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ひとりえらんで。

好きな作家を聞かれた時、さらりとたった一人の名前を口にできる人は、きっととても一途です。きっとひとりの人と丁寧に関係を紡いでゆけるひとなのでしょう。

わたしですか、わたしは違います。一人に絞るなんてことはとてもできません。ですから最近「あなたの好きな作家、愛読書は何ですか」という質問をある人から貰った時、自分の本しか詰まっていないリビングの本棚、高さ一八〇㎝、幅七十五㎝の長方形一杯に隙間なく詰まったわたしの蔵書を眺めて、そこからひとりを選ぶなんて毛頭できない自分を

「う、浮気者」

と思って項垂れたことでした。

絶世の美女だとか、稀代のイケメンに生まれてこなくて本当によかった、こんなに気が多いことでは、多分遠からずどこかのだれかに刺されるなどして死ぬでしょう。

それは冗談として、好きな作家を一人、と言われてまず一人に絞ることができないのはホントに本当です。

わたしは三人子どもがあって、一応親としてそのそれぞの子どもらに、お行儀というか世間でいうところの一般常識を仕込んで、将来大人になった時にヨソ様で恥をかかないよう、教えなければいけない立場であるのに、本を読む時間が惜しくて惜しくて、毎日晩御飯を食べながら本を読んでいます。

時間は有限なのに、読みたいものは無限にあり、書籍は書き手があれば、明日も明後日も次々世に生まれてきて、読み手のわたしはひとりだけなのだから、こればっかりはちょっと、仕方がありません。

とは言え、子どものことと日々食べることに追われて、長いものはとんと読めなくなりました。ロシア文学と蜜月であったのはいまは昔のこと。

今、わたしの本棚の一番上の段の右側の一番端にいらっしゃるのは、小川洋子先生です。小川洋子先生はわたしの憧れです。優しく密やかに繊細な文体で、しかしそれを独り語り的の散文にすることは決してなく、あらゆる要素を包括して最後の一行まで物語として読むひとをひき付け続ける、文体の力。『博士の愛した数式』の博士の偏愛と言っていい数とルートへのまなざし。『ことり』の静寂と静謐。先生のお写真を拝する限り、穏やかで怒るとちょっとだけ怖い県立高校の現代文の先生のようにわたしの目には映るのですが、とにかく胆力のある書き手、大好きです。

その横が現在再読中の米原真理先生、中でも『嘘つきアーニャの真赤な真実』は特に好きです。一九五〇年にプラハのソビエト大使館付属学校に入学したマリが友達になったリッツア、アーニャ、ヤミンスカ、その三人をプラハの春後のヨーロッパで探し出す、仔細は書きませんけれど、これがノンフィクションだなんてちょっと信じられない、大河ドラマです。グローバリズムが新時代の善きものとして世界に定着し、対してナショナリズムが否定的な文脈で語られるようになった今も、母語や国や民族というものを抜きにひとを語ることはできないのだなあと、思います。

洋子先生と万里先生のお隣にはまた『茉莉』がいます。文豪森鴎外の愛した娘。森茉莉先生はもう地図にはない亡国のお姫様という風情。職に纏わるエッセイ『貧乏サヴァラン』で、陸軍軍医であった父鴎外が、天長節の日に宮中から持ち帰った祝菓子を茉莉先生はこのように書いています。

「緋色の練切りの御葉牡丹、羊羹の上に、卵白と山の芋で出来た鶴が透通って見える薄茶色の寒天を流したもの、氷砂糖のかけらを鏤めた真紅い皮に漉し餡を包んだ菓子」

仮に文才というものが経験と生い立ちを養分にしてすくすくと育つものだとしたら、北陸の田舎町の、それもさして裕福でもない普通の家庭に生まれ育ったわたしなんて茉莉先生の足元に近づくことすらできないでしょう、うう。

更にその隣に並ぶのは、川上弘美先生、川上弘美先生というと「蛇を踏む」ですが、わたしはこのひとの、特に短編で見られる敬体で書かれた一人称の文体をとても好きです。さらに隣が本谷有紀子先生、シニカルであることは世界への愛の裏返し。言葉によって編まれた先生の世界の舞台がどういうものでもそれがなんだか小さな空間で、ミニマムに展開されているような感じがするのは、先生が劇作家でもあるためでしょうか。

さてそのまたお隣が村田紗耶香先生と今村夏子先生、前者は緻密に計算しつくされた狂気、後者は才能としての狂気。無垢や無辜とはもしや恐ろしいものなのかと、おふたりの書いたものを読んでいると、思います。今村先生の作品は「紫のスカートの女」がやっぱり有名かなと思うのですが、わたしは太宰治賞を取った「こちらあみ子」が最高に好きです、あれが「ある日、ホテル清掃のバイトが無くなったので、唐突に書いた」受賞作でありデビュー作だなんて、恐ろしい以外の何物でもありません。

下段は歴史に名を残したひとびと、太宰治(全集をちくま文庫が出してくれたのでわたしにも揃えられました、ありがとう筑摩書房!)、芥川龍之介、夏目漱石、川端康成、坂口安吾、梶井基次郎、中島敦、織田作之助(敬称略)。織田作之助についてはもう『夫婦善哉』の柳吉がダメ男すぎて「そんな男とは早う別れなはれ蝶子はん…」以外の言葉がなにも無いのですけれど、今まさに大阪に暮らすものとしては、読んでしまうんですよね。大阪に居住して読む夫婦善哉、上方落語でしか聞いたことのないむかしむかしの大阪弁。

長々書いてしまいましたが、その下にはまた色々の、ちょっと興味があってついつい手に入れてしまった様々の本がきちきちに収まっています。その下にはここ数年、増えてきて「ようし、まだまだ増やすぞ」と思って腕をぐるぐる回している岩波少年文庫。

それは、わたしの子ども時代の夢です。

なにしろ本屋も碌にない田舎の、それも『アマゾン』というクリック一つでどんなご本も届けてくれるアレが、自身にとって南アメリカの六つの国にまたがる巨大な森でしかなかったあの頃、わたしは図書館以外で岩波少年文庫に触れる機会がなかったのです。

大人になったわたしの手元にある岩波少年文庫は

ケストナー(児童文学で書かれる双子の物語で一番好き、ふたりのロッテ)
ルイス(ライオンと魔女の白い魔女がリリスの娘※!設定!)
エンデ(わたしもモモをいつも心の中に住まわせて生きてゆきたい)
ランサム(MI6に所属していたという噂は本当なのですか先生)
ロフティング(お子さんの為に作ったお話なんですよね、ドリトル先生)
ノートン(アリエッティ!)
チャペック(ダーシェンカのお父さん)

今月、ここにル=グウィンの『ゲド戦記』が追加される予定。

ここからたった一人を選ぶなんてこと、浮気者のわたしにはできようはずがありません。子どもに本を読ませましょう、子どもの目線に、彼等の興味を引きそうな本を置いておきましょうなんてことを育児界隈では聞くこともありますけれど、とんでもない。

これは、全部おれのもんだ。

(本が好きでご飯を食べながらだって読んでしまうあなたも、きっと同じことを思うでしょう、多分)

※ライオンと魔女では、人間の世界から迷い込んで来たぺベンシー四兄妹を「アダムの息子」「イブの娘」として、彼らをナルニア国の正当な後継者と呼ぶのですけれど、対してナルニア国の王座を狙う悪い魔女であるところの白い魔女はアダムの最初の妻、リリスの娘です。リリスのとアダムの間から悪霊が生まれたとか生まれてないとか、言われています。

筆者による脚注

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きなこ
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