は首がやっと座ったところ、そんな子ども達を家に置いて入院しなくてはいけない。寂しいとか、辛いとかいう感情をはるかに通り越して自分が情けなかった。

「子ども達は、俺と俺の実家と、君の実家でちゃんと面倒見るよ、大丈夫」
「そうよ、あなたは身体のことだけ考えなさい」

夫と駆けつけてくれた義母、それから私の両親、皆に優しくされればされるほど辛かった、自分なんか役立たずだ、消えてしまいたかった。

「辛いでしょうけど、今は治療に専念しましょう。子ども達がママのことを忘れるはずないんだから」

夜中、私が薄明りの病室で声を殺して延々泣き続けるので、心配した病棟のナースがナースコールも鳴らさないのに病室にやって来る始末で、それに気が付いた私と同じような病気で入院している同室の人達も口々に私を慰めてくれた。

「今、焦ってはだめよ」
「無理をすれば、再発のリスクが上がる上るの、ここはしっかり治療しないと」

そう言われたけれど、その時の私は息子二人のことを力いっぱい受け止めて育てられないことがただ、辛かった。

今、退院して自宅で過ごしている私は幸い再発には至っていない。けれど私の場合、右目の上だけが曇天のような、おかしな視界が後遺症として残った、そして疲れやすい。退院してからは二人の小さな息子を抱えて本当に必死だった。そんな毎日の中

「週末に行っていい?息子君と遊びたいの」

なぜだか突然友人が訪ねて来て、やんちゃざかりの息子達と転げまわって遊んで帰ってゆく、実家の母が「あんたの好物だから」と冷蔵のお惣菜を送って来る。

私は最初のうち、自分のことに精一杯で気が付かなかったけれど。

「またくるね!」

息子達に「帰らないで」と泣きつかれながら私の背中にそっと触れた友人の掌はあの時の、病棟で私の背中をさすってくれたナースと同じで、とても温かった。
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)」

Case4:パパと歩こう

「左足どうかされたんですか、あ、もしかして痛風ですか?」
 
そう言われた時はちょっと衝撃的だった、怒りを覚えるとかではなかったものの。
 
「私ちょっと、神経の病気なんですよ」
 
それはMSと※呼ばれる稀少難病に分類されるもので、症状は人によって様々。そのことを説明して正しく理解してもらうことは難しいだろうと、俺はいつも適当に笑ってごまかしていた。
 
(いちいち知ってもらう必要もない)
 
そう思って過ごして来た数年、病気のために二重に見える視界も、慣れてしまえば何とかなるさと、好きなゴルフをやめずに続けていた。病気で自分の身体機能のあちこちが、まるで月が欠けるように変わってゆくことを、理屈ではわかってはいても、どこか認めたくなかったのかもしれない。
 
でもある晩、風呂上がりの息子の足の爪を切ってやろうとした時だ、年長児だった息子の小さな爪がぼやけてよく見えず、爪切りを持つ自分の手が微かに震えた、それは息子も分かったのだろう、
 
「パパの爪切りって、こわいよ」
 
息子が少し困ったような顔で俺を見つめていた
 
(もうこの子の爪は、切ってやることができないのか)
 
俺は爪切りを握りしめた。息子には病気のことを話してはいなかった。いつか、話すべきだろうか。
 
そう思っているうちに息子は幼稚園を卒園し、春休みのある日、俺は息子を散歩に誘った。普段妻が手を焼いているやんちゃ坊主は八分咲きの桜の下を意気揚々、弾けるように駆けてゆく。
 
するとその背後で、俺は急に足に力が入らなくなった。
 
(うわ、どうしよう)
 
