頻度因子、確率密度。
この世界はすべて、偶然によって成立する。
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先日の弾丸上越旅行で、北しなの線に乗っていたとき。
終着まで降りないし、どうせユーザーはさほど多くないのでと、わたしはひとり旅のくせに4人掛けボックス席の窓側に座り、ただぼうっと外を眺めていました。
そこで見たある光景に、すごく強く心を惹かれた。それを見ていられた時間は1秒にも満たなかったのに、たったそれだけで十分だった。
それを見た場所は、多分この辺だと思う。
確証はないけど。←
その景色を構成するのに必要で、地図から探し出せるものは、北陸新幹線の高架と、川幅の広くない川と、その上に、自動車は通れないけど自転車なら通れるくらいの橋がかかっている、というこの3つでした。それらを自分が座っていた場所の車窓から見れることを考えると、多分ここ以外の場所ではその3つを同時に成立させられません。
そして、わたしが強く心を奪われたのは、そこに、ひとりの人が加わった瞬間でした。
新幹線の高架下、細い川の上にかかる、自転車か歩行者しか通れない幅の橋を、自転車で誰かが通過した。
それは、なんてことのない、日常風景の1コマに過ぎない光景だった。
……だったはずなのに、どうしてか惹かれてしまった。
何に惹かれたか、自分でも最初は分からなかった。だって1秒とない間の出来事だもの、理由がそこで瞬時にわかったらある意味怖い。
妙高高原に着くまで、ずっとその光景が頭から離れなかった。なんなら今でも思い出せる。朝の光を浴びたそれが、ひどく美しかったことを。
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うみがたり回で書いたように、この後、わたしは妙高高原で1時間半の足止めをくらいました。つまり暇な時間を贅沢なことに1時間半も持っていた。
だから、なぜあの光景が頭にこびりついて離れないのか、も考えながら駅周辺を散歩していました。
そして駅に戻り、来ていた電車に乗ったわたしは、散逸している考えをまとめて、一旦ひとつの仮定を立てた。
『わたしは、高架と橋が交差する場所が好きなのか?』
けれども、それは些か違うな、と自分の中で即座に否定された。
だって、川の上に橋が架かっていて、それが高架下にあるという風景は、割とよくある光景だと思うから。似たような場所なんて全国探せばそこそこあるだろうし、仮にその全てにこんなに心を惹かれていたら、今頃わたしの記憶は道路や川でいっぱいだ。でも実際はそうじゃない。
なのにあの光景だけがやたらと記憶に残った。何故だろう。
さらに考えてみる。
今度は『積み重なった交差がそこで同時に起きたから、わたしは心を惹かれたのだ』、そう仮定を置いてみた。
すると不思議としっくり来た。腑に落ちた感覚を得た。
電車でわたしがその場所を通過する一瞬のタイミングで、自転車が高架と川を横断していく。空間的にも、時間的にも、その一瞬のシーンにはたくさんの交差がある。その交差が全て同時に成立するのは、あの瞬間を除いて他にない。
わたしがあの光景に惹かれた理由は、その瞬間という名の偶然があったからなのだろう、と思う。つまり、それが結論。
わたしはどうやら、【その一瞬だけが全ての交差が成立する唯一の瞬間】というものに惹かれるらしい。
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この結論は、自分が今までぼんやりと「心地好いな」と感じていた現象にもかなりの確率で当て嵌まるな、と思います。
わたしには、駅や空港の空気を感じるのが好きという特性があります。
大勢の人が交錯するその場の雑踏を、音を、雰囲気を楽しむのが好きなのです。
わたしは研究室生活中、2回、学会に行きました。
行かせてもらった学会は2回とも、飛行機を利用しないと行くのが難儀な場所での開催だったので、羽田空港を経由して空路を利用しました。飛行機や現地の宿は、指導教官が同じ便や施設を取ってくれているから、その辺りの行動は必ず共にしなくちゃならない。ただ、わたしの所属研究室の場合は、ですが、最寄駅から空港までの移動はその限りではありませんでした。
