生存、6カ月。
あの手術の日から半年が経過します。あの時あんなに大変だったけど、まあ何とかなったよと、2月のあの日、手術室の前で深夜まで待ち続けていた私に教えてあげたいと言う気持ちの約4000字です。
今年の2月、人生3度目の心臓の手術に挑み、13時間に及ぶ手術の途中、心不全を起こし、術後は補助循環装置、所謂『ECMO』と、人工呼吸器、腹膜透析、ペースメーカ、吸引機、それから20台以上のシリンジポンプに囲まれてICUに2週間、その後小児病棟のPICUに3週間、意識がないまま静かに命の瀬戸際を闘ってきた娘は、この8月の末で術後半年を迎える。
この2月の手術の直前
『重症に該当する心臓疾患児の中では、とびぬけて強靭』
主治医からそういう評価を受けていた娘は、きっと人生で一番高い山に登る事になるのだろうこの時も、それを易々とまではいかなくとも、脆弱な循環機能に反して強靭な内蔵機能を駆使して無事に乗り越えてくれるだろうと思っていた。
それがまさかの心不全、まさかの術後難渋、からの脳機能障害の疑い、そして長期間寝たきりだった為に起きた著しい筋力低下、摂食障害、その機能回復のためのリハビリの日々。
「で、何で入院してたんでしたっけ?」
特に入院後半戦はどう考えてもこれ循環器科の守備範囲内のハナシじゃないだろうと言いたくなるような入院生活を送り、それをやっと終えて帰宅した時、娘の体はすっかり筋力と体力が落ちていて、これまで簡単に上っていた自宅のソファに自力で上がることが出来なくなっていたし、大人が2人縦に並んだ程度の長さの家の廊下を1人で歩き切ることが出来なくなっていた。
ああ、ここからがまた大きな山だ。
退院した喜びもつかの間、まだ酷く顔色が悪くて、少し動くとSpo2が70%台まで下降する娘を抱えて、これは先が長いなあと思ったあの4月、退院したら冬から季節が春の終わりに入れ替わり、外の桜がすっかり散ってしまっていたあの日の事を私はとてもよく覚えている。
そして夏、現在娘のSpo2は常時85%前後、在宅酸素療法は未だ続行中、毎食後は利尿剤、血管拡張薬、抗凝固剤、数種類の服用薬。
でも毎日トランポリンで飛び跳ねている。
元気か。
ただ元気と言ってもそれが『健康で健常』という状態とはまた少し違う娘は、流石にトランポリンで長い時間飛び跳ね続けるとSpo2が80%すれすれまで下降する。でも少し休めば即回復するし、何より両足を揃えて垂直に飛び跳ねる事ができている、退院後ずっと頑張って来たリハビリで、弱り切っていた足首と体幹がしっかりしてきた証拠だと思う。
今、週2回訪問リハビリに来てくれている理学療法士さんも作業療法士さんも
「あの退院時を思えば、本当に凄いと思う」
そう言って感心して手放しで褒めてくれるし、そうなるともう大人が何を言っているのかをちゃんと聞き取って理解できている3歳8カ月は得意になってますますトランポリンに張り付き、最近はそこの上にタオルを敷いてお昼寝までするようになった。
夢のトランポリン生活。
狭い家がますます狭い。
そしてつい先日、定期の外来受診があって大学病院に行った日に偶然、入院中の病棟でずっと娘に張り付いていてくれた主治医にお会いして、娘このトランポリン生活を伝えたら
「トランポリン?そこで跳ねるの?ウソ、嬉しいけどやめて」
そう言って笑っていた。抗凝固剤、血液を固まりにくくする薬を飲んでいる娘は、例えばちょっとトランポリンから落っこちて頭を打ったりすると、そしてそれでコブなんかを作ったりすると相当エライ事になるらしい。
まだやった事が無いので実際はどうなるのか見た事はないけど。
その半年目の定期健診があったこの日。いつも同じ診察室で娘を待っていてくれる外来担当の主治医は、呼び出しベルで呼ばれた娘が勢いよく扉を開けて入室して直ぐ
「娘ちゃん元気か」
そう娘に聞いた。この人は診察室に私と娘が入室すると視線はいつも私の腰あたり、即ち娘から目を離さないし、まず最初に「お母さんどう?」ではなくて「娘ちゃん、元気か?」と聞いてくるタイプの人で、患児しか視界に入れないというか子どもファーストというか、別に愛想が良い訳でもないし、特に余計な事も言わない人なのだけれど、娘には滅法愛されていて、この日も心エコーで娘の術後半年の心臓の状態を確認している時、診察室のベッドの上の娘とプローブを握る先生は互いに見つめ合ったりしていた。
私、帰ろうか?