ほんの少しの逡巡の間、力なく歩道にへたり込んだ俺を見て、息子が慌てて引き返して来た。その息子に、俺は病気のことを正直に話した。
 
「びっくりさせてごめんな、パパ、今ちょっと動けないんだ、そういう病気なんだよ、君にはちゃんと話してなかったけど」
 
立ち上がれずにいる俺を見て、息子は泣きそうな顔をしていたが、黙ってこくんと頷いた。
 
「パパが、こんなんでも大丈夫か?」
「ウン、大丈夫、パパは、パパだから」 
 
その時から、俺は周囲に病気のことを隠さなくなった。
 
俺はこういう病気なんだ、無理もできないし昔の俺とは少し違う。その全てを理解してほしいとは思わないけれど俺は、俺なんだよな。
*多発性硬化症(multiple sclerosis)
 

Case5:転機

最初は訳がわからなかった。それまで風邪もほとんどひかない私が突然体調を崩して入院、いくつかの検査の後に告げられた病名は『NMOSD※』という、まったく初めて聞く病気だった。
 
それぞれの人にそれぞれ違う症状があるとは聞いたけれど、退院した私には、みぞおちから下がしびれる体と、もつれる下肢、熱いのか冷たいのかよく分からない足裏の不思議な感覚が残った。
 
「これじゃ電車にも乗れない」
 
私は仕事を辞めて家に引きこもって、しばらくはただ天井を眺めて過ごしていた。ほんの時たま通院のために外出すると今度は足がもつれて転んで仰向けに道路にひっくり返り、お気に入りのスカートを裂いた。
 
「大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫、大丈夫ですから」
 
通りかかった人が抱き起してくれたけれど、私は街中で人の目を集めてしまうことが結構恥ずかしいことなんだとこの時に初めて知った。それで私は「そんな失敗をしたのよ」と知人に会った時、ついそれをぽろりとこぼすように話した。
 
「足がもつれて道路で転んでしまって…もう恥ずかしくって」
 
世間話のつもりだった。
 
「そんな風に暗くなっちゃだめよ」
「別にそういうつもりじゃあないけど」
「そう?なんだか愚痴みたいに聞こえるわよ、大体あなた家で過ごせているじゃないの。本当に重症の人って病院から出られないんでしょ」
「この前、再発して入院してたのよ」
「ホラ、それがだめなのよ、病気で人生を悲観して」
 
なんだかかみ合わなくて、少し笑ってしまった、こういうのを諦観と言うのかもしれない。
 
(私の体のことを誰かに理解してもらうのは、難しいんだ)
 
病気は人と人とのつながりを否応なしに整理してゆく。だから再発して一年後、古い友人から「退院して家にいるなら、また一緒に旅行に行こうよ」と連絡があった時も最初は断るつもりだった。
 
「病気のせいでゆっくりとしか歩けないし、迷惑がかかるから」
「別にいいじゃない、ゆっくりできていいわ。私は貴方に会いたいの、病気は関係ない」
 
そういう考え方もあるのか。
 
私は友人と旅行に行った、その旅先で見た桜があんまりに、涙が出るほど美しくて、私はずっとやりたかった絵を習い始めた。
 
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)」
 

Case6:薫風

突然の体調不良、そしてそれが原因不明のまま半年入院していたある日突然、病室に当時の上司がやってきてこう言った。
 
「いつ現場に戻って来られるかわからない人間を雇っておく余裕は、ウチにはないんだ、辞めてくれないか」
 
突然の解雇通告。
 
その日の夜、着替えを持って来てくれた妻と白いカーテンの内側で声を殺して泣いた。家にはまだ手のかかる子ども達がいる、自分はこの先どうしたらいいのか、どうしてこんなことになったのか、これまで、ただ一心に働いてきたのに。
 
悔しいのか哀しいのかわからなかった、涙はあとからあとから溢れて流れた。
 
その後、医師から『MS※』という、それまで聞いたことのない病名が告げられたが、それが判ったところで状況は変わらない。私の場合は記憶力の低下と、言葉の上手く繋がらない感覚、それから下肢の酷いしびれもあって、結果歩行困難となった。それと左手のしびれ、その上排便や排尿に弊害が出たのにはまいった、とにかく不便だ。
 