通常は同行予定者全員と「この時間の新幹線に乗るので最寄駅の集合時刻は何時ね」と取り決めて一緒に行くのだけれども、別で移動したければ一報入れて、途中のどこか、最悪搭乗口で落ち合う、ということも許されていました。
だからわたしは嬉々として「別で行く!」と連絡を飛ばし、乗る必要のない始発の新幹線に乗り、飛行機の離陸時間から考えるとアホでは?? と思われるくらい早い時間に空港に行った。
めちゃくちゃ早く着いた空港では特に何をするでもなく、ただ空港という場所の空気を感じて歩き回ったり、疲れたらその辺の椅子に座ったり、ということをやっていた。
長いときには3時間ほどそれをしていたこともあるのだけれど、ずっと心は高揚していて、ただ楽しかったことを覚えています(それにしても3時間は割と正気の沙汰じゃない気がするので、なにか狂ってたんでしょうねその時のわたしは笑)。
駅や空港にいて、電車や飛行機を使おうとしている人たちの目的地は、当たり前だけどてんでバラバラです。主要駅やハブ空港と言われる規模になるほど、目的地の選択肢は増えていく。それこそ羽田くらいに大きな空港なら、新千歳へ行きたい人と那覇へ行きたい人と伊丹に行きたい人が同じ保安検査場に並んでいるなんてこともあれば、それくらい遠くからやってきた人たちとターミナルビルのどこかですれ違うこともある。東京駅の新幹線上野方面ホームには、栃木・東北〜函館方面に行きたい人と高崎〜新潟方面に行きたい人と長野〜金沢方面に行きたい人がたった2つのホームに混在して、列形成をしている。
そもそも、空港や駅という施設にはどこかへ行きたい人だけではなく、だれかを迎えに来た人だとか、その場で働いている人もいる。物理的な目的地ではなく、そこに来る意味という目的としても、やはりみんなの目的地はバラバラで、その距離の遠さや多様さ、その多様なものが今この瞬間同じ場所を共有しているという偶然性に想いを馳せると、どうにも惹かれずにはいられなくなるのです。
あと、これは地方のローカル線の方が似合うことだと先に注釈を置くけれども、ひとりで馴染みのない地域の電車に乗るとき、わたしは自分が【その地域の方の日常に放り込まれた異分子】であると認識して乗車します。それにも心地好さを感じるから。
わたしはその電車の中においては、非日常の存在になる。だって馴染みがないのだから。
今一緒の電車に乗っている彼らは、ほとんどがこの場所に暮らして、生活の移動手段として電車を使っている人たち。わたしがこの場所に来なければ、今この電車に乗らなければ、このたった数分間の列車内の空気をこの先一生共有しないであろう人たち。
明日には顔も忘れてしまうだろうし、名前も年齢も、普段何をしているのかも、この電車でどこへ向かうかすらも、お互いに何も知らない。それくらい遠い遠い他人同士なのに、その瞬間だけは、その人たちがいるこの街が、この風景が、今体験している空気感みたいなものが、全てがうつくしくて好きだなぁ、と感じてしまう。
それだけじゃなく、わたしが息をするのに必要な音楽も本も、その他好きだと思ういろんな物事にも、あの結論は適用できる。今存在する全てのものは、もしひとつでも交差するものが足りなければ、今の形にはならなかった。唯一その交差が全て成立するからこその今この瞬間が存在する。それなら、途方もない偶然性の先に成り立つそれに、惹かれないでいる方が無理な話、なのかもしれない。
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人間は、最後は1に収束する。誰も抗えない、孤独の1に。
持てるものには限りがある。生きられる時間には限りがある。
そして最後に、死という現象を以ってして、世界から自分が切り離される。
ぼくたちは本能のどこかで、無意識的に、最後にすべてがなくなると知っている。
だからわたしは、何かが交差する瞬間に、それがいくつも折り重なる奇跡に、どうしようもなく惹かれるのかもしれないなと、そんなことを思うのでした。
スキを押すと何かが出ます。サポートを押しても何かが出ます。あとわたしが大変喜びます。