母親の私がそう思う位、娘は先生が好きだ。これまですべての予防接種、定期も任意も含めて、そのほとんどを先生が打っているにも関わらず、注射採血ルート取り、そのすべてを大あばれして拒否し、何なら相手に蹴りの1発位は必ず入れる苛烈な性格の娘に全く嫌われていない所に長年小児科医として臨床に立ち続けている人の底力を見る気がする。
採血担当の看護師は3m先に見えた瞬間に泣いて逃走を図ると言うのに。
それでこの日、術後半年の娘の心臓は
「心臓が術後すぐに比べて物凄くスリムになってる、心肥大が治まったってことな。それからBNP値は目標値に来たし、INR値は安定して来た、心配してた腎臓の数値も正常値で、すごくいい状態」
そんな所見が出た。それで4月の退院からこの日まで、常に「採血、レントゲン、心臓エコー」3点セットが絶対ついてきていた娘の検診は
「次回レントゲンはいいや」
という事になった。もうあの激戦区の放射線科、レントゲン室前にこの動きの激しい3歳児を連れてペレストロイカ的に並ばなくていい。毎回レントゲン室に行くだけで通院の為のHPが半分くらいになっていた私は、それだけでも相当嬉しかった。
こうやって術後半年、それから1年、必要と言われてきた検査や処置が薄皮を剝ぐようにしてきっと少しずつ減っていく。娘はこのまま生涯、2月に完成させた常人とは異なるオリジナルな肺循環で生きていくことになるのだけれど、それでも順調に循環を立ち上げて良い状態を保つことが出来れば、普通の人にほぼ近い状態で普通に暮らすことができる、そう思うと少しだけ先に希望が持てる。
普通にほぼ近い、でも完全に普通かと言われたらそうでもない人間を普通の、健常な人達のいる環境に放り込む事が、いかに大変な事か。
それがこの術後半年で私が痛感したことだ。
何をするにも常に必要になる相談と交渉と根回し、現場で起きる問題の解決。相談する人報告する人お願いする人への伝達、それにまつわる書類と文書、全部が煩雑だし数が多すぎる。
退院後2ヶ月してから通い始めた幼稚園は、週に2,3回程度短時間通園できているだけで、あの場所ではまだまだ娘はビジターだし、延長保育は主治医からストップがかかったし、夏季保育は人員配置と娘の予定の折り合いがつかなかった。誰が悪い訳でもないのだけれど。
娘はこの夏ずっと家だ。
世の中は厳しい、全部が一度に上手くは行かない。そして私は1学期に頑張りすぎて正直な所少し疲れた。そもそもタフな交渉事一切を不得手とし、事務手続きも同様に苦手すぎて確定申告医療費控除、婚姻届けすら自分でちゃんと書かずにその一切を夫に丸投げして来た人間にこんな事をどうして任せようと思ったのですか、神よ。
だからこの先、娘を延長保育や夏季保育、少し先のハナシだと我々の業界では人外魔境的に恐れられている就学相談、その際それがあるかないかでは相当違ってくるあの事について、私はちゃんと先生に確認した。
『在宅酸素療法は今、とても状態が良いなら昼間だけも終了できませんか』
娘は前回1歳6ヶ月で受けた2度目の手術から今日までずっと酸素を使用している。今3歳8カ月だから2年2ヶ月ずっと家では酸素のホースを引きずり、外では酸素ボンベに繋がれている。これがあるか無いかでは、幼稚園での生活が全然違う、当然就学についての相談内容の重さも変わる。あとこの酸素ボンベ、意外に重くて私は一度このボンベのせいで頸椎をやった。
そして先生の回答は
「あのさあお母さん、TCPCの手術の時、心内に静脈血を意図的に流す為に開けた窓あったよね、開窓術ってアレ、自然に閉じて欲しかったんやけど、今エコーで確認したら全然普通に血流が見えるから閉じてない、多分自然には閉じないと思う。だからこれを処置して閉じるまで酸素は必要」
『まだその時じゃない』
ということだった。
先生の言う通り、娘の心臓には人工的に開けられた孔があって、それは術後、新しい循環を立ち上げるための補助として必要なものだったのだけれど、それが開いている以上、娘のSpo2は目標値の90台前半にはならない。今、酸素を使ってSpo2は85%、それはあの感染症の中等症の基準よりもやや低い数値だ、その状態では酸素を辞めて良いとは判断できない。
酸素を外すのは、この年度末にカテーテル検査で術後1年目の心臓を評価し、そこで改めて心臓の孔を閉じてから。
うん、知ってた。自然に閉じないだろうなって。
そんな訳で娘の術後半年の心臓の状態は良好、本人は風邪を引いても鼻風邪程度、この未曾有のパンデミックにあって結局1度も発熱したこともなくとても元気だ。
でも酸素とのお付き合いはまだ続く。
「でも先生、この子とうとう短い距離ならこの酸素飽和度を度外視して全力疾走するようになって、普段この子に帯同して酸素持ってる私は本気で大変なんですけど」
一応私は先生にそう訴えた。初めて会った時には病棟が繁忙を極めていたせいで、俺に話しかけるなというオーラを身に纏っていて、とにかく恐ろしい人だとしか思っていなかったこの先生に、弱音を吐くようになったのがこの術後半年、先生の受け持ち患児の親になって約3年半の私の成長の証でもある。でも先生は笑いながら
「そうか、もう走れるんか、娘ちゃん凄いな」
そう言って娘を褒めた。違う、そうじゃない。
もし、あと半年頑張ってそれで昼間の酸素から娘が自由になる日が本当に来たら、私は色んな意味できっと泣く。