再就職こそできたものの、この体でのパソコン入力は一苦労だった。皆が簡単にやっていることが自分にはとんでもない困難を伴うことへの焦燥は、背後霊のように自分の背中にぴったりと張り付いて今も離れない。
 
病状が更に悪化した時、私の生活は、いや人生そのものはどうなるんだろう
 
「もういっそ隕石が地球に衝突して全部吹っ飛ばしてくれないかな…」
 
私がぽつりと呟くと妻は笑った。
 
「お父さん、それだと人類一蓮托生よ」
しかし実際、私の人生に突然何の前触れもなく病気が降りかかったように、病気に限らず、青天の霹靂は誰の人生にも起り得るんだ。
 
そう思って周囲を見渡すと、世界はまた違った姿を見せてくれる。
 
麻痺した下肢を補うために車椅子を使うことになった自分に抵抗が無かったことは意外だった。段差のある歩道で車椅子の私を助けようと逡巡して躊躇する人が多いことも、見ず知らずの誰かに自然に手を貸すのは難しい、今の私にはよくわかるんだ。
 
「意地悪よねえ、もう少し普通に見られないの」
 
妻は笑うが、これは誰にでも起き得ることだ、世界はある日突然何かのかげんで反転して、その姿と見え方を一八〇度変えてしまうことがある。
 
私にとっても、ある日急に病気という新しい風が吹いて、世界が姿を変えた、これは、それだけのことなんだ。
*多発性硬化症(multiple sclerosis)

Case7:ギフト

二〇一六年、私は『NMOSD※』という病気を発症した。頸椎二番から胸椎十番に至る神経の炎症は発症時、危機的な状況で
 
それはずっと後から聞いたことだけれど、確かに私自身、何か変だと思った時にはもう自力で立ち上がることができなくなっていた。
 
命の危機を越えて退院できたものの、これは治る病気ではないらしい、でも私の見た目は病気になる以前とあまり変わらない、そのせいか退院後
 
「治ったんですね、よかった!」
 
周囲からはよくこんな言葉をかけられた。中には私の病気を生活習慣病のようなものと思ったのか、サプリメントを送ってくれる人もいた。そして皆口をそろえて
 
「あなたの復帰を楽しみにしていたんだから!」
 
そう言った。その心からの、本心からの言葉に笑顔で「ありがとう」を言わずにいられるだろうか、周囲の悪気ない無理解が私の心には痛かった。
 
私の場合は、今も後遺症の神経疼痛、まるで、アイロンがけされているような痛みがつきまとっている。歩くと足はもつれ、体力はすっかり落ちて以前の半分以下、排泄に関わる障害もあり、結果私は沢山のことを諦めた。
 
それでも私には、絶対に諦められないものがひとつだけあった、それは歌うこと。
 
私は歌手をしている。歌うことは神様からの贈り物で人生そのもの、絶対に手放したくない。それは入院中
 
「以前のような歌手生活は…難しいかもしれません」
そう医師から言われた時、私と両親が「そうか…」と思って肩を落とした隣でパートナーが
 
「あなたから音楽を奪うなんてそんなこと神様でも許さない」
 
そう言って号泣した時、その気持ちをより強くした。以前のようにはいかなくとも、車いすに座っていても、私は歌う。
 
「ピアノがあるお部屋があるんです!」
 
入院中、看護師さんは練習場所を院内に探してきてくれた。私の伴奏を勤めるパートナーは病院に楽譜を山盛り持って駆け付けた。あの時、胸から下が全く動かない状態だった私を
 
「ストレッチャーで舞台まで連れて行こう」
 
そう言ってコンサートホールに私を連れて行く手配をしてくれたのは担当の若い医師だった。
 
今日も舞台に立ち続けている私は、舞台の上のライトの中に立つ時、いつも祈りに似た気持ちで舞台そでを見る。
 
そこには私の歌を支えてくれたすべての人達の足跡がある。誰に見えてなくとも、私にはちゃんと見えている。
 
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)」

Case8:桜

二十一歳の時、突然『NMOSD※』という、それまで聞いたこともなかった病気を
 
「あなたの疾患です」
 
と言われた時には目の前が真っ暗になった。実際に私の場合、左目の視界が病気のせいで微かな光も届かない暗闇になってしまっていた。
 
その上、その時の私は柔道整復師の国家試験を控えていた。
 
当日両眼で、万全の体調で試験に臨んでいるだろう会場の人達が心底羨ましかった。幸い試験には合格し、就職することもできたけれど、新入社員の最初から
 
「通院のためのお休みをいただいてもいいですか?」
 
とは言いづらかったし、事情を話せば方々から
「全然元気そうに見えるよ!」
「きっといい薬ができると思うよ、医学は日進月歩だから」
 
私を励まそうと様々な言葉を貰った。でもそれが難病と歩き始めたばかりの私の胸にはちくりと痛く、つい
 
(別に元気じゃないけどね…)
(いい薬ができるのっていつ?来年?)
 
そんな風にして内心、反駁している自分がまた嫌だった。
 
それでも激励してくれるのはまだいい方なのかもしれない。私が過去二回、初期流産してしまった時なんか
 
「やっぱり病気のせいなんだろ」
 
と言って、それを私がどんなに
 
「この病気は妊娠や妊娠の継続に問題の起きる性質のものじゃないし、それは産婦人科の先生も言ってたじゃない」
何度説明しても納得してくれず、私に疑いの目を向け続けたのは少し前まで夫だった人だ。病気や体調のことを理解してもらうことは本当に難しい、そのうち私は自分の病気については何を聞かれても
 
「大丈夫です」
 
と言って曖昧に笑うようになっていた。正直、煩わしかった。
 
発症から三年後、病気が再発した。久しぶりの入院生活、それでも以前より入院生活に馴れていた私はこの時、病棟の看護助手さんと仲良くなった。医師から「良くないね」という検査結果を告げられた後、落ち込んでいる私を見て、あえて外の景色を一緒に見ようと窓を開けてくれる、そういう人だった。
 
「桜がきれいよ」
「ほんとだー」
 
望んでいなかった再発と入院生活、進まない治療、それなのに桜の花を心から綺麗だと感じている自分が不思議で、少し嬉しかった。   
いつの間にか私は、また周囲の人達の心配や気遣いをちゃんと受け取れるようになっていた。
 
病気と生きることになった最初、それがあんまり辛くて、人の優しさも世界の美しさも、私には全然見えなくなっていた。必要だったのは時間なのかもしれない、だって今はそれがまた少しずつ分かるようになっている。
 
あの日の桜は、昔と変わらず綺麗だった。
 
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)」

Case9:お大事に

前回と同じお薬が出ています、体調にお変わりないですか?」
「変わりはないけど、こんなに薬を飲むのかと思うと、うんざりしちゃうのよ、何とかなんないの」
 
薬剤師をしているとこういう会話を毎日するようになる。とりわけ月に一度必ず処方箋を持ってやって来るおばあちゃんは手強かった。
 
私が『NMOSD※』という病気になり、入院して退院したすぐ後のことだ。
 
薬剤師をしている私も全く知らなかった病気で私は「後遺症が残る可能性があるかも」と言われたものの、幸い他の患者さんのような重い後遺症は残らず、もとの職場に復帰できた、復帰初日には同僚からもこう言われた。
 
「元気そうに見える、よかったね」
 
それは入院で長く欠勤して、職場に迷惑をかけた自覚のある私が殊更元気に振舞っている故だったけれど、疲れやすさや時折起きる体のしびれ、私はもう以前の健康な体ではなかった。でも例のおばあちゃんは違った、私の顔を見て即
 
「あんたどうしたの?顔がえらく浮腫んでるよ、具合悪いの?」
 
そう言ったのだ、本当に心配そうな顔をして。
 
「ちょっとお薬を飲んでてそれで…」
 
私の顔は使っている薬の副作用で、なんだかぷっくりとした丸顔になっていた。そのおばあちゃんは私とはまた別の疾患だったけれど、調子が悪い時は顔が浮腫んで、丸くなっていることが、よくあった。
 
「そうなの、嫌よねえ、早く元の可愛い顔に戻るといいわね」
「そうなんです、お薬も沢山飲んでるんですけど、飲まないといけない薬が多いって大変ですよね」
 
この顔が嫌で顔を伏せていた私はぱっと顔を上げて、そして自然に言葉を返していた「病気って、しんどいですね」と。
 
「お大事になさってくださいね」
「あんたもね!」
 
いつものように袋一杯の薬を抱えて帰っていくおばあちゃんをカウンター越しに見送って振り返ると、私の隣で作業していた同僚が私に体を寄せてきて、そっと言った。
 
「やっぱり体、しんどいんじゃない、無理しないで休みたい時は相談してよ」
 
言わなきゃわかんないんだからね。
 
同僚が優しく撫でてくれた背中は、その日、いつまでも温かかった。暖かかった。
*視神経脊髄炎スペクトラム障害(NMOSD:Neuromyelitis Optica Spectrum Disorders)
 

Case10:距離

頑丈だけが取り柄だった私が、突然下痢をくり返すようになり、その次に起きた視界不良
 
(これは絶対何かある)
 
そう思ってあちこちの病院を巡りはじめたのは四十歳を過ぎた頃だった。
 
けれど、どの病院でもはっきりしたことは分からないまま、ある日右半身から感覚が忽然と消えて救急搬送、そこで判明した異変の正体はMS※、神経系の難病だった。
 
私の場合、退院後に体に残った後遺症はいくつもあった、例えば視界の濁り、歩行ができなくなって移動は車椅子、障害者手帳も取得した。
 
夫は、私に起きたことに混乱して、ひどく攻撃的になり
 
(ああ、もうこの人とは一緒に暮らしていけない)
 
そう思った。
 
その夫に代わって病院での病状説明に同席したのは当時十四歳の息子だった。根治することのない私の病気の話を一体息子がどう思って聞いたのか、それは分からない。ただ一言「大変やな…」と、ため息とともに呟いていた。
 
「アンタはこれまで通り部活と勉強、頑張ったらいいし」
 
私の言葉通り、息子は何も変わらなかった。看護師としてずっと忙しく働いていた私は息子に「自分のことは自分で」と教えていたし、元々優しい気性の子だ、きっと大丈夫、そう思っていた、だからこそ
 
「お母さん卒業式、来んでもいいから」
 
中三の三月、息子が放った言葉は私の心にずしんと重かった。でもその理由を私は知っていた。
 
息子の通っていた中学校の校舎は古く、段差だらけでエレベータもない、そうなると私は参観に行っても懇談に行っても、まるでお神輿みたいに担がれて運ばれ、子ども達の注目の的になった。それを息子の同級生が
 
「アレ、おまえのかーちゃん?」
 
面白そうに笑いながら息子に聞いているのを見たこともある、息子は居心地が悪かったのだろう。
 
一人息子なのに、中学校の卒業式は一回きりなのに、色々逡巡したけれど結局卒業式には行かなかった・・・行きたかった・・・でも息子のことを考えると行けなかった。丁度卒業証書が授与されているだろう時間、私は家ですこしだけ泣いた。
 
あの日からもう十年近く経った、息子は去年就職して社会人になり、今はもう私とは別々に暮らしている。
 
息子は私の病気を本当はどう思っているのだろうか。改めて聞かれたことはないし、自分から話したこともない、でもいつか
 
「お母さんの病気のことってさ、聞いていいの」
 
そう聞かれた時のために、私は『自分カルテ』を作った。そこには私の病気のことが詳細に書きつけてある。
 
私の先の見通しがあまりよくないこと、周囲の無理解が苦しかったこと、そんなこの病気を取りまくすべてと、私がどんな風に戦ってきたのかってこと。
 
それは全て私の言葉で、息子に向けて書かれたものだ。
*多発性硬化症(multiple sclerosis)
 

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